もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第7話

『もずやと学ぶ「芸術と経済のジレンマ」』第7回

第6章 舞台芸術団体の財政状態

冒頭に『舞台芸術の現在の経済状況に関する報告の中で、この章はそのクライマックスにあたる』とあります。

『舞台芸術の経済的安定性は、結局のところ舞台芸術団体の財政に依存しているのである』

そして、

ウィリアム・シューマンの『舞台芸術は解っているのにあえて儲け損なうビジネスに従事している』という言葉を紹介しています。

クライマックスというわりには、ちょっとわかりにくい導入ですね。

この本の良いところは、データがいっぱいあって、難解そうにみえても、最後のところでまとめてくれているところです。

もちろん、全部読んでいますけどね(^^;)

最後のまとめを引用します。

アメリカの職業としての独立した非営利的な舞台芸術に関する所得不足の総額は、現在の経済水準からみれば規模が小さい。しかし、個々の舞台芸術団体については、所得不足が生と死の違いを意味することがあるし、あるいは少なくとも満足のいく水準の公演と受け入れがたい水準の公演との違いを意味する事がある。

ここには、舞台芸術団体の財政問題がある。財政の不足によるッ苦悩がほとんど普遍的に見られ、重大な赤字を引き延ばしてきた団体は舞台芸術の質を落とさなくてはならないという脅迫を受けているのである。

(引用おわり)

つまりは、財政の健全化と芸術の質どちらをとりますか?ということです。

『どちらをとりますか?』

文楽の助成金を削ろうという人がいるみたいですが、その人は『文楽なんてくだらない』と思っているんでしょうか。

そうでないとしたら、少なくとも私が為政者なら、『なんでこんなおもろくてすばらしいもん、皆みにけぇへんのや?宣伝がたらんのか?市民の意識がひくいんか?どっちにしても、これはなんとかして、いけれるようにせな、宝の持ち腐れや』と思うでしょう。

文楽が素晴らしいと思っていたら、その質を落としてまで、財政を良くしようとは思わないはずです。

事はそれ、天下の台所、大大阪でのことでっせ。

市長さんも、議論が高まることを予想して文楽へ客を呼び込もうとした、っちゅうなら、どえらい男ですわ。

けど、ツイッターで言い訳しているのみると、そうでも無いようでんな。

経営資源という言葉があって、その要素として『ヒト・モノ・カネ・ノウハウ・情報』があげられます。

文楽であるもんは何か?そして無いもんは何か?

ヒト・・・・演技者はある(名人が現役)、でも興行を担当する人がいない?

モノ・・・・ある(歴代の人形などの資産と文楽劇場など)

カネ・・・・無い、ということになってます。

ノウハウ・・・芸のノウハウはある。でもそれを宣伝するノウハウがない。

情報・・・・・ない

ない所を補ったら良いわけですわ。

市の財政が厳しいというなら、他のところでこの経営資源を補えばええわけです。

東京では満杯になるのに、大阪はガラガラと良く言われます。

その言葉を聞く度にいろんな意味でむかっ腹がたつのですが、これは誰に言われんでも、理由がわかります。

地元民やからこそ、解る。

一番は、そういう古典芸能に関心あるひとが人口比にして少ない。

これは、大阪が現世御利益を求める気質であることと関係があると思います。

笑いたい時は笑えるところへ。うまいもん食いたい時はうまいところへ。客を喜ばしたろ思ったら、客がよろこびそうなところへ。

私が文楽に何を求めるかというたら、一つは人形の衣装、二つは人情話、三つは芸、四つに見た後の一杯、五つに地元の伝統芸能への貢献、とうかんじです。

それと大きいのは、悲しいかな東京と比較して、大学が少ない事も大きな要因だと思います。

この本にも書いてありますが、オペラやオーケストラに行く人はかなり高学歴だということです。

文楽に関していっても、ある程度の古文や歴史の基礎知識がないと、全然ちんぷんかんぷん、慣れる前に寝てしまうと思います。

愛好者に文学部出身の女性が多いように思われるのも、そのせいじゃないでしょうか。

そして、言葉がわかりにくいというのが歌舞伎と能・文楽の大きな違いじゃないでしょうか。

文楽劇場の舞台の上には現代語訳が出るようになっていますが、これを見ていたら人形が見られません。

能でも謡曲本と首っ引きになって舞台を見ていない人がたくさんいますが、これでは能を観たことにならないように思います。

私も、言葉を全部理解できる訳ではありませんが、解らなくても文楽なら人形、能ならシテの演技に集中します。

昔はマイクなんてなかったし、薪能では、声なんて聞こえなかったんじゃないでしょうか。

訳がわからないから行かないんだとすれば、TVで公演情報を流してあらすじを紹介したらどうでしょう?

市長さんもぶら下がり会見の時に、文楽にまつわる話を交えてコメントすれば、みんな彼を見直すし、文楽への関心が高まるはずです。

マンゴーもって、グーなんてしないでいいから、彼らしい貢献の仕方があるように思うんですよ。

伝統芸能や伝統工芸だけじゃなくて、為政者はもっと地元のPRに勤めるべきじゃないでしょうかね。

私は大阪府民として大阪のイメージがたこやき、くしかつ、よしもと、になっているのに我慢がならないのです。

芸術性を落とさずに、財政難を解決するにはお金を上げるだけじゃないはず。

そんなことも解決できないで、国政に出ようなんて、まさか思てぇしまへんやろな。

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第6話

しばらくサボっていましたが、またはじめますね(^^;)

第5章 実演家、作曲家、劇作家および振付師

この章の冒頭にはこう書かれています。

『仕事がうまく行った時の個人的な満足感こそ、経済的にほとんど恵まれない職業で得られる最高の報酬です。私は音楽家になってよかったと思います・・・自分の子供たちが音楽家になりたいといえば、それでいいでしょう・・・しかし、娘には音楽家と結婚してもらいたくはないのです(あるオーケストラ団員の意見)』

労働省の職業案内にはこう書かれているそうです。

『結婚したり、家族を養っていくために十分な生活費を得るためには、2つ3つ、あるいは4つの仕事の兼業も辞さないと決心し、それに必要な能力もそなえている・・・というのでない限りは職業として音楽を選択すべきでない』

また、ニューヨーク・シェークスピア・フェスティバルのプロデューサー、ジョセフ・パップは『銀行や家主は、俳優は生計を立てるためのはっきりした手段のない、信用上危険率の高い存在と見なしている』

