『土師氏の研究』2015/4/30

うちの近所に『土師ノ里(はじのさと)』という駅があって、昔、土師という人が居たという事は子供の頃から知ってました。

うちの母が親しくして頂いている方が、その子孫であると言うことから少しずつ興味を持ちだして、郷土の事でもあるので3年位前からボツボツ調べていました。

土師氏というのは、大古墳時代、つまり今世界遺産登録申請で話題になっている百舌鳥古市古墳群を造った一族の事で、百舌鳥、河内、大和に住んでいたそうです。

前にも少し書いた事があると想いますが、始祖を野見宿禰とし、天日穂命の14世?だったでしょうか。野見宿禰といえば、相撲の始祖でもあって、タイマノケハヤという人と相撲を取って勝ったので二上山の石を切り出す権利を天皇から頂いたとかいう話です。

その野見宿禰は、それまで生きた人間を生け贄にしていた事から、土で人形を作って、つまり埴輪を提案して天皇に受け入れられ、それ以来土師氏が古墳の造営や天皇の葬礼を担当していたそうです。

いま、ちょっと研究し始めたところでは、その他の土木建築や歌舞、芸術、外交など幅広く職掌をもっていたようです。

そんなこんなで調べて行くと、ある本に『土師氏のうち、百舌鳥地区に住んでいた人が萬代と改姓した』と書いてあって、それで自分も土師氏の子孫なんだ、と知ったんです。

百舌鳥といえば、百舌鳥八幡があってその側には仁徳天皇陵、うちの近くの応神天皇陵の側には誉田八幡宮があって、両八幡宮とも、天皇陵を守護する役目です。

土師氏は都が平城京に移ったり、仏教の導入で葬礼が簡素化されたりして、どんどん立場がひくくなっていったそうですが、それから色々あった様です。

まず出てくるのが桓武天皇の母、高野新笠です。

高野新笠の母は土師真妹といって、土師の萬代腹の出身です。

土師氏は4系統あって、大和の菅原、秋篠宮、百舌鳥の大枝、萬代、河内は土師とそのまま名乗ったそうです。百舌鳥から出た土師氏を萬代腹というのですね。(私のおなかの事ではありませんよ(^_^;))

土師氏出身の母をもつ桓武天皇が即位した事で、土師氏は勢いを取り戻したそうです。

桓武天皇はご案内のとおり、平安京に遷都なされました。

その後、でてきたのが、菅原道真、ご存じ天神様です。

大和地区に住んでいた土師氏が菅原と秋篠と改姓したそうで、菅原道真もそこの出身です。

そう考えてみると、ずっと藤原氏にえらいめに合わされてきたのが土師氏で、平安遷都もそのへんが関係しているんじゃないかと想っています。

平安京の土台となった山背も、元は秦氏の土地で、秦氏は土師氏と親密でしたから、それで平安遷都は実現したんじゃないでしょうか。

藤原氏が焚書、歴史改ざんしているので、真実はなかなか解りませんが、これからの研究課題です。

平安京の事を『萬代(よろずよ)の宮』と言うのですが、土師氏を母に持つ桓武天皇が造った都ですから、『萬代』は『もず』と読むのがふさわしいとは言えないでしょうか。

それと茶道を始めてから解ったのですが千利休は、菅原道真を非常に強く意識し、尊敬もしていた様な記録が残っています。

利休(ととや)とうち(もずや)は同門・同族で親戚ですから、同じ土師氏だと想います。

いくら同門・同族だと言ったって、何百年も前の人ですから、強く意識するにはそれなりの理由があったのだろうと想います。

茶室の床の間に飾られる花は、勢至菩薩を表していると宗匠からお聞きしました。

道真が造った土師氏のお寺、土師寺=別名道明寺には、勢至菩薩がまつられています。

利休は道真と自分を重ね合わせて、何を考えていたんでしょうか。

ここでは書きませんが、当家の歴史上の動きを追っていくと、土師氏とはどういう人達でどういう歴史を歩いて生きたのかを深く知りたくなりました。

天穂日命、野見宿禰、桓武天皇、菅原道真、千利休、そして当家の伝承・・・

もしかしたら、記紀からひっくりかえさないといけないかもしれません。

そんなのをたどっていけば、何かを感じることが出来るような気がしています。

長い研究になると想いますが、命ある間、少しずつでも進めていきたいと想います。

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『高野新笠、大内氏、そして堺』

土曜日の深夜に大阪に帰ってきたんですが、これまた暑いですね。

おかげで庭のリュウキュウイトバショウもこんなに大きくなりました。

地植えしたら、どんどん大きくなって、屋根に着きそうな勢いです。

暑いのでちょっと歴史の話を。

私の歴史探訪は、日本の歴史全般を網羅的にやろうというのではなくて、自分の周辺、地縁、血縁を中心に進めていってます。

歴史というのは、たいてい為政者が自分の都合の良いように編んだものとか、武将が自分の武勇伝とかを土台にされています。

農民や町人は、歴史なんて書きません。

だから表に出てこないし、余程のことが無いと町人が歴史の表舞台に出てくることはない。ましてや、『町人ふぜい』という差別意識が今でも根強いくらいですから、歴史にどう絡んだかなんていうのは、書かれることはほとんどありません。あっても、とんでもない悪徳商人、欲づっぱり野郎としか書かれない。それが普通です。

