もずやと学ぶ日本の伝統織物第7話

『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第8

【特産品として】

『生業として成りたたせるには、地域的にまとまって、その特性を打ち出して行く方法がある。個人としてのがんばりをこえたところに、特産品として生きていく道があると言えよう。いや、発展の道さえがあるのである』

ここに上げられている品物は、

掛川の葛布、出雲祝風呂敷、津軽こぎん、秋田八丈、秋田畝織、米琉、合図青木木綿、筑波絣、福光麻布、福野絣、手縞、能登上布、堺段通、弓ヶ浜絣、阿波しじら、土佐地織、江戸小紋、長板中型

です。

特産品として生き残りに役立っているものとして、

保存会の存在、そして県や国の無形文化財指定が上げられています。

特産品はいわゆる『産地』で造られるわけですね。

それに対抗する概念は個人作家でしょうか。

全国を見てみると、個人作家も産地の中に居る人が多いのですが、ぽつんと産地から離れて染織活動をしている人も居ます。

地元大阪では現在、河内木綿がすこし造られているだけですが、それでも染織作家がいないかというといらっしゃるわけですね。

私は沖縄中心の仕事ですから、産地の特産物という感じになるのでしょうが、産地から離れて仕事をしている作家さんと比べると、産地のひとはずいぶん恵まれていると想いますね。

沖縄を見てみると、まず組合がある。組合があると、糸や染料、染織道具などの購入が楽です。共同仕入れなどで安く有利に仕入することができます。

整経機や蒸し機なども、自分で持とうと想えば大変ですが、それも組合に持って行けば経費は少なくて済みます。

また、組合が販路を開いてくれたりするのは、仕事を続ける上で大変心強いでしょう。

後継者育成事業などもしっかり整えられています。

そして、大学があります。

沖縄県立芸大から様々な情報が流され、指導を受けることも出来ます。

もちろん、仲間がいれば、情報交換もできます。

産地に作り手がたくさんいれば、それだけ業者も頻繁に来ます。

2、3人いたって、そこまで問屋や小売店は来てくれないでしょう。

小売店が毎月の様に京都に行くのは、京都に行けばいろんなものがあるからです。

それと同じで、たくさん作り手がいるところに、買い手は集まります。

その都道府県にぽつんと1人いたって、よほど有名にならないかぎり、見向きもされないかもしれません。

日本工芸会や、国画会でそれなりの地位を占めて初めて認知される、という感じでしょう。

伝統というバックグラウンドも大きな財産です。

作品がヘボでも、産地の名前が付いてれば、それなりの価値を見出す人はたくさんいます。

どんなに良い物を造っても、たとえば『羽曳野紬』って表示されていれば『なんやそれ?』です。

でも『結城紬』とか『小千谷縮』と書いてあれば、『ああ、有名やな』と想うわけです。

つまり、産地の特産品というのは、有名ブランドなわけですね。

みなさん、ブランドと聞いて何を思い浮かべますか?

欧米の有名ブランドを連想する方が多いと想います。

ルイ・ヴィトンやシャネル、カルティエなどは誰でも知っているでしょうね。

じゃ、そのブランドの何が良いの?と聞いて、答えられる人は少ないのかもしれません。

でも、言える事は『ブランドにふさわしい最低限の品質が保証されている』という事なんですね。

まさか、ヴィトンやシャネルが、いんちきな物、粗悪品は造らないだろう、と誰しもが想っているはずです。

確かにそうなんです。

有名ブランドは、期待に応える品質を備え、表示内容にウソがない。

その代わり、原価から考えたら、ずいぶん高い価格が付いているわけです。

つまりは、信頼が価値になっているということですね。

では、わが国の染織品のブランドはどうでしょうか?

産地のブランド、メーカーのブランド・・・

そもそもブランドって何ですか?

ブランドというのは日本語では『銘柄』と訳されています。

銘柄、つまり商品の選択肢のひとつです。

多くの商品の中から、それを選び出すときのメドとしてブランド=銘柄が使われるわけですね。

そのブランドに一定の信頼と安心を持つから、お客様は購入されるわけです。

そのブランドが気に入れば、ブランド・ロイヤリティ(銘柄忠誠)が高まって、重ねて何度も同じブランドを購入するということになります。

『資生堂の化粧品なら安心だな』とか『トヨタの車なら故障の心配がないな』とか想って、また資生堂の化粧品やトヨタの車を買うのは、その『資生堂』『トヨタ』というブランドに信頼を置き、ロイヤリティが生まれているからです。

再度、元の話に戻ります。

日本のキモノはどうですか?

インクジェット・プリンターで印刷したキモノを京友禅と表示し、似てもにつかない様な品質の糸を高機で織った物を結城紬と表示する。

それで、両者に対して消費者が期待している品質に応えているでしょうか?

もちろん、手仕事の技術の低下で、品質の優劣は生じるでしょう。でも、その品質が素材と工程から生まれてくるものであるとすれば、それにのっとったものでなければならないと想うのは私だけでしょうか。

前述の通り、この事に関して、結城紬は勇気ある大英断を下しました。

でも、ようやくという感じです。

そうでなければ、これは、消費者を欺く、ブランド価値の悪用であると私は思います。

また、伝統の価値を傷つける、きわめてバチ当たりな行為だろうと想います。

産地というのは様々な意味で、恩恵を受けているのです。

イメージ戦略というのは大事です。

でも、イメージを悪用して、消費者を騙してはいけません。

それが、伝統に根ざしたイメージであれば、これは言語道断です。

ブランド・マネージメントというのは、企業が行うべき事です。

私が『もずや』のブランドを高めようが汚そうが、私と私の会社の問題です。

しかし、産地のブランドというのは、先人が営々と築き上げてきた、その地域の、そして日本国民みんなの財産なんです。

産地が産地として、仕事を続けていく事は、信用を高める事と相反することではありません。

各産地は、その有利性を活用して新しいブランドを立ち上げれば良いのです。

産地に大事なのは、産地としてのブランドだけではない。

『ものづくりの力と伝統』こそが財産なのだと、想います。

もずやと学ぶ日本の伝統織物第7話

『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第7話

【意志と家業と】

ここでははじめに黄八丈の山下めゆさんと、館山唐桟の斉藤豊吉さんの話が載っています。

『肉親による家業としての意志の伝達がもっとも典型的な姿をとっているのは、一子相伝方式であろう』

『意志の力が家業として打ち込まれ、それによって伝統織物がささえられているとき、存立には力強いものがある。ここには、おばあさんの愛情とは違った家伝にたいする使命感がみられよう。それは日本の伝統織物を支える一つの太い柱でもある』