各々の職業について分析したあと、この章の最後ではこうまとめています。

『多くの面で、実演家の労働条件は、一応まずまずといった水準をはるかに下回っている。エネルギーを消耗させる巡業、職業上の支出の高さ、頻繁に起こる失業とそれに伴う不安定さ、少ない有給休暇、しばしば見られる退職金制度の欠如。結局、万が一私たちがそこに飛び込んだら、ほとんどの人にとってそれは悪夢の世界と映じるだろう』

『芸術家が現存の芸術に対して果たす貢献と引き替えに、社会が差し出してきた補償は、十分に寛大だったとは言い難いのである。どんなに金がかかっても上演したいという実演家の気持ちに、私たちは平然と寄りかかってきたのである』

この本の著者は『芸術は豊かな社会を実現する上で、必要不可欠なものである』という事を前提としています。

不必要なモノなら、どんなに頑張っていようが、それはタダの酔狂かもの好きでしょう。

でも、必要だと思うから、『平然と寄りかかってきた』とある意味で私たちを糾弾しているのです。

では、『芸術とは何か』

それは『強く魂を揺り動かすなにか』なのだと私は思います。

見た、聞いた、触った、その時に、なにか心の奥底にズシリと感じるものがあった。

それが何かは解らない、でも、まるで種を植え付けられた畑の様に、その魂の動きから、自分の中に芽生えを感じる。

芸術とはそういうものなんじゃないかと思うんです。

ただキレイとか、細かいとか、上手いとか、面白いとかいうのとちがう。

洗い流すものではなくて、植え付けるモノ、それが芸術じゃないでしょうか。

技を磨くといいいますよね。

磨くととんがってきます。

滑りも良くなる。

だから、グサッと来るんです。

私は、芸術の価値は大衆に受け入れられるかどうかで判断するべきではないと思います。

堺には世界一の包丁があります。堺・打ち刃物といいます。

日本で、そして世界で一流の料理人が使っています。

でも、この包丁を素人が使いこなせるかというと、そうではないだろうと思います。

もし、不況で包丁づくりの名人が窮乏することになったとして、その技の価値が落ちるでしょうか。

そんな事はありません。技にはそれ自体に価値があるのです。

そして、包丁作りの職人は何を目指すのか?

素人ではなく、一流の料理人に使ってもらえるような包丁をつくるように精進するでしょう。

高価な素人が使えないような包丁を作っている職人の仕事に価値がないでしょうか?

無いというのはすべてを金に換算する商人の世界の話で、技の世界、芸の世界は違うはずです。

私は商人であることに誇りを持っていますが、世の中のすべての人、とくに為政者が商人的感覚を持ちすぎるのはいかがなものか、と思います。

お金に換算されない、大切な価値のあるものはたくさんあるのです。

この章を読んでいると、身につまされます。

私も同じように巡業生活をしているからです。

お金にならない仕事でも、必ずお金は出ていきます。

動けばお金がかかる。

もちろん、精神的、肉体的負担も大きい。やった人でないと解りません。

実演者は、演技をしている以外にも何時間も稽古を積み、打ち合わせをしています。その仕事もいつも安定してあるわけではない。

彼らが巡業と共に持ってまわる芸術は、その種を世界にまくことになるのです。

彼らの音楽を聴いた若者は、クラッシックの世界に入るかもしれないし、新たな音楽を生み出すかも知れない。

音楽から発想が湧いて、絵を描く人もいるかもしれない。

そして、人々の価値観や生活観を変えるかもしれない。

彼らは使命感や達成感でやっているのでしょうが、こんなに社会に貢献している人達が、苦しい思いをしているのを私たちは見て観ぬふりをし、放置して良いモノか。

『よりかかっていていいのか?』と著者は問うているのです。

昨日の産経新聞に『芸術の支え 最後は市民』というコラムがありました。

『東京で15分でチケットが売り切れる文楽も、大阪ではガラガラ』という事実に、『文楽は大阪の市民でで支えろ』というわけです。

ごもっともなようで、間違っています。

文楽はもう大衆芸能の域を超えてしまっています。

もとは大衆のものでも、今は違っています。

それは退化でも怠慢でもなく、まぎれもなく進化です。

能はどうですか?

元は申楽で、物まねや簡単な芝居をやっていた。

田楽などは田植えや収穫の時に行われていた訳です。

そこから、能へ進化した。

今の能を観て、大衆化が可能と思う人はいないでしょうし、するべきでもないでしょう。

では、大衆に受け入れられない芸術に価値が無いのか?

収益が得られないことを責めるべきなのか。

それは商人の発想で、私が勧進元なら怒ります。

でも、伝統芸能や伝統工芸というのは、『私たちの宝モノ』なんです。

欧米ではクラッシック音楽やオペラがそうでしょう。

要るとかいらないとか、儲かるとか儲からないとか、そういう次元の話ではないはずです。

堺の包丁作りの名人に、『儲けろ!』と言ったら、場合によっては刺されるかも知れませんよ(^^;)

そんな事を彼らは目標にしているんじゃないはずです。

私たちが生きているこの世の中で、お金に換算できない部分を担当してくれているんです。

それはみんなで支えなければならない。

みんなで支えるというのは、みんなで観に行くこともですが、みんなのお金で維持する、携わる人も含めて護っていく事が必要なんだろうと思うんです。

大神神社や伊勢神宮に対して、参拝客が少なくて、公費が投入されているとして、だからもっと儲けろとか、もう潰してしまえとかいいますか?

熱くなってきたので、先に進みましょう・・・(^_^)

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第5話

第4章 顧客

はじめに、なぜ、顧客の構成に関心を持つのかが書かれています。

?どんな人が集まっているのかに注目するのかは、観客の一人となる事が個人の幸福に繋がると信じるからである。

?チケットの価格決定や流通方法を検討するには、観客の特徴を知らねばならないからだ。

?政府支援の問題と結びついている。

?効果的なマーケティングを指針とすれば、当の商品を必要とする人々の事を全くしらない訳にはいかない。

それから色々と細かく書いてあるのですが、結論としては、

?ジャンルや都市や公演は違っても、観客構成には注目すべき一致が見られること。

?観客はアメリカ人口のかなり狭い部分から集まっている。概して、観客は驚くほど高学歴で、高所得、主に専門職で、青年から中年のあいだである。

?観客の層と動員数をもっと大きくしようとしたり、学歴が低い人やそれほど裕福でもない人の興味をひこうとしたりしても、これまでのところその効果はたいして上がっていない。

?観客の構成は入場料を無料にしても変わらない結果が出ている。

現実にはもっと細かく書かれていますが、要旨をまとめれば以上のような事です。

これは1960年代のアメリカでの事ですが、いまの我が国の舞台芸術の状態と比べてどうでしょう。

この時代のアメリカに於いては、統計上は男性の観客が女性よりも多い、ということになっています。

性別・・・男性が多いがほとんど変わらない(データの信憑性に疑問)

年収・・・高収入

学歴・・・非常に高い(大学院以上が多い)

職業・・・専門職

これが舞台芸術の主な観客の特徴です。

我が国においてはどうでしょうかね?