前置きはこのくらいにして、私の先祖ですが、これは江戸時代までは萬代屋(もずや)という堺の商人でした。最近、遠い親戚の方とお会いして、堺だけで大きくわかれて3つに分家していることが解りました。後は富山とか岡山とか山口に、別の分家が行っている様です。

萬代屋となるまえは、萬代とかいて『もず』先日、『萬代掃部助宗安』の襲名祝いをして頂きましたが、萬代掃部助が萬代家初代とされています。もちろんその前から居たし、氏姓も賜っていたようですが、商家としての初代という事ですね。

お祝いしていただいて、この笑顔。

『もず』というと、堺市には百舌鳥というところがありますが、ここがうちの発祥の地です。古墳時代に天皇の葬祭や古墳造営をしていた土師氏という豪族のうち、百舌鳥地区に住んでいた一派が『もず』を名乗ったのだとか。その字は『毛受』『物集』そして『萬代』『万代』などですが、全部同じ『もず』です。菅原道真も土師氏ですが別系統だと思われます。

その土師氏の始祖は野見宿禰という人で、垂仁天皇に出雲から招かれて、古墳作りに関わったとされています。相撲の始祖としても有名です。

出雲の話はとてもとても複雑なので、また別の機会にしたいと想いますが、この土師氏には四腹といって、四つの系統があったとされています。

四腹のうち、もず腹というのがあって、その人達が『もず』を名乗ったということです。

その土師のもず腹というのがどういうのか?と調べてみると、土師真妹(はぜのまいも)という人に行き当たります。このひとは、高野新笠(たかのにいがさ)という桓武天皇の母親の母親です。

高野新笠のウィキにはこうあります。

父の和乙継は百済渡来人の子孫で、(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが、詳細は不明。夫の白壁王(光仁天皇)即位後に高野朝臣と改姓した。

続日本紀延暦8年12月28日条に「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)百済太子淳陀死去とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうか学術的に少なからず疑義が持たれている[2]

また、淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。 和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は貴族として以後重んじられていった。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。

ということは、萬代氏は古代百済系の渡来人と言うことですね。

これはただのうちのルーツの話ではなくて、堺の歴史と大きく関わってくると感じています。

堺というと、大内氏の存在を忘れる訳にはいきません。

堺の黄金の日々といわれた繁栄は、瀬戸内海を支配していた大内氏の存在があり、兵庫の港が使えなくなった事から始まるからです。

応永の乱

寧波の乱

大内氏は百済の百済聖王の王子、琳聖太子の末裔と称していますから、百済系です。

それで、朝鮮との交易も盛んに行っていました。

この大内氏は南北朝の争乱の時には、北朝方に味方したとされていますが、一方、堺は南朝方に味方したと堺市史には書かれています。

大内氏は博多を、大内氏とドンパチやっていた細川は堺を交易の中心としようとしたとされています。

掃部助が登場するのは、まさに大内氏が和泉国の守護大名だった時代で、堺の代官としてです。

その後、大内氏の動きと共に、返魂丹の常閑は岡山に、利兵衛は山口にと移住しています。

堺の日明貿易は大内氏との関係が土台になっていた、と言えると想います。

ところで、この大内氏、かつては多々良氏を名乗っていました。

たたら、といえば、製鉄や焼き物が思い浮かびますよね。

そして、次に思い浮かぶのが『博多商人道安』という人です。

この人は室町時代後期に朝鮮や沖縄との交易で活躍したとされています。

道安は、琉球国王の名代として交易をしたんだそうです。

この道安という人、時代的にも経歴的にも、かなり引っかかりを感じています。

この時代、博多は大内氏の支配下にありましたが、堺はというと、こちらは細川氏の支配下で交易都市として繁栄していました。

当時、博多と堺は拮抗していたというか、しのぎを削っていたんですね。

この時代の朝鮮との関係と言えば、秀吉の朝鮮出兵が思い浮かびますよね。

千利休自刃後、彼の廻りにいた人達もとがめを受けます。

実は大徳寺の金毛閣を寄進し利休のの像を造ったのは利休1人では無かったんです。

萬代屋宗安もその1人でした。罰せられたのは利休だけでは無かったのです。

しかし、宗安にはとがめが来なかった。なぜでしょうか?

