うちの近所に『土師ノ里(はじのさと)』という駅があって、昔、土師という人が居たという事は子供の頃から知ってました。
うちの母が親しくして頂いている方が、その子孫であると言うことから少しずつ興味を持ちだして、郷土の事でもあるので3年位前からボツボツ調べていました。
土師氏というのは、大古墳時代、つまり今世界遺産登録申請で話題になっている百舌鳥古市古墳群を造った一族の事で、百舌鳥、河内、大和に住んでいたそうです。
前にも少し書いた事があると想いますが、始祖を野見宿禰とし、天日穂命の14世?だったでしょうか。野見宿禰といえば、相撲の始祖でもあって、タイマノケハヤという人と相撲を取って勝ったので二上山の石を切り出す権利を天皇から頂いたとかいう話です。
その野見宿禰は、それまで生きた人間を生け贄にしていた事から、土で人形を作って、つまり埴輪を提案して天皇に受け入れられ、それ以来土師氏が古墳の造営や天皇の葬礼を担当していたそうです。
いま、ちょっと研究し始めたところでは、その他の土木建築や歌舞、芸術、外交など幅広く職掌をもっていたようです。
そんなこんなで調べて行くと、ある本に『土師氏のうち、百舌鳥地区に住んでいた人が萬代と改姓した』と書いてあって、それで自分も土師氏の子孫なんだ、と知ったんです。
百舌鳥といえば、百舌鳥八幡があってその側には仁徳天皇陵、うちの近くの応神天皇陵の側には誉田八幡宮があって、両八幡宮とも、天皇陵を守護する役目です。
土師氏は都が平城京に移ったり、仏教の導入で葬礼が簡素化されたりして、どんどん立場がひくくなっていったそうですが、それから色々あった様です。
まず出てくるのが桓武天皇の母、高野新笠です。
高野新笠の母は土師真妹といって、土師の萬代腹の出身です。
土師氏は4系統あって、大和の菅原、秋篠宮、百舌鳥の大枝、萬代、河内は土師とそのまま名乗ったそうです。百舌鳥から出た土師氏を萬代腹というのですね。(私のおなかの事ではありませんよ(^_^;))
土師氏出身の母をもつ桓武天皇が即位した事で、土師氏は勢いを取り戻したそうです。
桓武天皇はご案内のとおり、平安京に遷都なされました。
その後、でてきたのが、菅原道真、ご存じ天神様です。
大和地区に住んでいた土師氏が菅原と秋篠と改姓したそうで、菅原道真もそこの出身です。
そう考えてみると、ずっと藤原氏にえらいめに合わされてきたのが土師氏で、平安遷都もそのへんが関係しているんじゃないかと想っています。
平安京の土台となった山背も、元は秦氏の土地で、秦氏は土師氏と親密でしたから、それで平安遷都は実現したんじゃないでしょうか。
藤原氏が焚書、歴史改ざんしているので、真実はなかなか解りませんが、これからの研究課題です。
平安京の事を『萬代(よろずよ)の宮』と言うのですが、土師氏を母に持つ桓武天皇が造った都ですから、『萬代』は『もず』と読むのがふさわしいとは言えないでしょうか。
それと茶道を始めてから解ったのですが千利休は、菅原道真を非常に強く意識し、尊敬もしていた様な記録が残っています。
利休(ととや)とうち(もずや)は同門・同族で親戚ですから、同じ土師氏だと想います。
いくら同門・同族だと言ったって、何百年も前の人ですから、強く意識するにはそれなりの理由があったのだろうと想います。
茶室の床の間に飾られる花は、勢至菩薩を表していると宗匠からお聞きしました。
道真が造った土師氏のお寺、土師寺=別名道明寺には、勢至菩薩がまつられています。
利休は道真と自分を重ね合わせて、何を考えていたんでしょうか。
ここでは書きませんが、当家の歴史上の動きを追っていくと、土師氏とはどういう人達でどういう歴史を歩いて生きたのかを深く知りたくなりました。
天穂日命、野見宿禰、桓武天皇、菅原道真、千利休、そして当家の伝承・・・
もしかしたら、記紀からひっくりかえさないといけないかもしれません。
そんなのをたどっていけば、何かを感じることが出来るような気がしています。
長い研究になると想いますが、命ある間、少しずつでも進めていきたいと想います。