性別・・・圧倒的に女性が多い

年収・・・高収入が比較的多い

学歴・・・相対的に高い

職業・・・???

という感じでしょうか。

舞台芸術を見にらっしゃる方は、お友達にどんな方が多いか考えてみてください。

私の場合、能をよく観に行きますが、誰かと一緒に観に行くということはほとんどありません。

良く観に行くという人は、謡曲や仕舞・お囃子を習っているという人が多いです。

それも圧倒的に女性が多い。

文楽もよく行きますが、これはもう少し範囲が広いですが女性が圧倒的ですね。

感覚的には女性9に対して男性が1という感じでしょうか。

所得層は、これは解りませんが、女性でも自分で仕事をしていて収入があり、標準以上の生活をされていることが多いと思います。

学歴、これも聞いたこと無いので解りませんが、大学・短大以上じゃないかと思います。いまじゃ、標準以上という感じですかね。

職業はさまざまですが、女性が多いので割と時間のある自由業、OL,専業主婦が多いのでしょうか。

と考えてみると、女性が圧倒的という以外は、標準以上であれば、ひとそれぞれという事がいえるのでしょうか。

じゃぁ、何が舞台芸術を観に行く決め手になっているのでしょうか。

私は、ライフスタイルや価値観、そしてそれの元になる環境というのが大きいのではないかと思います。

今のアメリカであれば違う結果がでたかもしれませんが、我が国とアメリカの歴史の長さ、国の成り立ちの違いも大きいのだろうと思います。

お金をたくさん持っていたり、学校でたくさん勉強したりしても、舞台芸術を見たいと感じるとは私には思えません。

当時のアメリカでは、その層にいれば観に行かねばならないような社会構造になっていたんじゃないでしょうか。

日本では、能や文楽を観に行かなくても、オーケストラの演奏を聴きに行かなくてもバカにされることはありません。

詳しくは知りませんが、当時のアメリカはそうじゃなかったんじゃないでしょうか。

金持ちが絵を買い集めるというのも同じような精神構造じゃないでしょうか。

我が国では美術品を買い集めれば、良く言われて『好事家』『趣味人』、悪く言われれば『成金』『道楽』で、特に尊敬されることは無いように思います。

それが尊敬に値するかどうかは、その人がどんな家に生まれ、どんな社会活動をしてきたか、で決まっているような気がするんです。

骨董の収集家が尊敬されているなんてはなしはあまり聞いたことがありません。

伝統的なものだけでなく、宝塚歌劇や劇団四季をしょっちゅう観る人が高尚な趣味を持っていると思われることもない。

当時のアメリカでは、オペラやクラッシック音楽の場に行き、それを理解できる様でないと、社交界で恥をかくような環境があったんじゃないでしょうか。

日本でもかつてはそうでしたよね。

戦国時代は和歌、連歌、茶道、能楽をたしなんでいなければ、一流の武将や商人とは見なされなかった。

そこで、ひとつの社会が出来上がっていたんでしょう。

ところが、我が国でもアメリカでも、階層社会が壊れて、金銭が主役となった。

文化を理解しようがしまいが、どんな下劣な人間でもお金さえ持っていれば、偉いとされ、その人達が集まって、これもまた社会を支配する構造になってしまった。

これは、すなわち社会の価値構造の転換、クーデターが起こったわけです。

先日、茶道の宗匠がおっしゃっておられましたが、むかしは『茶人』という言葉がありました。

茶人というのは、茶道を歩む人、すなわち、文化人・趣味人として尊敬の念を表した言葉です。

ところが今は『茶道教授』と呼ばれる。

つまり、茶道を教える事を生業としている人、とされてしまうわけです。

それだけ芸術・文化の社会的価値が認められなくなっていると言うことですね。

当時、まだそこまで行っていなかった時代でも舞台芸術は厳しい状況に置かれていたわけですから、今はなおさらでしょう。

この本を読み進むに当たっては、時代の違い、そして国の違いを念頭に置いておかねばなりませんね。

まだまだ、前提となる分析がつづきます・・・

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第4話

第3章 カルチャー・ブーム:その証拠の再点検

明日から沖縄行くので、続けて書いときます。

1960年代の米国ではカルチャーブームと言われる事があったようで、これに対して舞台芸術の分野で考察がなされています。

まず、なんの為にこれを検証しようとするのか、です。

『カルチャー・ブームはこの10年でおそらく最もよく宣伝された芸術現象である』

『とはいうものの、この現象に異を唱える声も上がってきている。懐疑的な解説者達は、芸術への関心がよみがえったと声高に騒いでも、それは自己欺瞞に過ぎないとほのめかしてきた。』

『カルチャーブームを差異のない1つの大きな塊として扱うことの危険性がはっきり示されるであろう』

『この章では、合衆国において人々が舞台芸術に向ける関心の度合いを企画数や、それらの成長率、入場料のための支出とその他の消費支出との関係、といった物差しをつかって測定し、明確に示してみたい。つまり、この章は、私たちの研究の他の部分にとっての背景となるのえである』

つまり著者は仮説として『カルチャーブームと言ってもジャンルによって様々でひとかたまりで扱うことは出来ない』としているわけですね。

現実には、商業演劇や、オペラ、オーケストラなど第2章で挙げたそれぞれのジャンルについて検証しています。

入場料や入場者数の伸び率は、人口動態や経済成長率、収入の増加率、貨幣価値などを割り引いて実質的なモノに換算して比較しています。

それぞれ書くととてつもなく長くなるので、ご興味おありの方は本を買ってください。

都合の良いことに、著者は最後にまとめてくれています。

『それぞれのジャンルや地域性という面から見ても、状況は同じく一様ではない。舞踊、地域劇団、オフ・ブロードウェイの活動には、実質的成長があった。ただし、オフ・ブロードウェイの発展はすでにあっけなく終局を迎えてしまったかもしれない。メジャー・オーケストラとオペラはどうにか持ちこたえてきた。そして、ニューヨークの商業演劇は、しばしば祝えるほど急速でないにしろ、衰退の道をたどっているのである。』

