【一、日本国においては、欽明天皇の御宇に、・・・】
ここでは、秦河勝の出生の話と聖徳太子との関わりについて書かれ、なぜ、申楽と呼ばれるようになったか、について書かれています。
そして、最後に聖徳太子に刃向かった物部守屋は秦河勝が乗りうつった矢に当たって死んだ、と書かれています。
なんか、釈然としない気分です。
物部守屋はご存じのように、神徒系で、仏教系の蘇我氏と対立して、負けた。
その時に、聖徳太子が建立したのが、四天王寺です。
聖徳太子は物部を討たせてくれたら、ここに日本最初の大きなお寺を建てますと願を掛け、それで建てられたのです。
四天王寺の境内には守屋廟というちいさなほこらのようなモノがあって、そこにまつられています。
しかし、秦河勝は、当然ながら秦氏ですから、仏教系ではありません。
アメノウズメノミコトが芸事の初めですから、神をまつる氏族だったはずです。
最後に、矢に乗り移って守屋を仕留めた、というのですから、これはただごとではありません。
時代は下って、観阿弥・世阿弥ですが、観阿弥は楠木正成の甥であると言われています。
『根も葉もない話である』と言った罰当たりがいるそうですが、どう考えたら根も葉もない事なのか聞きたいくらいです。
楠木正成と観阿弥が親戚だったとして・・・
楠木正成が足利尊氏と戦って、一族郎党討ち滅ぼされたのは知られていますよね。
私が住んでいる南河内の英雄ですし、民謡河内音頭でも、足利尊氏は『朝敵』とされています。
だのに、観阿弥は足利将軍家にすり寄った。
罰当たりはひとは、これを根拠にしているのかもしれません。
天皇と秦氏の関係の深さは言うまでもありませんが、それにしても天皇を中心にすばやい変わり身を見せています。
まさに変幻自在、自由自在。
NHKオンデマンドでまだ『黄金の日々』を見ていますが、当時の堺商人も特定の武士に付いていない。
付いていたのは織田信長に付いていた今井宗久だけです。
あとは、注文があれば、どこにでも商品をながした。
三好勢と織田双方に武器を売ったのが堺滅亡の原因だと言われていますが、仁義の整った商いであれば、自由自在であったようです。
つまり、観阿弥・世阿弥たち能楽師も商人も、一定の権力構造に組み込まれず、自由に活動していたんですね。
千利休も秀吉に仕えてはいたものの、決して家来にならず、独立を保ち通した。
北野大茶会を最後に、秀吉から遠ざかったと言われています。
観阿弥も利休も為政者からはえらい目にあわされているのです。
観阿弥は尊氏に親戚を殺されているだろうし、一族は身分を落とされた。
秀吉は大阪へ商人を移動させて堺を衰退させた張本人です。
そんな人の側に仕えるというのは、まさにしたたかともいえるでしょう。
しかし、それだけではないように思います。
カタキに仕えてまでカネが欲しいか、という考えもあるでしょうが、観阿弥も利休も自分の利益だけの為にやっていたのでは無いと思うのです。
いまでは考えられないことですが、昔は為政者に刃向かえば殺されるか身分を落とされるかです。
それも一族郎党共々です。
為政者の懐に入るということは、自分の同族や故郷を護るための最大の防御だったのではないかと思います。
その時の武器は、芸や商いです。
堺はその後、徳川家康によって本当に壊滅させられてしまいます。
商人も芸人も時の為政者によって、振り回され、良いこともあるけれど、煮え湯を飲まされることもある。
でも、どんなときも、たくましく、そして変幻自在に生き抜いてきたんですね。
世阿弥がどんな気持ちでこの部分を書いたのか、じっくり想像してみたいです。
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