つまり、伝統技法と一緒に伝統の仕事を親から子へ、子から孫へと伝承し、継承していくということですね。

いわゆる世襲です。

政治の世界では世襲が批判の対象になっているようですが、その政治も含めて世襲というのも大変意味のある、合理的なシステムなんですよ。

伝統染織だけでなく、他の伝統工芸も、伝統芸能も軸となっているのは世襲です。

茶道の家元も世襲ですね。

一子相伝ということでなくても、その道の『本筋』『本流』を継承していくという意味で世襲はきわめて有効なしくみです。

世襲でなければどうなるかというと、十把一絡げにはできませんが、世の中の動きや市場動向に応じて、道をゆがめる事があるかもしれません。

世襲ならそれは無い、とは言いませんが、可能性としては低くなると思います。

なぜかというと、世襲で受け継がれるのは技術だけでなく、マインドも受け継がれる場合が多いからです。

マインドは意志ともいえるのでしょうか。

私も世襲経営者ですが、私も含めて父親の働く姿、仕事に対する姿勢というのものを物心がつかないうちから見て育つわけです。

土壇場に追い込まれたとき、なんとか踏ん張りがきくのは、『親父に申し訳ない』という気があるからです。

もちろん、中には親から受け継いだ大事な仕事をただの金儲けの道具と思っている人もいます。

でも、親や恩ある師匠から受け継ぐのと、そうでないのとでは、使命感に雲泥の差があると私は思います。

そんなことばっかり言っててもしょうがないのですが、近頃の作り手が世襲が少なくなり、師弟関係が弱くなったのがどうも心配でならないのです。

道を踏み外そうとした時、本気で怒ってくれたり、悩んだときに親身になって相談に乗ってくれたりする師匠がいないと、伝統の世界はどんどんゆがんでいくような気がするんです。

陶芸でも、近頃は3年くらい師匠の工房にいたら、すぐに独立してしまう人が多いそうです。

そんな事で、本当によい職人芸がはぐくまれるわけがないと思いますし、しばらくはうまくいってもいずれ早々に行き詰まるように思うのです。

世襲とか一子相伝というのを勧めることも、強制することもできませんが、それが極端に減少し、世襲が良くないことの様に言われる風潮が伝統の継承をより難しくしているのでしょう。

江戸時代までは職業選択の自由がそれほどありませんでしたし、親の跡を継ぐのが長男としてのつとめでした。

親もそのつもりでマインドコントロールしたんです。

いまは、職人だけでなく、私たちのような商売人も商売を継がせない人が増えました。

このことは、永年積み上げてきた我が国の蓄積を失っていくのと同じ事のように思います。

といいつつ、私にも後継者がいません。

もし、私に後継者がいたとすれば、それは販売技術の継承でも、商品プロデュースのノウハウの伝授でもありません。

私の『マインド』しか受け渡すべきものは無いんです。

世襲とか一子相伝というのは、先代から、いちばん大切な『エキス』をもらっているんです。

とぎれるということは、その『エキス』が埋もれ、失われるということです。

商業であれ、ものづくりであれ、エキスが失われるというのは我が国にとっても世界にとっても莫大な損害なんですね。

沖縄でも若い作り手さんで、親もやっていたから、という人をあまり知りません。

とくに織は少ないように感じます。

紅型にくらべて、織の人に熱っぽさがすくないのはそのせいかもしれないな、と思わなくもありません。

もずやと学ぶ日本の伝統織物第6話

『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第6話

【生命と愛着と】

『生業がことばどおりの生業ではなく、準生業・半生業といったばあいには、比較的残りやすい。それをよく表しているのが「おばあさんの手」による伝承である。すでにそのおばあさんたちは、家計の担い手ではない。趣味とささやかな実益と、そして強い伝統への愛着と、それらによって、伝承の灯がともし続けられている姿は、意外に根強く伝統織物の底流をなしている』

『かつて女は、日本社会の下積みだった。下積みだったからこそ、もちこたえられてこられたこの伝承のエネルギー。しかし、現在この人達に何が心配かを問えば、それは、あとを継ぐ若い婦人たちがいないか、または極めて少ないという事である。愛着の系譜の切れたところでは、いま造っている人の生命だけの期限しかない伝統技法もある』

『愛のきずなが生命限りのものとなったとき、その前途は短い。だが、生命による支えがさらに愛着のきずなを次の時代につなぐ可能性は、まだなくなったわけではない』

染めはともかく、織、とくに地方の民芸的な織物の多くは女性の手によって担われてきました。

夜や農閑期に織ったわけですね。

『与作は木を伐る♪へいへいほ〜へいへいほ〜女房は機を織る♪トントントン、トントントン』の世界です。

なぜ、この世界が失われたのか?

それは需要、つまり着物離れの問題だけではないと私は思います。

産業構造の変化と女性の社会進出も大きく影響していると思っています。

機織をしているイメージってどんなもんですか?