『要約しよう。このkろくの分析を通して、私たちはこう結論することができる。この国は大きな文化ルネッサンスの時代に入ったのでもなければ、芸術的に不毛の地の取り残されているのでもない。というよりもむしろ、しばしばあることだが、どちらとも言えない中間地帯にいるのである。ーすなわり、最近15年間を通して現存の芸術におけるプロ活動の発展は、過去の趨勢の延長線上にあるということである。しかしながら、いくつかの特別な活動領域では、間違いなく過去数年間に、沸き立つ発展の雰囲気が現れ、それが輝かしい未来を予感させる熱狂を生み出してきたのである。こうしてみると、現存の芸術への関心はおそらくこれから先、もぅっと大きくなっていくであろう。しかし、芸術に現在携わっている人々の多大な努力なしで、観客数の世界的増大が起きると期待させるような目立った兆候は、目下のところほとんど見あたらないのである』

このカルチャーブームに対する仮説の検証はなんの為に行われたのでしょうか。

私は芸術関係者、そして、鑑賞者にむけて警鐘を鳴らしたんじゃないかとおもうんです。

『カルチャーブーム言うてもそんなもん、実際にはあらしまへんで』という事を明らかにして、この研究の意義を高めているんでしょうね。

そうでもなければ、『もう、このアメリカっちゅう国はやなぁ、芸術でバンバンや。そんなもん取り越し苦労や。アカンアカン』という風になってしまうでしょう。

『調子のええ事いうてる場合ちゃうで、ほんまはそんな儲かってへんねんで。昔の川崎球場みたいなもんらしいで』

と言うことでしょう。

世の中にはこれとよく似た現象はたくさんあって、すごく流行っているレストランが急に閉めてしまうことがあります。

『あんなにはやってたのに、なんでやろ?』という声を良く聞きますが、私は店に入って客の様子を見て、価格を見れば、その店がどないなるかわかります。

つまり、流行っているように見えても、客が回転していない、回転していないのに、低料金ではやっていけるわけがないんです。

レストランというのは昼と夜だけ。夜は高く取れてもビジネスランチの店では回転が勝負です。

そんなところに安くて美味しいからと、女性客がおしかけて長居をされたんでは、ランチ客は1回転で終わりです。

それを見るには、どれだけの客が飲み食いしている状態にいるかを見ればわかりますね。

ほとんどの客が食べていなければ、売り上げには繋がっていない状態と同じです。

夜は長居してもらってもいいのですが、勝負はドリンクです。

食うのは限られます。どれだけ酒を売るかです。

ですから、流行っていそうでも儲かってない、入っている様でも、入っていないなんて事は世の中にいくらでもあるんです。

沖縄でも修学旅行生のバスがとまる店は流行っているように見えます。

でも、現実には潰れる所も少なくないのです。

なぜか。買わないのです。買わないのにトイレだけ使う。場所は広いところが要る。

商売人としてご飯を食べていこうとするなら、そういう目で他のお店、飲食店や衣料品店を見る習慣をつけなければいけません。

あ、ここは商道風姿花伝ちゃいましたね (^^;)

この本は、経済学者が書いていて、バイブルとも言われる本だけに、きちんとした論文のような形式がとられています。

キチキチと前提から詰めてきています。

これだけきちんと書かれたら、反論するのも大変だと思いますね。

今のところは、とにかく仮説を実証して、前提を固めている部分です。

徐々に、論理は展開されていくものと思います。

あ、これで心おきなく沖縄にいけます (^o^)

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第3話

連休で時間があるので、書けるだけ書いときますね。

【第2章 組織】

ここでは、各舞台芸術の組織と歴史について触れられて居ます。

はじめに、

『一概に舞台芸術といっても、それは、その構成要素について常に一挙に語りうる均質な統一体を構成していないことが示されるだろう』

『企画の規模、芸術的・財政的目標、組織の古さ、経営構造の複雑さにおいて実にさまざまなのである』

つまり、舞台芸術の財政難というのは、その組織のあり方に問題があるのだとは言えないということでしょうね。

著者はこの組織と歴史に触れることの目的について、

『今ある芸術を生き延びさせてきたグループの、豊かで変化に富んだ個性に触れて頂くためである』

としています。

いろいろな特徴があって、それを踏まえて全体像を観ていこうということですね。

これは工芸にも言えることで、染織とか陶芸とか個々に観るのではなくて、工芸全体としてみる。そしてさらには、舞台芸術、工芸と分けてみるのではなく、芸術全体として観てみるという視点が大事だと私も思います。

では、それぞれ見ていきましょう。

[オーケストラ]

米国ではずば抜けて長い歴史を持ち、今回の本を書く上で統計分析の核となったということです。

そして、

オーケストラの初期を財政面から見た場合、極めて特徴的なことは、どれほどまでに支援を少数の非常に裕福なパトロンに仰いでいたか、ということである。

こう書かれています。

また、

だからといって、オーケストラの初期には財政的な危機がなかったなどと結論づけてはならない。総じて自体は反対であり、その事例を挙げるのは容易である。

とも書かれています。

組織面では、事業規模が小さい割には組織が大きくて、大オーケストラは通常30人ほどの経営スタッフを抱えている、ということです。

今はどうなのか、日本ではどうなのか、私は知りませんが、オーケストラの演奏家の数と比較したらいかにスタッフが多いかよくわかるでしょう。

[商業演劇]

米国での商業演劇の流れは以下のようになるようです。

ストック・システム:地元劇団とある劇場が永続的に結びつく

1820年頃から著名な英国の俳優・女優が米国を巡業し、地元劇団と共演をはじめる。

英国の名優に影響された米国の俳優・女優がストック劇団の演技水準に満足しなくなる。

共同体(コンビネーション)システムとなる(1890年頃):スターを抱えて巡業

演劇が大きなビジネスとなる=価格支配カルテル(シンジケート)の傘下に入る。

スターの法外な給料、不況の到来が深刻な影を落としはじめる・・・

という流れです。

組織面では

商業演劇がオーケストラとはっきり区別される特徴は、商業演劇の組織が永続性を持たないということである。

つまり、ある制作ごとに参加するその他のすべての人々(演出家、俳優、プランナー等)はあたらしい企画ごとに集められる。

そして、

1つの制作についてコントロールの及ぶ範囲が、プロデューサーと、演劇の上演される劇場主との間で截然別れている。

とう特徴があるそうです。

歴史的流れをみれば解るような気がしますよね。

[オフ・ブロードウェイ演劇]

はじめの前提としてこう書かれています。

『一般に、オフ・ブロードウェイはニューヨーク市における最も実験的な演劇の場である。それは、グリニッジ・ビレッジ103番街にかけてマンハッタンの様々の場所にある小劇場である。オフ・ブロードウェイの企画がかなりの利益をあげることは滅多にない。それにもかかわらず、オフ・ブロードウェイはあたらしい脚本家、新人の演出やほとんど無名の俳優達に作品の発表の場を提供し続けようとしてきた』

