『商道 風姿花伝』第47話

【そもそも、因果とて、よき・悪しき時のあるも、公案を尽くして見るに、ただめづらしき・めづらしからぬの二つなり】

つまりは、

能の作品の数々も、世間の多くの観客や、様々な上演場所について、その時のあらゆる好尚に応じて舞台に出す演目こそが、観客の要求を満たす為の花ということであろう。

そして、最後に

ただ、その時に喜ばれるものが花であると知るがよい。

と書かれています。

下世話ないい方をすれば、『喜んでもろてナンボ』という事なんですね。

ええ演技も悪い演技もない。喜んでもろた演技が花のある演技ということになる、と世阿弥は書いているんです。

でも、喜ばれるからと言ってゲスい演技でもいいのでしょうか?

そうならなかったところに、能の素晴らしさがあるということなんでしょうね。

観衆にも素晴らしい感受性と審美眼があった。

観衆の求めるレベルが高かったからこそ、能も高尚たりえた。

そういうことなのではないでしょうか。

文楽もわかりづらい、と言われますよね。

でも、昔の人は、解ったから流行ったし、今に伝わっているんです。

もちろん、言葉の問題はありますが、本当はそれだけではないのではないかと想うんですよ。

言わば、能や文楽は伝統に沿うことによってレベルを落とさずに来たが、観衆のレベルが落ちている、それが現実なのではないでしょうか。

政治家、役人、実業家、それぞれの文化レベルを見たら、どうでしょう?

明治時代と比較しても、眼を覆うばかりのていたらくとは感じないでしょうか?

文化というのは、上から下へと流れます。

上が高ければ、文化の階層は高く多重層化します。

しかし、上が低ければ、低いまま層も少なくなります。

文化レベルを引っ張るべき、政治家や経済人、官吏のレベルが低ければ、庶民レベルは推して知るべしなんです。

ここは文化論を書くブログではありませんが、芸能だけでなく、物販も同じなんですね。

着物は文化だと言いながら、『えーこれが文化か?』と眼を覆うような着物も多々眼にするようになりました。

私の様な伝統染織を扱う者は、能や文楽の人達と同じで、高みに止まっていなければ、文化的、歴史的役割は果たせないんです。

降りていけば、伝統の看板を下ろさなければなりません。

『みんなの花』であるのか、『解る人には解る花』であるのか?

究極の選択なんです。

でも、私は後者をとった。

どちらも花であることは間違いない。世阿弥も言っている事です。

お客様に喜んでもらってナンボです。

どの道を行くかは、だれが決めるのではない自分自身ですし、どちらを選ばれても花の価値に多寡はないと想います。

ただ、花の価値が解る人が少ないからと言って、その花の値打ちが無いと言う議論は間違っていると私は思うのです。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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