与作の世界のように、昼間は百姓仕事をして、夜は女性が副収入として織っていたという形が基本です。

江戸時代まで各藩で産業振興の為にいろんな織物が織られるようになりましたが、農業を捨てて機屋をやっていたわけではありません。

西陣織のような織物と民芸的な紬織の世界とは成り立ちからして別と考えた方がいいと思います。

昔は問屋制家内工業の形で、問屋から糸をもらい、縞帳どおりに織れば、工賃仕事で農業以外の収入ができた。

ところが、農業では基本的な収入が確保できなくなり、また他の産業が伸びていく中で取り残される形になった農業からは、従事者が減り、兼業農家も多くなった。

そして、仕事を求めて、男は都会に出て行く。女性も社会進出が盛んになり、外の仕事が中心になった・・・

つまり、故郷や自宅が『労働の場』ではなくなったのです。

夜なべしてやっと手にする工賃より、会社に居て座っていればもらえる給料の方が高くなった。

紬織、民芸織物が他の工芸と一番ちがうところは、農村の女性がその担い手であったことです。

西陣や沖縄の首里は特異な例ですし、これらは民芸とは言いません。

そして、その上に、機械紡績や自動織機が登場した。

つまり糸は大量に紡績され、大ロットで染織される。もちろん、それは低価格化を招きます。

第5話でもお話ししたように、もう生業として成りたつどころか、造ったって買う人がいない、という状況に追い込まれたわけです。

今では考えにくい事かもしれませんが、『手より機械で造った方が良いモノができる』と思われていた時代がつい最近まであったのです。

考えてみてください。

つい最近まで、『手で書くよりワープロでうったほうが丁寧だ』と封筒に宛名を印刷していませんでしたか?

こぞって機械を導入したのは、安く大量に出来る、というだけでなく、手より良いモノができると信じられていたからなのです。

そんな世の中で、現実の世界で生活している人、とくに女性が、そのまま手仕事を続けていけるわけがありません。

ここに書かれている『命の灯をともしている』おばあさんはその端境期にいて、『てなぐさみ』としてやっていたのです。

つまり、ここでいう『きずな』というのは『てなぐさみ好き』の愛好会のきずなです。

布というのは不思議な力があります。

糸や布を触ったり、見たりしていると心が落ち着くんです。

とくに手作りのモノは威力があります。

夫婦げんかしたときには、部屋中に着物をまき散らして、心を落ち着けるという方を何人も知っています。

織っている時には、織機と一体になってしまうような感覚があるほどのめり込んでしまうのも、そのせいだと思います。

この『布の魔力』にとりつかれた人もまた、『きづな』でつながれた人です。

布が好きで、手なぐさみとして織をしたい、そういう人だけがやればいいのです。

私が出来る仕事というのは、その布が好き、造ってみたい、という人を一人でも増やして、仕事を続けられるようにする事くらいです。

テーブルセンターやマフラーからでいい。

楽しく造って、上手な人、才能に恵まれた人がさらに先に進んで、帯、着尺と織っていけばいい。

ちょっと前に『好縁社会』という言葉がはやりましたが、まさにその『好い縁』で繋がれた人々が助け合いながら仕事をしていけばいいと私は思っています。

その好縁社会のひとかけらが『もずや会』なわけです。

だから、もずや会の会員だからと言って、私が仕入れるというワケでもないし、まったく自由な染織が好きな人達の集まりなんです。

楽しくないとダメですよ、趣味仕事なんですから!

もずやと学ぶアーツ&クラフツ第5話

『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第5

ちょっとだけ動画でやりましたが、今年からは文章にしますね。

動画はたま別の話題でアップします。

動画で連載というのは、環境的に難しいようです。

でも、けっこう面白いのは面白いので、たまにやりますね。

【消えていった生業】

ここに『消えていった織物』として以下のものがあげられています。

・常磐紺形(宮城県)

・ぜんまい白鳥織(秋田県)

・開田麻布(長野県)

・井波絣(富山県)

・倉吉絣(鳥取県)

・半兵衛更紗・鍋島段通(長崎県)

・日代木綿(大分県)

昭和30年代に『消えていった』と認識されたものでこれだけあります。

このうち、倉吉絣と鍋島段通は復活したのですかね。

著者はこれらには共通点がある、として、それは要するに

『生業として成りたたなくなった』からだ、と書いています。

『それらは大なり小なり、その土地の産業だった。ある程度まで利害関係を離れた熱心な少数者(教員など)の努力によってその土地の産業は支えられてきた。しかしそれらは、時勢の移り変わりのなかで、ほどんど人知れず消えていったのである』

『生業である以上は、ほかのよりよい生業があれば、それに移ってゆくのはまたやむを得ない。それをおこし、推進したリーダーの姓名と意志のみで支えられるようなこの種の伝統織物は、やはり衰退すべき運命にあったのかも知れない』

悲しい事ですがこれが現実ですし、いまなお続いている状態でもあります。

食べて行かれなければ、仕事は続けられないのです。

沖縄でも石垣島に染織従事者が少ないのは、他に仕事があるからです。

観光の仕事が盛んで、物販も成果があがり、仕事があるのです。

ということは、新石垣空港が開港すれば観光客はさらに増え、染織従事者はさらに漸減していくでしょう。

久米島や与那国では他に仕事といえば、精糖と酒造(泡盛)くらいです。

そんな状態でも、織物の仕事を諦めなければならない人が出てくるでしょう。

沖縄は助成金などでも恵まれていますが、他産地はもっと厳しいですし、産地から離れた個人作家となれば、収入をアテにすることさえ難しいと思います。

では、どうしたらいいのでしょうか?

結論としてはどうしようもありません。

生業として成りたつことは無いと思います。

私が何度も書いている事ですね。

やるべき事はただ一つ。

生業として成りたたないという意識から出発することです。

ある産地の方がおっしゃっていた話がいまでも心に残っています。

『化学繊維が出来、自動織機が出来た現代、この布はもう終わった布なのよ。でも、その上で私たちはこの布を守っていかないと行けないの』

名言だと思います。

身を守り、体温を保つ為の布、衣服としては伝統工芸の布は役割を終えた。

代替品は安価に大量にあるんです。

ワンコインでシャツが買える時代です。

でも、その中で、自分達の仕事をどう位置づけるか。

どんなにねじ曲げた仕事をしても、手を抜いても、手仕事は割に合わない。

だから、やめるのか、それでもやるのか、です。

やるなら何の為にやるのか。

伝統を守るためにやる、自分の表現としてやる、そして造りたいからやる。

人それぞれであっていいと思います。

ちょっとしたお小遣いが好きな仕事して入るならそれで十分というのもいいでしょう。

私が思うのは、やると決めたからには、良いもの、自分の名前に恥じないモノをつくろうよ!ということなんです。

私とお付き合いのある作家さんは言われた事あると思いますが、私はしょっちゅう言います。

『この作品にあなたの名前が付いてでますけど、それでいいのですか?』

『この作品を造っていて、あなたは楽しかったですか?』

作家だったら、意に沿わないモノをつくるもんじゃありません。

問屋がどんなに言っても、イヤなモノをつくるんじゃない。

イヤイヤ、気の入らないモノを造ってもロクなものはできやしないのです。

その代わり、しっかり勉強することです。

『どうせ終わった恋だもの』じゃないですが、『どうせ終わった布』なんです。

売れるか売れないか解らないけど、とにかく良い物造ろう!楽しく仕事しよう!