1963-4年に急速に伸びてきたオフ・ブロードウェイですが、その経済状態は常に不安定で、1964−5年のシーズンには著しく下降し、活動が停止するのではないかと危ぶまれた、ということです。

そして、その理由のひとつとして、このシーズンはじめに起こった俳優組合の最低保障賃金の上昇が挙げられてきた、んだそうです。

それまでの俳優への報酬は非常に少なかったのも事実で、他の仕事に移った人も多かったそうです。それに対して商業演劇以外の演劇を確立しようとする動きもあったようですが、あらかたうまく行かなかったということです。

『収益よりも芸術的水準や実験精神が優先する、商業的色彩の薄い演劇への希求の最初の出現が第二次世界大戦以降の発展の結果だと断定できなことだけはあきらかである』と結論づけています。

『はっきりさせておかなければならないのは、オフ・ブロードウェイのほとんどがある意味で商業的だと言うことだ』

商業的であるということ、芸術的・実験的であるということ・・・

この時期の米国では、芸術性が高ければ興業は成功する、流行らないのは芸術性・実験性が低いからだ、という話があったのでしょうか。

著者は、芸術性・実験性の問題ではない、と感じている様です。

あくまで商業的・営利的にやって、それでも上手くいかないのだ、という事なのですね。

そして、

『肝腎なのは、オフ・ブロードウェイの劇場は、実際には投資家、プロデューサー、上演者から補助を受けており、少ない金でも仕事をしたいという彼らの意欲こそが、どんなパトロンの贈与に負けぬほどの、目に見える財政上の寄与となっていることである。』

なるほど、ですね。

オフ・ブロードウェイの劇場は、明日のスターを夢見て、少ない報酬で舞台に立つ人達によってなんとか成りたっているということなんですね。

もし、その体制が壊れたら、ひとたまりもないということですね。

つまり、劇場としたら、『舞台使わせたってる』という感じなわけです。

演劇をやる人は、極端な話が、『タダで良いからやらせてほしい』

スター街道の道のりとして、これは存在意義のあることかも知れませんね。

でも、いつまでも続くわけではありません。

あくまでも過程だから、これでいけるわけです。

本来プロの世界というのはこういうモノで、これを経て、本物になった人だけが一流の舞台に立てるというのが本当なんだろうと思います。

我が国ではそうともいえませんからね。

それが、すべての世界で堕落を生んでいる原因だと思います。

[地域集団]

とばします

[オペラ]

『グランド・オペラの経済面での顕著な特徴は、その運営が極めて複雑であり、しかも上演に金がかかることである。実際、この芸術ジャンルは、その他の舞台芸術が抱える経済的負担をすべて併せ持っている』

ひとつのオペラを上演するのに、しめて総勢200〜300人必要なのだそうです。

それで、オペラハウスの収容人員は4000名くらいだそうですから、一人の実演家に対して20人の顧客ということになります。

それで、スターを入れないと観客があつまらないと来ている訳ですから、算盤があうわけないですよね。。

この時期、1964−65年のメトロポリタン・オペラの赤字が150万ドルだったんだそうです。

150万ドル・・・1ドル360円の時代です

いくらですか・・・

100円で1億5千万円でしょう。ということは、4億8千万円・・・当時のお金ですよ・・・

私が生まれた1964年ころ、アイスクリームは10円でした・・・

実演者だけでなくて、それ以外にも莫大な数の経営スタッフがいるそうです。

[舞踊]

『現代舞踊は、ジャズを別にすれば、アメリカが作り出し、アメリカ人が明らかに他よりも秀でた唯一の舞台芸術である。従って現代舞踊が、国際的に高い評価を受けてきたにも関わらず、我が国の芸術ジャンルの中で最も貧しいジャンルであるということは奇妙な事である』

『不思議なのは、我が国の舞踊団の多くが、外国では、世界のいかなる舞踊団にもひけをとらない程に喝采を受けているにも関わらず、国内での観客動員数において外来のバレエ団にかかろうじて追いつけたのは、ニューヨークシティ・バレエのみだという事実である。』

これは、日本の古典芸能を考える上でヒントになる事柄かもしれませんね。

文楽が東京ではチケットが取れないほどの人気なのに、大阪の文楽劇場はガラガラというのも理由がわかる気がします。

芸のレベルや芸術性の高さではなく、観客動員は『興味』によって影響されるということじゃないでしょうか。

玄人受けする『ほんまの芸』と一般受けねらった客引き。

どないしたら、両立するんでしょうか。

まだ、先は長いので、だんだん考えて行きたいと思います。

[地理的分散]

結論としては、

ニューヨークに集中しているように思われがちであるが、遙かに広く合衆国全土に分散している。

ということです。

そして、この章の最後として、

合衆国において、舞台芸術の組織が、規模、運営の複雑さ、ある特定のジャンルに含まれる団体の数など、思い浮かぶほとんどすべての点において、極めて多様であることを、私たちは見てきた。その多様性にも関わらず、これらの組織の財政的な問題が、ある共通した原因に帰因するものであろうという事を示すつもりである。

と書かれています。

つまり、いろいろあるけども、みんなお金でこまっとる。その原因はたぶん、一つや、というわけです。

これから具体的な話に入っていくんですね。

第3章は『カルチャーブーム:その証拠の再点検』です。

連休で時間があるので、書けるだけ書いときますね。

【第2章 組織】

ここでは、各舞台芸術の組織と歴史について触れられて居ます。

はじめに、

『一概に舞台芸術といっても、それは、その構成要素について常に一挙に語りうる均質な統一体を構成していないことが示されるだろう』

『企画の規模、芸術的・財政的目標、組織の古さ、経営構造の複雑さにおいて実にさまざまなのである』

つまり、舞台芸術の財政難というのは、その組織のあり方に問題があるのだとは言えないということでしょうね。

著者はこの組織と歴史に触れることの目的について、

『今ある芸術を生き延びさせてきたグループの、豊かで変化に富んだ個性に触れて頂くためである』

としています。

いろいろな特徴があって、それを踏まえて全体像を観ていこうということですね。

これは工芸にも言えることで、染織とか陶芸とか個々に観るのではなくて、工芸全体としてみる。そしてさらには、舞台芸術、工芸と分けてみるのではなく、芸術全体として観てみるという視点が大事だと私も思います。

では、それぞれ見ていきましょう。

[オーケストラ]

