【おほかた、能の是非分別のこと、私ならず】
世阿弥は
本物の幽玄を基本芸とする絶対的芸位というものは、時代がどんなに変わっても、観客の評価に変化は起こりえないように想われる。
だから、歌舞幽玄の花を咲かせる種となるような作風を基本として、能を制作すべきなのである。
として、この書を結んでいます。
私がいろんな染織展、大阪市立美術館で行われた、小袖展やびんがた展、日本民芸館での展示などをみて想うのは、染織の美というのは、基本的に大らかで力強く、かつ優しくなくてはならないのではないかと言う事です。
どれ一つとして、人間の感情を切り裂くようなものや、後になってイヤな後味の残るモノが無い。
なにか優しく温かい気持ちになる。
それは衣というものが基本的に暖かさを求めて着られたものであり、文様は第二の皮膚としての衣類に、呪術的意味を込めて染め込み織り込まれた物であるからではないかと想うのです。
色、文様、ともに着る人間を護り、幸福に導くための物であり、見る人を優雅な気持ちにさせ、気品を感じさせる為に着用されたんです。
他人から蔑まれたり、疎まれたりするために作られたり着られたりした着物は1枚とてないはずです。
能が幽玄を永遠のテーマとするのだとすれば、着物にも上記のような事がいえるのではないかと想います。
舞台芸術にもいろんな種類があり、それぞれの存在意義や目指す所は違うと想います。
衣類でも同じではないでしょうか。
伝統染織に託された物、お客様が期待されている物、それは一体何なのか?
私達の先人は、着物というものにどんな思いをもっていたのか?
能衣裳にもいろんな意味が隠されていると聞きます。
衣裳にいろんな思いや、願いを込める。
これこそ日本人ならではの文化ではないでしょうか。
私達、伝統染織に携わる者は、先人から受け継がれてきたそういう気持ち、心をこそ、着け継いでいかねばならないのではないかと想います。
この50話にて、『商道 風姿花伝』は結びとさせて頂きます。
長い間、ご愛読まことにありがとうございました。
このブログは、生産者の方が販売の場に立たれたときに一助になればと書き始めたものでした。
未熟な商人の身でありながら、えらそうな事を書き連ね、恥ずかしくもありましたが、
何かのご参考になればと想い、なんとか続けて来られました。
若輩者のたわごとばかり書いて参りましたが、お許しください。
また、来年からは新たな連載をいたします。
ご意見等、いただければ幸いに存じます。
1年間ありがとうございました。
萬代屋竹渓斎宗晏 拝
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