そうしたら、良い物が出来て、造っているときの楽しい気持ちが伝わって売れるもんなんです。

伝統染織は正直にやればやるほど、手を掛ければ掛けるほど、もうけから遠のきます。

私の様な売る仕事も同じです。

でも、それでもやんねん!そやかて、好きやねんもん!

好きでも続けられないとうのなら、やめたらよろし。

恋も仕事も、諦めなければならない時もあります。

だからこそ、続けられるのであれば、腹の底で覚悟を決めて、楽しく仕事をしましょう!

もずやと学ぶアーツ&クラフツ第4話

『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』第4

【ジョン・ラスキン】

少し、投稿が遠のいたのは、この節をまとめるのに手間取ったからです。

中身が飛び散っていて、趣旨をつかむのに苦労しました。

それだけ、このジョン・ラスキンという人の活動範囲が広くまた、影響度も大きいということかも知れません。

ジョン・ラスキンは『前半は美の思想家、後半は社会の思想家』だったと書かれています。

経済論も展開したようですが、大したものではなかったようです。

しかし、経済論を展開したということが後のラスキンの存在意義を高める事になったようです。

『今日、我々は、概して、経済問題が道徳的議論から切り離せないという考えを持っている』

『ラスキンのモラリティックな芸術理論には今日の為のラスキンは無い。しかしそれは明日の為のラスキンであるだろう』

(ケニス・クラーク)

そして、

『ラスキンを芸術をこえて駆り立てていった上念の張力こそがラスキンお最上の作品に影響を与えているのである』

何度も何度も、この節を読み返したら解ったのですが、ラスキンの功績は

『芸術に精神性・道徳性を盛り込む事を示唆した』

ということなんですね。

『フロレンスの美について語るためには、まず我々自身がが我々の生活を美しくしなければならない』

『子供達が飢えて死んでいくとき、フロレンスの芸術は何の役にたったか、という芸術をおびやかし続ける原始的問題がラスキンによって提出される』

つまり、芸術というのは何の為にあるのか?という事ですね。

このあとに、印象派やらラファエル前派やら、キュービズムやら書かれているんですが、ポイントはココです。

『見ることと知る事の関係を明らかにしたゲシュタルト心理学的な構成概念の導入によって』

ゲシュタルト心理学:人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。

この構成概念の導入が『ターナーの絵画の感覚性からゴシックの構築性へとラスキンを向かわせた』のです。

『建築とは人間によって立てられた建物を、用途は何であろうと、それを観る事が人間の精神的な健康、力、および快楽に貢献するように整え飾るところの美術である』

ようやく出てきましたね。

『芸術の効用』という物に目を向けたわけです。

『ラスキンは建築とは肉体的機能性のみではなく、精神性そのものとして定義する。構造と装飾の関係が問題となる』

『ラスキンには昨日主義的側面がある。しかし、機能主義とラスキンを分かつのは<必要>としての構造を超える精神的なものとしての建築の原イメージである』

つまり、建築の構造と装飾が人間の精神に影響を与える、という事ですね。

ひいては、物が精神に影響を与える、という結論が導き出されるわけです。

『機械による大量生産される製品に醜さに対して、ラスキンは中世の工人たちの工人たちの手仕事によってつくられた美しいかたちを理想とする』

『機械にまで物化した労働者と中世の自由な職人との対比。全的人間の自由な創造こそが真の建築を生み出すのであり、建築とは社会体制にかかっているのである。ラスキンの機械への反対を進歩への反対とするのは間違っている。それは人間の機械化への反対なのである。』

『神の家と人の家は等しく美しくあるべきであるという思想、建築は精神に働きかけねばならない、つまりは建築の原イメージ、芸術としての建築、がラスキンのアールヌーボーへの問題提起である』

後で出てくる、アーツ&クラフツ運動の主役、ウイリアム・モリスが家具やインテリアを中心に造ったのは、ここに流れがあるからなんですね。

『世紀末はすべてラスキンから流れ出している。ラスキンを受け継ぐのはウィリアムモリスである。生活の為の美として、民衆芸術の創造をモリスは目標とする。一方、世紀末のデカダニズムもラスキンをその根としている美のための美としての、芸術の自立性』