米国ではずば抜けて長い歴史を持ち、今回の本を書く上で統計分析の核となったということです。

そして、

オーケストラの初期を財政面から見た場合、極めて特徴的なことは、どれほどまでに支援を少数の非常に裕福なパトロンに仰いでいたか、ということである。

こう書かれています。

また、

だからといって、オーケストラの初期には財政的な危機がなかったなどと結論づけてはならない。総じて自体は反対であり、その事例を挙げるのは容易である。

とも書かれています。

組織面では、事業規模が小さい割には組織が大きくて、大オーケストラは通常30人ほどの経営スタッフを抱えている、ということです。

今はどうなのか、日本ではどうなのか、私は知りませんが、オーケストラの演奏家の数と比較したらいかにスタッフが多いかよくわかるでしょう。

[商業演劇]

米国での商業演劇の流れは以下のようになるようです。

ストック・システム:地元劇団とある劇場が永続的に結びつく

1820年頃から著名な英国の俳優・女優が米国を巡業し、地元劇団と共演をはじめる。

英国の名優に影響された米国の俳優・女優がストック劇団の演技水準に満足しなくなる。

共同体(コンビネーション)システムとなる(1890年頃):スターを抱えて巡業

演劇が大きなビジネスとなる=価格支配カルテル(シンジケート)の傘下に入る。

スターの法外な給料、不況の到来が深刻な影を落としはじめる・・・

という流れです。

組織面では

商業演劇がオーケストラとはっきり区別される特徴は、商業演劇の組織が永続性を持たないということである。

つまり、ある制作ごとに参加するその他のすべての人々(演出家、俳優、プランナー等)はあたらしい企画ごとに集められる。

そして、

1つの制作についてコントロールの及ぶ範囲が、プロデューサーと、演劇の上演される劇場主との間で截然別れている。

とう特徴があるそうです。

歴史的流れをみれば解るような気がしますよね。

[オフ・ブロードウェイ演劇]

はじめの前提としてこう書かれています。

『一般に、オフ・ブロードウェイはニューヨーク市における最も実験的な演劇の場である。それは、グリニッジ・ビレッジ103番街にかけてマンハッタンの様々の場所にある小劇場である。オフ・ブロードウェイの企画がかなりの利益をあげることは滅多にない。それにもかかわらず、オフ・ブロードウェイはあたらしい脚本家、新人の演出やほとんど無名の俳優達に作品の発表の場を提供し続けようとしてきた』

1963-4年に急速に伸びてきたオフ・ブロードウェイですが、その経済状態は常に不安定で、1964−5年のシーズンには著しく下降し、活動が停止するのではないかと危ぶまれた、ということです。

そして、その理由のひとつとして、このシーズンはじめに起こった俳優組合の最低保障賃金の上昇が挙げられてきた、んだそうです。

それまでの俳優への報酬は非常に少なかったのも事実で、他の仕事に移った人も多かったそうです。それに対して商業演劇以外の演劇を確立しようとする動きもあったようですが、あらかたうまく行かなかったということです。

『収益よりも芸術的水準や実験精神が優先する、商業的色彩の薄い演劇への希求の最初の出現が第二次世界大戦以降の発展の結果だと断定できなことだけはあきらかである』と結論づけています。

『はっきりさせておかなければならないのは、オフ・ブロードウェイのほとんどがある意味で商業的だと言うことだ』

商業的であるということ、芸術的・実験的であるということ・・・

この時期の米国では、芸術性が高ければ興業は成功する、流行らないのは芸術性・実験性が低いからだ、という話があったのでしょうか。

著者は、芸術性・実験性の問題ではない、と感じている様です。

あくまで商業的・営利的にやって、それでも上手くいかないのだ、という事なのですね。

そして、

『肝腎なのは、オフ・ブロードウェイの劇場は、実際には投資家、プロデューサー、上演者から補助を受けており、少ない金でも仕事をしたいという彼らの意欲こそが、どんなパトロンの贈与に負けぬほどの、目に見える財政上の寄与となっていることである。』

なるほど、ですね。

オフ・ブロードウェイの劇場は、明日のスターを夢見て、少ない報酬で舞台に立つ人達によってなんとか成りたっているということなんですね。

もし、その体制が壊れたら、ひとたまりもないということですね。

つまり、劇場としたら、『舞台使わせたってる』という感じなわけです。

演劇をやる人は、極端な話が、『タダで良いからやらせてほしい』

スター街道の道のりとして、これは存在意義のあることかも知れませんね。

でも、いつまでも続くわけではありません。

あくまでも過程だから、これでいけるわけです。

本来プロの世界というのはこういうモノで、これを経て、本物になった人だけが一流の舞台に立てるというのが本当なんだろうと思います。

我が国ではそうともいえませんからね。

それが、すべての世界で堕落を生んでいる原因だと思います。

[地域集団]

とばします

[オペラ]

『グランド・オペラの経済面での顕著な特徴は、その運営が極めて複雑であり、しかも上演に金がかかることである。実際、この芸術ジャンルは、その他の舞台芸術が抱える経済的負担をすべて併せ持っている』

ひとつのオペラを上演するのに、しめて総勢200〜300人必要なのだそうです。

それで、オペラハウスの収容人員は4000名くらいだそうですから、一人の実演家に対して20人の顧客ということになります。

それで、スターを入れないと観客があつまらないと来ている訳ですから、算盤があうわけないですよね。。

この時期、1964−65年のメトロポリタン・オペラの赤字が150万ドルだったんだそうです。

150万ドル・・・1ドル360円の時代です

いくらですか・・・

100円で1億5千万円でしょう。ということは、4億8千万円・・・当時のお金ですよ・・・

私が生まれた1964年ころ、アイスクリームは10円でした・・・

実演者だけでなくて、それ以外にも莫大な数の経営スタッフがいるそうです。

[舞踊]

『現代舞踊は、ジャズを別にすれば、アメリカが作り出し、アメリカ人が明らかに他よりも秀でた唯一の舞台芸術である。従って現代舞踊が、国際的に高い評価を受けてきたにも関わらず、我が国の芸術ジャンルの中で最も貧しいジャンルであるということは奇妙な事である』

『不思議なのは、我が国の舞踊団の多くが、外国では、世界のいかなる舞踊団にもひけをとらない程に喝采を受けているにも関わらず、国内での観客動員数において外来のバレエ団にかかろうじて追いつけたのは、ニューヨークシティ・バレエのみだという事実である。』