朝鮮出兵には多くの萬代屋の船が軍船として転用されていたのです。

宗安は馬廻衆という役割を負って、朝鮮出兵に関わっていることが太閤資料集から確認できます。

実は大内氏も当時の朝鮮に自分が百済王の血筋を引く者であるとの理由で領土の割譲を要求しています。朝鮮王は、一度は承諾するものの、側近に止められて、実現しなかったという事です。

勉強不足でまだ整理が出来ていないのと、あんまり妄想めいたことを書くと人格が疑われるので(^_^;)、この位にしておきますが、こうやって歴史を見てみると、百済からの渡来人達はなんらかの強いつながりを持っていたように感じざるを得ないのです。

信長と石山本願寺の10年戦争で、正親町天皇が調停に入ったのも、無関係ではないと想っています。

日本の歴史をずーっとさかのぼって見ていくと、天皇陛下をいただきながらも、庶民が庶民の為の政権を作り、その政権がまた貴族化し、それを倒す。そんな事の繰り返しのように私には想えるのです。

最近、『逝きし世の面影』という本を読みましたが、江戸という都市は本当の意味での『自由都市』であった様な気がします。

だからこそ、あれだけの町人文化が花開いた。

本来なら、明治維新も一つの転機だったはずです。

でも、またまた、歴史は繰り返すのかな、なんて最近思い始めました。

『与四郎』

まぁ、いきなりなんの事かという感じですが、私が名前を継がせてもらっている萬代屋宗安が千利休の娘婿であったことは、ご存じの方も多いと想います。

宗安の妻は、お亀と言って、『お吟さま』という小説にもなっています。

小説の中では、というより、いろんなところで、お吟は高山右近と浮気したとか、萬代屋宗安に先立たれた後、実家に帰っているところを秀吉に見そめられて、利休が差し出すのを断った事が切腹につながったとか、いろいろエピソードのある人です。

でも、実際は、宗安とは添い遂げていますし、秀吉の存命中に後家になったという事はありません。これは史料からも確認されています。

親戚ともそんな話で盛り上がる事もあり、先祖供養のつもりで、色々と家の歴史を調べていて、これが私のライフ・ワークの一つとなっています。

茶道の歴史の資料をひもとくと、千少庵という人が、京千家を、千道安という人が堺千家をそれぞれ継いだ、という事になっています。

京千家の方はどんな事になっているのか、私は全然知りませんし、興味もありません。いろんな歴史作家が書かれているので、コメントは差し控えたいと想います。

道安は利休の実子で、吟は養女、少庵は、後妻の宗恩の連れ子という事になっています。

史料からすれば、道安が千家の正統である堺千家を継いだが、嫡子が無く断絶した、となっています。

しかし、道安には娘がいました。

その娘が、萬代屋宗貫という人の妻になっています。

道安、宗安、宗貫、その辺の関連が非常にややこしく、利休の娘婿とされているのが宗安と宗貫の両方だったりします。

萬代屋道安という人も史料には登場して、私もまだ整理がついていないのが現状です。

萬代屋道安が宗安の父であったとか、宗安が道安とも宗貫とも名乗ったとか、いろんな説があるみたいです。

宗安は、事実、宗周という名で連歌師としても活躍しています。

それは一咄斎という号で同一人物と解ります。

道安の死後、堺千家は断絶したという事になっていますが、実は、宗貫の子、利休の外孫とされている人がいて、またややこしいのですが、『萬代屋与四郎』といいます。

この与四郎という名は利休の幼名と同じです。(よしろう

実は親父の宗貫も、名前は『𠮷(よし)兵衛』で、この名前は萬代屋、萬代、歴代で使われている名前です。

その後、うちの過去帖をみると、(萬代屋は堺でも古い家なので数系統あるようです)

四良兵衛

𠮷兵衛

安兵衛

という名前が続きます。

四良兵衛は『しろうべえ』

𠮷兵衛は『よしべえ』

与四郎とは別に与吉郎という人がいて、宗賢と名乗っていたそうですが、このひとは、宗貫の先妻の連れ子で、放蕩が過ぎて家を出されたのか、高畠重右衛門という名に変わっています。

つまり宗貫のあとの萬代屋は与四郎が継いだ訳です。

ということは・・・

たぶん、萬代屋与四郎が利休から名前を受け継いで千道安の後継者になったんだと想われます。

それを裏付ける事実として、南宗寺の千家の墓えいの中で、萬代屋宗安の墓碑が千利休の隣の隣にあります。

確かに、萬代屋は茶道の家としては、続きませんでした。

でも、当時、家元制度というものがそもそもあったでしょうか?

今井は?天王寺屋は?松屋は?

萬代屋宗安と共に町人茶を広めた、住吉屋宗無、重宗甫、すべて子孫は茶道から離れています。

堺の茶人というのは、ほとんどが商人だったことはご存じの事だと想います。

利休もしかりです。

いわば、『単なる趣味、道楽』だったわけでしょう。

大名の茶頭になっていたのも、そりゃ、名誉な事ではあったでしょうが、商売の為だったと想えなくもありません。いえ、そうでしょう。

堺は何度も戦火に焼かれ、多くの道具類も焼失したものと想います。

また、高値で大名に売りつけたのかも知れません。

千利休も萬代屋宗安も、そして堺の歴史自体が、謎に包まれて、非常に解明しづらいです。

堺は何度も戦火で焼かれていますし、そもそも商人の事ですから、記録など残していません。

萬代屋が秀吉や三成からとった借金の証文も灰になったと言われています。

訳がわからないけれども、訳のわかることもあります。

萬代家の歴史も薄紙を剥がす様にではありますが、徐々に明らかになってきています。

ここからが、私の歴史の読解力の見せどころです。