デカダニズムというのは19世紀末に現れた『世紀末の憂鬱』から出たものなのでしょうが、定義をググっても出てきませんね。

とりあえず、憂鬱な感じと覚えておいて、あとは当時の作品から感じ取ったらいいと想います。

『世紀末と美のための美、デカダンと社会主義はラスキンにおいて出会う、アールヌーボーの二つの顔である』

『世紀末』『デカダン』というのはアールヌーボーを考える上での大事なキーワードです。

デカダン:19世紀末に文学的な潮流として現れたデカダンスに属する動き。転じて、世紀末的な耽美的かつ虚無的な態度を意味する語としても用いられる。デカダント。

世紀末芸術というのを調べれば、なんとなく感じがわかるかもしれません。

なんとなく、先が知れない、憂鬱な感じ・・・と言えばいいでしょうか。

作品を見ても、なんか暗い影があるような感じがするのはそういう世相を反映しているのかも知れません。

そういう世の中でラスキンの思想が生まれ、ウィリアムモリスに受け継がれた、ということなんです。

ラスキンを源流として、芸術の流れは今にまで続いています。

とくに西洋絵画、アカデミズムとも言える大学教育では、その流れは顕著です。

どんな流れかというと、芸術に精神性を盛り込んだ、社会運動としての芸術、という流れです。

アーツ&クラフツ運動にもその流れが当初から来ていて、それが日本の民芸運動にまで連なる訳です。

注目すべきは、ラスキンと同時期にマルクスは資本論を著しており、ラスキン自身も労働者の権利回復の為の社会主義運動をしていたのです。

柳宗悦の民藝論を後で一緒に勉強しますが、柳が『貴族的工芸』を徹底的に攻撃したのも、ここに民芸運動の根本があるからだと私は考えています。

しかし、わが国では、貴族的工芸と民衆的工芸を分けることは出来なかったのです。

柳が忌み嫌った『下手な手で下手な細工をする』作り手は、『作品に意図を盛り込む』ラスキンの言う工芸家でした。

そこに、矛盾が生じ、アールヌーボーは、アールデコにとって変わられ、民藝論は自滅したのだと私は感じています。

もずやと学ぶアーツ&クラフツ第3話

『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』第3話

【ゴシック・リバイバル】

ゴシックってどんな感じのを言うか、イメージが湧かない方は自分で検索してくださいね。

『ゴシック・リバイバルはイギリス的運動であった。多分、造形芸術における唯一の純粋なイギリス的運動であった。』(ケニス・クラーク)

『それがまさにイギリスのものであるのは、イギリス・ゴシックが、決して、大陸のように途絶していたわけでなく、ブレイクがのべていたように、パーペンディキュラー(垂直的)なイギリス・ゴシックの線的性格が受け継がれていたことにある』

『本格的なゴシック・リバイバルの運動は1830年頃からである』

『ゴシック・リバイバルは実際の建築よりも、ゴシックの歴史的研究において成果をあげ、イギリスの伝統としてのゴシックに眼を向け、その構造と装飾の資料が集成された。ゴシックの家具やカーペットなどの文様が研究され、ウィリアムモリスの工芸運動を準備したし、ゴシックの地方建築(ヴィラ)などの素朴な美しさの発見はドメスティック・リバイバルをよびおこしている』

『この運動はラファエル前派と同じく、スタイルだけでなく、モラリッシュな様相を含んでいる』

『リバイバルの最上の精神・・・ビュージン、ラスキン、ウィリアムモリス・・・は芸術の変革から社会の変革へ、死せる装飾的フォルムの擁護から社会秩序の不滅の原理の擁護へと向かった』(ケニス・クラーク)

『ゴシックのカテドラルの構造はヴィオレ・ル・デュック』によって研究され、彼はゴシック構造を絶対的合理生としてとらえた。また一方で、ゴシックの装飾文様を紹介した。デュックの図案はアールヌーボーのソースとなっている』

ゴシック様式のリバイバルからそれを分解して構造・装飾が抜き出され、さらに、精神とか原理とかいう物へと昇華され、またさらに、そこから形つまり図案とか装飾へと戻っていったような感じがありますね。

精神というか抽象的なものから形、具体的な物へ、そしてそこからまた精神へというのは宗教でよく見られるんです。

たとえば、仏像です。

飛鳥時代、奈良時代の仏像と、平安時代以降の仏像は表情が違いますよね。

お寺に行けば絵解きというお釈迦様の教えをわかりやすく図解した絵がおいてあったりします。

それは、教えや伝えたいものが変わると、それを表現した偶像も変化していること、そして言葉よりも絵や像がより一般的に理解されやすい事をしめしています。

18世紀まで教会から委託されて描かれていた絵は、すべて聖書の話です。

つまりお寺の絵解きと同じです。

お釈迦様やキリスト様の教えがあって、それが様々な形となって、偶像として信仰の対象となる。

そこから、さらに新たな教えが生まれたりもするわけです。

私達日本人も西洋人も、美しいものに神が宿るような気がするのは同じことだろうと想います。

醜いものは神から見放された物と自然に感じるでしょう。

お釈迦様やキリスト様の醜い姿を描いた絵を私は見たことがありません。

あるはずがないのですね。

私達、日本人なら、東大寺の盧舎那仏(大仏様)の安らかで大きな姿を見て、何も感じない人はいないしょう。

その『感じた何か』が造られた目的なんですね。

私の住んでいる河内、飛鳥、奈良のあたりには国宝どころか、平安京が出来る前に造られた仏像がたくさんあります。

それらの仏像と平安遷都以降につくられた仏像とはなにかが違っているんです。

ここが、この美術工芸史をつかむポイントだと私は思っています。

ウィリアム・モリスが擁護を目指したという『社会秩序の不滅の原理』とはなんでしょう?

上記の話が間違っていないとすれば、この『社会秩序の不滅の原理の擁護』こそがモリスのアーツ&クラフツ運動の目的で、彼の作品の制作意図だと言えるでしょう。

モリスについては後で詳しく出てくるので今は触れませんが、芸術・工芸というものと思想・哲学との関わり方について考え、その距離感はどうあるべきなのかを考える事は、作家として生きていく上で大きな意味があることだと想います。

モリスは、社会主義運動をしながらも、モリス商会という会社を立ち上げ、自己の中に大きな矛盾をはらんでいきます。そこにも深く考えるべきポイントがあります。

もずやと学ぶアーツ&クラフツ第2話

『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』第2話

昨日は初釜、今日は謡い初めを終えて、いよいよ明日から仕事始めです。

【ラファエル前派】(プレラファエリズム)

ここくらいからいろんな芸術家の名前が出てきますが、できたらネットで背景や作品を参照してくださいね。

・ラファエル前派はミレー、ハント、ラセッティによって結成された。

・当時のアカデミズムはラファエルを偶像視し、『崇高なる芸術』という観念がヴィクトリア朝をとらえていた。

・ラファエル前派はこれに対して、初期ルネッサンスのジオットやオルカーニャなどの素朴で力強い描写に戻ることを主張した。

・『ラファエル前派には一つの理想はない。自然の中に見た物を画布に再現することである』(ミレー)