これは、日本の古典芸能を考える上でヒントになる事柄かもしれませんね。

文楽が東京ではチケットが取れないほどの人気なのに、大阪の文楽劇場はガラガラというのも理由がわかる気がします。

芸のレベルや芸術性の高さではなく、観客動員は『興味』によって影響されるということじゃないでしょうか。

玄人受けする『ほんまの芸』と一般受けねらった客引き。

どないしたら、両立するんでしょうか。

まだ、先は長いので、だんだん考えて行きたいと思います。

[地理的分散]

結論としては、

ニューヨークに集中しているように思われがちであるが、遙かに広く合衆国全土に分散している。

ということです。

そして、この章の最後として、

合衆国において、舞台芸術の組織が、規模、運営の複雑さ、ある特定のジャンルに含まれる団体の数など、思い浮かぶほとんどすべての点において、極めて多様であることを、私たちは見てきた。その多様性にも関わらず、これらの組織の財政的な問題が、ある共通した原因に帰因するものであろうという事を示すつもりである。

と書かれています。

つまり、いろいろあるけども、みんなお金でこまっとる。その原因はたぶん、一つや、というわけです。

これから具体的な話に入っていくんですね。

第3章は『カルチャーブーム:その証拠の再点検』です。

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第2話

【第1章 はじめに】

この本は、全部で17章立てになっています。

要旨を把握しながら、考察していきますね。

第1章では論を進める上で、読者が理解する上での前提が書かれています。

(引用)

本研究の中心目的は舞台芸術諸団体の財政問題を明らかにし、合衆国における芸術の未来にとって、こうした問題がどのような意味をもっているかを検討することである。

次のことは指摘しておかなければならないだろう。

本書の著者たちは経済学者であり芸術に個人的な関心を持っているとはいえ、こうした研究はできるかぎり冷静に、そして資金調達の上での問題に直面している他の産業を研究するのと同じように行われるべきであるとの固く信じている。私たちは、芸術の財政疾患を治すことを約束する万能薬を発見しようとはしなかった。むしろ芸術につきつけられている選択可能な代替案を客観的に列挙し、芸術の費用と社会に求める負担を説明することができればよいと考えたのである。

最後に私たちは、舞台芸術に直接触れることの価値や、舞台芸術が人間存在を豊かにするというような、感情にのみ訴えるようなメッセージを準備しなかった。このことを納得しない読者であれば、舞台芸術の経済学に焦点をあてた如何なる報告書を読んでも、何かを考えてみる余地はほとんどないと言えるのではありますまいか。

(引用おわり)

つまり、舞台芸術に対して特別な想いをもって研究したのではなく、あくまでも客観的なデータと分析手法によって、全く他のテーマを分析するのと同じように、研究し、この本を書いた、ということですね。

そうはいっても、この経済学における統計というのは眉唾も多くて、結論はどちらにでも引っ張っていけるというのもある意味で真実だと思います。

舞台芸術、大阪で言えば今、話題になっている文楽の助成金問題がありますが、『ちゃう!』ということがあれば、この本を読んで反証される方が出ることを期待します。

私の立場は、もちろん、中立ではあり得ません。

正直に言っておきます。

中立ではありません。客観的でもありません。

あくまで、主観的に、芸術と文化に強烈な愛情をもって、この本を読み進め、論を建てていきます。

文句があるなら、建設的に反論されたらよろしございましょう。

ただ、私は誰から頼まれて書いているのでもなく、この本を熟読してシコシコ書いても誰もお金はくれません。

自分の情熱に任せて、やむにやまれず書いているのです。

もし、『世の中に文化だの芸術だのは要らない』という信念が私の情熱や信念に勝るとお考えの方は、どしどし反論してきてください。

その分、私も勉強になりますし、理論武装も強化されます。

・・・という感じで、いきなり宣戦布告ですね(^^;)

ただ、私はあくまでも『自助論者』です。

最大の愛読書はサムエル・スマイルズの『自助論』です。

ですから、自助論者でマーケターを自認する者としては、助成に頼るのではなくて、あくまでも自助の方向で私なりの結論を見つけてみたいと思っています。これがこの本を勉強する私の最終目標です。

この本が書かれるまではアメリカのブロードウェイといえども資料が整備されていず、データの蓄積にかなり苦労したようです。膨大なデータと格闘して、数字で示した初めての書であったところにこの本がバイブルと言われる所以があるのでしょうね。

そして、はじめに、の段階で3つの方向性をしめす結論を挙げています。

(以下引用)

第1に『カルチャーブーム』として描かれている現象は、確かに事実ではあるが、この問題に関する多くの報道において、その広がりや規模が誇張されており、その正確と意義が誤解されていることを、この研究は明らかにするだろう。

第2に、芸術に対する一般大衆の関心が増大しているという主張や、観客が広範囲な社会集団を含んでいるという楽観的見解にも関わらず、プロの公演の典型的な観客は、住民の極めて狭い構成部分ー通常、高水準の教育と所得によって特徴づけられている集団ーに由来するということが明らかにされるだろう。

第3に、舞台芸術に対する経済圧迫は増大しつつあり、これは歴史的な偶然ではないとしても、舞台芸術の運営にまつわる技術の高度化と考えられているものの結果であり、したがって、舞台芸術団体への寄付金のニーズはさらに増えるであろうという証拠が示されるはずだ。

(引用おわり)

この本が書かれたのは1962年ですが、このころのアメリカ経済は黄金期だったはずです。それでカルチャーブームが起こったように見えていたのでしょうが、実態はごく一部のインテリとブルジョワによって支えられているに過ぎなかったということです。

つまり、にわかにお金だけを持っても、本当の芸術の世界にはなかなか参加できないということなのです。

下手をすれば、お金をもっている新たなカルチャー・ブーマー達によって、レベルの高い芸術はつまらないものとして排除される危険性もあるとは言えないでしょうか。

民主主義の世の中は多数決で決められていきます。でも民主主義・多数決は絶対的な方法ではありません。少数意見が切り捨てられてしまうからです。出た結論から調整して、遠くを見つめた施策を採っていくのが為政者や知識人に求められる行動であると私は思います。

本当のリーダーシップというのは、そういう『調整』に発揮されるべきであって、民意をカサに着て強権をふるうのは野蛮であると私は感じます。

だからこそ、為政者にはバランスのとれた人格と教養が必要なのではないでしょうか。

この章の中で最後に『舞台芸術の財政難の原因』について触れています。

?インフレーション:公演費用の高騰

?労働組合の要求、とりわけ労働者の水増し雇用。

?商業演劇における不正行為

?浪費や経営の誤り

?舞台芸術の経済構造そのもの

?〜?はたいした問題ではなく、ほとんどの原因は?だと著者は言っています。

芸術が直面している経済的圧迫は一時的なものではなく、慢性的なものだと指摘しています。

前述の様にこの本が書かれた時代のアメリカは経済が絶好調でした。

ですから、メセナも盛んで、これからはその需要も供給も増えてくるだろうと書いています。

ところが、今の日本はデフレです。

もう10年も続いています。

企業メセナも個人的タニマチも激減。

オーナー社長は減り、株式を公開した企業だけを有利に導く施策ばかり採られています。

景気が良いときも助成が必要なのに、景気が悪くなったから助成を減らすというのは、つまり『引導を渡す』という事じゃないでしょうか。

舞台芸術の場合は、他の個人芸術や工芸の世界とはまた違う面があると思います。

一つは団体芸術であること。そして、様々な芸術の総合体としての価値があるということです。

簡単に考えただけでも演技(身体表現)、舞台装飾、文学(台本)、音楽、歌、言葉、舞踊、照明、衣装(染織・デザイン)等々、いろんな総合的に絡み合って一つの形になるのが舞台芸術です。

だから、凝って造れば限りなくコストがかかるし、観る人も解る人でなければ解らないのです。

茶道もそうですね。総合芸術と言われます。

解らない人に言わせれば『金持ちのガラクタ遊び』と見えるそうです。

解る人にとっては、解れば解るほど、すごい芸術だと感じる。

これ以上のものは無いと感じるわけです。

ガラクタ遊びと最高峰の芸術。

これが、解ることと解らない事の差なんです。これくらい大きい訳です。

お金と言うのは、値打ちが細分化できますね。

1000円は1円と999円にも、50円と950円にも、どないにでも分けられます。

でも、モノは分けてしまうと価値が無くなることもあるし、芸術の場合はそれ自体が金銭的価値で測ることができないのです。

だから、いくらお金があっても、わからないものはわからない。

また、だからこそ、昔の大経済人は茶道や能にはまり込んでいったんでしょう。

我が国にはアメリカと比較にならないくらい素晴らしい文化があり、それが生み出した芸術があるのに、解らないというか、解ろうともしないというのはどういう訳でしょうね。

教育が悪いということなんでしょうが、続きは次回にということで。

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第1話

予告通り『芸術と経済のジレンマ』の勉強をはじめたいと思います。

教科書はこれです。

1966年にアメリカで出版された本ですから、私が2歳の時ですね。

いままでの染織マーケティングや商道風姿花伝とはちがって、舞台芸術を主な対象としているので、私は完全な素人です。

しかし、この本の出版を契機にして、世界各地でメセナ(芸術助成)の動きがはじまり、大学にもアートマネジメント学部が創設された琴をかんがえれば、舞台芸術と経済の関わりを考えることは、他の芸術にも参考になるだろうと思ってはじめます。

私は昨年まで大阪芸術大学の通信教育で勉強していましたが、そこにもアート・マネジメントという講義がありました。でも、その内容はeconomicsもmarketingのかけらもないばかりか、それを完全否定していました。

講義を担当していた教員に『アートマネジメントを勉強したいのだが、どこかに先生はいないか?』と聞くと『居ない』としか答えない。

我が国のアートマネジメントとはそのレベルなんですね。

アートをどうしてもお金と切り離したがるわけです。

最近、kindleという英書を読むブックリーダーを買いました。アメリカ版なので英語の本しか読めません。

そこで、art management と検索してみると、ズラーッとでてくるわけです。

ところが日本の本は・・・ヘボい本が1〜2冊あるだけで、どうしようもない状態です。

それで、購入したのが前述の『ハンスアビング・金と芸術』そしてこの本です。

私は経済学者でもありませんし、舞台芸術の専門家でもありません。

しかし、染織という世界でものづくりや表現というものに向かい合い、かつ、作り手の生活を考えなければならない立場にあります。

また、趣味の部分では、謡曲・仕舞を学び、能楽や文楽を好んで観ています。

この本を読みながら、様々な考察をし、いま大阪で問題になっている文化助成削減の問題や、私の専門である染織・工芸の世界の事を考えていきたいと思います。

知識が不足していますので、『これはちがうで!』というのもあると思いますが、その時は、ご意見を頂ければ幸いです。

私のスタンスはまずは自助を考えるべきだ、というものです。

自助を考えた上で、次はそれを愛するファンがどう支えて行くか。

そして、それで足りないところを金銭だけでなく様々な形で公的な助成をしていくのが本来の形だろうと思っています。

前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。

【初めの部分】

『舞台芸術公演において危機というものが明らかに一つの日常的な現実となっている。期待はずれのシーズン、費用の高騰、切迫した募金運動、助成財団への必死の訴えについて新聞が書かない日はない』

これがこの本の冒頭に書かれている文章です。

1960年代なかば、アメリカの芸術文化状況が悪化し、ブロードウェイの劇場が相次いで公演中止に追い込まれる窮状に直面したそうです。

そこで、W.J.ボウモルとW.G.ボウエンはケーススタディに基づいてこの本を著したということです。

この研究によって、舞台芸術は経済的に自立不可能であり、経済一般の発展の中で赤字が年々増大せざるを得ない事がはじめて科学的に立証された、と書かれています。

そこでメセナ活動やアートマネジメント学部の創設が相次いだわけですね。

『現代の芸術文化の創造が公的ないし、民間の支援つまりメセナなくしては存続し得ないことが、実証的に見事に証明されている。マスプロの現代産業は、合理化と機械化によって生産コストを引き下げ利益を上げることが出来るが、舞台芸術にそうした合理化は一切不可能、人件費の高騰、インフレの影響をもろに被って放置すればブロードウェイの灯は消えるしかない・・・』

つまりメセナが無くなったら高度な舞台芸術は消え去るしか道がない、と言うことがこの研究で明らかになった、ということです。

まず、これがこの本の結論であるということをおさえておいてください。

そして、

『本書では芸術の将来を担う人々の眼前に大まかな選択肢を描き出すにとどめ、問題の解決法にまで踏み込む事をしない』と書かれています。

とりあえずは『なんしか、あかんのです。どないするかは、みんなで考えてください』ということですね。

じゃ、考えましょう!

メセナが無くなったら、高度な舞台芸術は無くなるんだとしたら、本質的な問題は、それを残し、維持するのかどうかという事になるわけですね。

舞台芸術の存在意義、そして、工芸まで含めたアート全体の存在意義も含めて考えてみたいと想いって居ます。

かなり分厚い本ですし、読み込みも必要なのでとりあえず、各週末に1回ずつ書いていきたいと思います。

高価な本ですし、内容も紹介していきますね。