・コンベンショナル(慣習的)な技法ではなく、自然そのものから出発することを目標として掲げた。

・プリミティヴなもの、日常的なものにおける美の発見が求められた。

上に出てきた『アカデミズム』という言葉に注意してくださいね。

○ラファエル前派の自然主義=細部における写実、触感的表現→空気遠近法の否定、タピスリ的な工芸性

○ラファエル前派は目で見、触って確かめられるものしか描写しない。しかもこの自然の表面のみによって象徴としての幻影を主題としていたのである。

○この室内性、触覚性、工芸性がバーン・ジョーンズからモリスに受け継がれた。

○ラファエル前派の中で、

  ミレー・・・自然主義、写実主義を主張

  ロセッティ・・・幻想的象徴性・・・・・・・・・・→ウィリアムモリス

  ハント・・・中間的

☆ラファエル前派がアールヌーボーに送るのは触覚的写実(室内性、平面性、工芸性)による神話的幻影、象徴性

○ロセッティにおいてラファエル前派は大きく転回する

『外的自然への忠実』から『自分自身の内的経験への忠実』へ→ラファエル前派の自然主義はモラリッシュ(道徳的)

ーーーしかし神々は死んでいたーーー

実践理性としての道徳は神の代わりに美を選んだ(美の宗教)

=自然から出発しながら芸術至上に達する

→『自然は芸術を模倣する』(ワイルド)

○バーン・ジョーンズにおける

 

 ・自然の写実に関わる構成(コンポジション)の優位

 ・視覚言語としてのイディオムの構成

 →デザインの萌芽→ウィリアムモリスのアーツ&クラフツ運動はここから始まる。

○イギリスのロマン主義の道徳性は、フランスにおける象徴主義の社会からの断絶に比べてつねに社会的である。アールヌーボーがなぜイギリスにはじまるかという原因のひとつがここにある。

と、こんな感じのあらすじです。

かなりわかりにくいと想いますし、私の理解も不十分、あるいは間違っているかも知れません。

たぶん、こういう事だと想うんです。

教会が力を持っていた時代は芸術家は教会で教化につかう宗教画を描いていれば良かったし、王権が強いときは王家や貴族の絵を注文で描いてれば良かった。

しかし、宗教改革によって教会の権威は失墜し、神ー教会ー民衆から、神ー民衆とダイレクトに神と繋がっているという気持ちができた。

つまり、神は我々の中にある。

また、教会、王族・貴族から注文をもらっていた芸術家は絶対的パトロンを失った。

誰が買うとも知れない絵を描かねばならないわけです。

何の為に描く?

絵画の制作が労働とは捉えたくないでしょう。労働は原罪によって発生した罰ですから。

そこに入ってくるのは、自分の精神。

神と繋がっている自分から生まれてくる主張です。

大衆性と道徳性・倫理性、双方を満たさねばならないわけですよね。

結論として生まれてきたのが『抽象性』、つまりメッセージ性です。

卑近な題材の中を見出して、その中に挟まっている猥雑な物を取り払う。

単純化し連呼することで、自分のメッセージを作品の中に込める。

たぶん、『南無阿弥陀仏』『何無妙法蓮華経』のお念仏と同じです。

重要なのは、技法の変化つまり、ラファエル以前の表現に戻るべきだとした、ということよりも、『抽象化』し『デザイン化』した、という部分です。

表現にとらわれると、アールデコへの流れがわかりにくくなります。

結末して、アールヌーボーの自然写実的な表現は挫折し、よりデザイン的なアールデコになって初めて、幅広く民衆に受け入れられデザインとしての洗練を見せたと言えると想います。

とにかくこの話は建築から絵画、陶器、ガラス、金属器、洋服、舞台芸術まで幅広いジャンルに渡りますから、テーマを絞らないと訳が分からなくなるんです。

注目していきたいのは、抽象化、デザイン化というキーワードです。

この言葉から何を連想しますか?

私達、呉服業界の者なら、『家紋』だと想います。

世界中見渡しても、この日本の家紋ほどすぐれたデザインは無いと私は思います。

後にジャポニズムがいかにアールヌーボー・アールデコに影響を与えたかを書くことになるかと想いますが、日本人のデザイン力が如何に図抜けているかが解ると想います。

デザインとはデ・サイン。

つまり記号化です。

絵画、彫刻などの純粋芸術、工芸などの応用芸術、舞台芸術まで含めて、その中に記号として作者の主張を埋め込む。

この記号がデザインです。

続きはまた今度 (^_^)

もずやと学ぶアーツ&クラフツ第1話

『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』第1話

さてさて、今日からはじめましょう。

私は美術工芸論の専門家でもありませんし、学者でもありません。

知識は十分ではありませんし、あくまでも自分の仕事に役立つような読み方をしていきます。

アーツ&クラフツ、アールヌーボー、アールデコ、といっても建築からファッションまできわめてジャンルが広く、社会現象とも言える大きな潮流です。

この中で、私が焦点を当てていこうとするのは、あくまでも日本の工芸であり、最終的には染織です。

大学で勉強した、あるいはしている方もいらっしゃると想いますが、学者さんとはまた違う視点というのを感じてもらったらいいのではないかと想います。

私は、工芸の世界に生きていますし、工芸品には興味を持ってきました。工芸論を体系的に学んだのは大阪芸術大学の通信教育です。

通信ですから講義はありません。本を読んでレポートを書くだけです。

私の記憶によれば、このジャンルの科目は数種類あったと想いますがオールAでした(^_^)v(あたりまえですが)

この連載もその知識をベースに、私なりの味付けをして書いていく事になると想います。

ゴタクを並べてないで書きますね(^_^;)

 プロト・アール・ヌーボーの歴史】

【アール・ヌーボーの起源】

ここではアール・ヌーボーの起源としてウイリアム・ブレイクをあげています。

ウイリアム・ブレイクというと民芸運動の柳宗悦が研究者として知られています。

これはポイントですので、押さえておいてくださいね。

なぜかというと、19世紀末からの工芸・芸術の流れは宗教・哲学・思想とは切っても切れない関係にあるからです。

そこを知らないと、『芸術・工芸の呪縛』から解かれることはないし、それがこの連載を書く目的の一つでもあります。

『ブレイクにはアール・ヌーボーのライトモチーフのすべてがある。流れるような動線とそのリズム。非対称性。植物的モチーフ』

ここであげられている『アール・ヌーボーのライトモチーフ』は日本人にとっては自然に感じられる物です。

ジャポニズムとアール・ヌーボーとの関係についてはあとでお話しする機会があるだろうと想います。

ブレイクがアールヌーボーに先駆すると考えられる点としてこの本の著者は次の3点をあげています。

1.モチーフ、形態

2.印刷技法によるグラフィックアート

3.詩にうたわれた思想(社会主義、宗教的、象徴的、芸術的ユートピア、宇宙的感覚)

そして、こう書いてます。

『ブレイクにおいてはこれはスタイルの問題ではなく、その終末論的思想によって選び取られたものである』

『ブレイクの抱いていたのはそこにおける天国と地獄の結婚というユートピアであった。終末感、予言書とは社会の激動と抑圧の時に現れる。それは社会の抑圧への怒りから生まれている』

ブレイクをアールヌーボーの起源として捉えるとすれば、そこには同じものが流れていると考えるのが自然でしょう。

ブレイクのもった抑圧への怒りとは何に対してであったか?

それは『革命思想』です。

ブレイクの生きた時代を確認してみてください。1757−1827ですね。

この間に何がありましたか?

非難爆発バスティーユ。1789年、フランス革命の始まりとなるバスティーユの襲撃が起こっていますね。

最近、慶應の通信で政治学の教科書を読んでいて気づいたのですが、この芸術の流れは宗教改革から始まっているんですよ。

つまりマルティン・ルター、カルヴァンの時代、実に16世紀の話です。

ここから、教会の権威の低下、王権への不満・地位の低下、フランス革命、各国で王権の打倒と民主化、芸術の主役の交代・・・

と繋がっていくのです。

この流れの中から、宗教・哲学が無くなることはありませんでした。

というより、常に宗教と哲学が核心にあったと言うべきでしょう。

これが理解できないのは日本人の特徴かもしれませんが、民藝論までの流れを考える上でも大変重要なポイントです。

柳宗悦がウイリアム・ブレイクの研究をしたこと、白樺派に参加していたことも注目すべき点です。

話を戻すと、このウイリアム・ブレイクからラファエル前派の運動を経て、アールヌーボーへと流れ込んでいくのです。

『ブレイクがあらゆるジャンルを超えた普遍的芸術家としてアールヌーボーの理想であることであり、究極的には普遍的人間を志向していたということがある』

普遍的芸術、普遍的人間って何でしょう?

『ブレイクの終末感、ユートピア思想における社会と歴史の弁証法の洞察、社会と芸術の孤立でなく葛藤。ブレイクはヴィジョネール(幻視者)であり、レボリューショネル(革命家)である』

そしてこう書かれています。

『子供の無邪気さと悪魔の美しさと、美と政治の揺れ動き、芸術を超えてかりたてられていく衝動こそブレイクとラスキン、モリスを、そしてアールヌーボーを外的スタイルのみでなく、内的精神においてつなぐものである』

なんとなく解るでしょう?

つまりは政治・社会を芸術で『革命』しようとしたのです。

宗教改革は神と民との直接の繋がりを意識づけた。

民はだれも、神の下において平等である。

すなわちこれは教会や王権の存在否定に繋がります。

ここから、持てる物による持たざる物の収奪という観念が生まれ、マルクス・レーニン主義を生み出します。

唯物史観です。

神の否定。反商業主義。

ウィリアムモリスも社会主義運動家であった事を考えると、この流れを指摘しない方がおかしいと想います。

そして、これには産業革命も大きく影響しているのです。

後に詳しく書く機会があると想いますが、王権の崩壊によって経済の主体は民衆に移った。

それによって、大衆文化が発展したんですが、これは蒸気機関の発明もあって機械による大量生産が行われる事になった。

それまでの職工は機械に仕事を奪われることになる。

これが、アーツ&クラフツ運動の原点となったんです。

という感じで、今日はこんなところにしときます(^_^;)

もずやと学ぶアーツ&クラフツの意義

『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』の意義

来年からはじめる、『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』について、なぜ今、この話を書きたいのか、をお話ししておきたいと思います。

一番は、その流れなんですね。

ヨーロッパの王政の崩壊から、近代機械産業の発展、消費の主役の交代、その流れとともに、アーツ&クラフツ、アールヌーボー、アールデコと移っていきます。

この流れを宗教、哲学、思想、経済、芸術、工芸と並べて見ていくと、この先、私達が何を目指せばいいのか、何を取り戻さねばならないのかが解るのではないかと想うんです。

今の芸術論、工芸論は昔から言われてきた物ではありません。

ほんの100年ほどの歴史しかない。

機械産業の隆盛で、町には失業者が溢れ、同時に、機械生産による美を伴わない品物が生活に入り込む。

ウィリアムモリスの運動も、彼が社会主義者だったことを忘れては語れないのです。

しかし、モリスの作った品物も結局は庶民の暮らしには程遠い高価なものだった。

アールヌーボーも同じです。

そこで生まれたのが、『デザイン』をメインにしたアールデコです。

機械生産により、洗練されたデザインのものが数多く、廉価に市場に行き渡るようになった。

この時点で、『手仕事はデザインに敗北した』といえるかもしれません。

そして、その流れは今も続いていて、デザイン自体も衰退し、機能と価格が最高の訴求内容となってきています。

安い、温かい、丈夫等々・・・

デザインの美しささえ顧みられなくなる。

建築もアールヌーボー・アールデコの代表選手ですが、建築さえも無機質な機能最優先のものばかりになってきています。

つまり、生活の全てから美しさが消えようとしているのです。

19世紀末からの流れをみると、それは上流から下流へ、高きから低きに流れる、必然と言えるかも知れません。

工芸に身を置く方々は、その流れに身を任せるのか、あるいは、流れに逆らってあくまで美しさを追求するのか。

そして、その美しさは何によって表現するのか?

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉があります。

私は、この話の中で、読んでくださる皆さんに一方的な方向付けをするつもりはありません。

無論、私の主観、哲学、人生観が話の中にも大きく反映してくるとおもいますが、それに気を取られないで、歴史の流れを把握して、自らの頭でこれからの自分の方向性を考えて欲しいのです。

また、芸術や工芸のありかた、政治や宗教、哲学とどのように関わってきたのかを知り、また芸術・工芸の様々な分野がどのように影響しあってきたのかも知って欲しいと想います。

そして、その中で日本の民藝論をどのように位置づけるべきなのか、も考えてもらえたら、と想います。

あくまで、このブログは私の書きたいように書きます。

独断と偏見で書きます。

それに反対意見を持たれるのもいいでしょうし、共感されるのももちろん結構です。

どちらにしても、学びを深め、自分の立ち位置をしっかり見据えるきっかけになればと想っています。

話の流れとしては、先にあげたテキストを元に、アールヌーボー→アールデコ→民藝論と進んでいきます。前二つはヨーロッパ中に話が飛びますし、他分野にまたがった話になりますので、かなり時間がかかるかもしれません。

私も大好きな分野の話なので、楽しみながら書いていきたいと想います。

年が明け次第、開始しますので宜しくお願い致します。  

もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第7話

『もずやと学ぶ「芸術と経済のジレンマ」』第7回

第6章 舞台芸術団体の財政状態

冒頭に『舞台芸術の現在の経済状況に関する報告の中で、この章はそのクライマックスにあたる』とあります。

『舞台芸術の経済的安定性は、結局のところ舞台芸術団体の財政に依存しているのである』

そして、

ウィリアム・シューマンの『舞台芸術は解っているのにあえて儲け損なうビジネスに従事している』という言葉を紹介しています。

クライマックスというわりには、ちょっとわかりにくい導入ですね。

この本の良いところは、データがいっぱいあって、難解そうにみえても、最後のところでまとめてくれているところです。

もちろん、全部読んでいますけどね(^^;)

最後のまとめを引用します。

アメリカの職業としての独立した非営利的な舞台芸術に関する所得不足の総額は、現在の経済水準からみれば規模が小さい。しかし、個々の舞台芸術団体については、所得不足が生と死の違いを意味することがあるし、あるいは少なくとも満足のいく水準の公演と受け入れがたい水準の公演との違いを意味する事がある。

ここには、舞台芸術団体の財政問題がある。財政の不足によるッ苦悩がほとんど普遍的に見られ、重大な赤字を引き延ばしてきた団体は舞台芸術の質を落とさなくてはならないという脅迫を受けているのである。

(引用おわり)

つまりは、財政の健全化と芸術の質どちらをとりますか?ということです。

『どちらをとりますか?』

文楽の助成金を削ろうという人がいるみたいですが、その人は『文楽なんてくだらない』と思っているんでしょうか。

そうでないとしたら、少なくとも私が為政者なら、『なんでこんなおもろくてすばらしいもん、皆みにけぇへんのや?宣伝がたらんのか?市民の意識がひくいんか?どっちにしても、これはなんとかして、いけれるようにせな、宝の持ち腐れや』と思うでしょう。

文楽が素晴らしいと思っていたら、その質を落としてまで、財政を良くしようとは思わないはずです。

事はそれ、天下の台所、大大阪でのことでっせ。

市長さんも、議論が高まることを予想して文楽へ客を呼び込もうとした、っちゅうなら、どえらい男ですわ。

けど、ツイッターで言い訳しているのみると、そうでも無いようでんな。

経営資源という言葉があって、その要素として『ヒト・モノ・カネ・ノウハウ・情報』があげられます。

文楽であるもんは何か?そして無いもんは何か?

ヒト・・・・演技者はある(名人が現役)、でも興行を担当する人がいない?

モノ・・・・ある(歴代の人形などの資産と文楽劇場など)

カネ・・・・無い、ということになってます。

ノウハウ・・・芸のノウハウはある。でもそれを宣伝するノウハウがない。

情報・・・・・ない

ない所を補ったら良いわけですわ。

市の財政が厳しいというなら、他のところでこの経営資源を補えばええわけです。

東京では満杯になるのに、大阪はガラガラと良く言われます。

その言葉を聞く度にいろんな意味でむかっ腹がたつのですが、これは誰に言われんでも、理由がわかります。

地元民やからこそ、解る。

一番は、そういう古典芸能に関心あるひとが人口比にして少ない。

これは、大阪が現世御利益を求める気質であることと関係があると思います。

笑いたい時は笑えるところへ。うまいもん食いたい時はうまいところへ。客を喜ばしたろ思ったら、客がよろこびそうなところへ。

私が文楽に何を求めるかというたら、一つは人形の衣装、二つは人情話、三つは芸、四つに見た後の一杯、五つに地元の伝統芸能への貢献、とうかんじです。

それと大きいのは、悲しいかな東京と比較して、大学が少ない事も大きな要因だと思います。

この本にも書いてありますが、オペラやオーケストラに行く人はかなり高学歴だということです。

文楽に関していっても、ある程度の古文や歴史の基礎知識がないと、全然ちんぷんかんぷん、慣れる前に寝てしまうと思います。

愛好者に文学部出身の女性が多いように思われるのも、そのせいじゃないでしょうか。

そして、言葉がわかりにくいというのが歌舞伎と能・文楽の大きな違いじゃないでしょうか。

文楽劇場の舞台の上には現代語訳が出るようになっていますが、これを見ていたら人形が見られません。

能でも謡曲本と首っ引きになって舞台を見ていない人がたくさんいますが、これでは能を観たことにならないように思います。

私も、言葉を全部理解できる訳ではありませんが、解らなくても文楽なら人形、能ならシテの演技に集中します。

昔はマイクなんてなかったし、薪能では、声なんて聞こえなかったんじゃないでしょうか。

訳がわからないから行かないんだとすれば、TVで公演情報を流してあらすじを紹介したらどうでしょう?

市長さんもぶら下がり会見の時に、文楽にまつわる話を交えてコメントすれば、みんな彼を見直すし、文楽への関心が高まるはずです。

マンゴーもって、グーなんてしないでいいから、彼らしい貢献の仕方があるように思うんですよ。

伝統芸能や伝統工芸だけじゃなくて、為政者はもっと地元のPRに勤めるべきじゃないでしょうかね。

私は大阪府民として大阪のイメージがたこやき、くしかつ、よしもと、になっているのに我慢がならないのです。

芸術性を落とさずに、財政難を解決するにはお金を上げるだけじゃないはず。

そんなことも解決できないで、国政に出ようなんて、まさか思てぇしまへんやろな。