『手仕事の日本』を読む 第4話2021/3/21

手仕事に関わっていると、作り手の心理・気持ちというものが作品に大きく影響していると地感じます。イヤイヤとか、気に沿わないモノを作ってもらっても、いいものができてきた試しがありません。そんなのはプロとは言えない、とかいうのは現場をしらないひとです。作品を作るのは、機械じゃない。心のある人間なんです。そこをよく理解していないと、今よく言うところの『繋ぎ手』にはなれません。

では、どうやったら、つくり手に良い精神状態を与えてものづくりをしてもらえるのか。

それは、何が作りたいかを知ることです。

商売人ですから、売れるものを作ってもらいたい。アタリマエのことです。

しかし、気の入っていない作品は現実の問題として売れないのです。

私が言うところの『売れる』というのは作品の魅力だけに購買動機を絞った場合の話で、お客さんとの付き合いや接待など付帯的な販促は考えないことにします。たとえば、私が難波でやっていたような展示会で一見のお客さんが足を止めて作品に見入り、買ってくださるか、ということです。

作品にそれだけの魅力が備われば、商人は楽勝です。作品がモノを言ってくれるのですから。

私は常にそこを目標にして、作家さんと共にものづくりをしてきたつもりです。

中には三代目更勝さんの様に、『あんたの欲しい物をつくってあげるよ』と言ってくれる人もいます。これは職人さんとして超一流です。更勝かつさんは多くを言わなくても、私のほしいものを的確に作ってくれます。でも、それは、私と美意識が共通するところがあるからだと想います。

江戸小紋の金田さんも同じ感じですから、これは、江戸の職人気質というものかもしれません。

しかし、沖縄ではそうは行きませんね。

気に沿わないものを頼んで、作ると言う返事をもらってもいつまで経っても作らない。

作ったとしても、変なのが上がってくる。

そんなのが普通のことです。

大事なのは、その作り手の得意技を知り、それを活かした発注をして、喜びを共有することを目指すことです。

出来上がって、良いのができたら、爆発的に喜んで、ほめてあげる。

ダメだったら、もう一回、チャレンジ。

2回はありません。

他にその作り手さんに合う繋ぎ手がいるとおもうからです。

私が手出しする領域じゃない。

作りて、繋ぎ手、お客様が、喜びを共有する。

そこに手仕事の妙味があるんだと私は考えています。

常に作り手とお客様の笑顔を思い浮かべながら、仕事をする。

これが繋ぎ手としてあるべき姿であり、民藝の王道ではないでしょうか。

『手仕事の日本』を読む 第3話2021/3/14

『国民の手の器用さは誰も気づくところであります』

日本人は手先が器用だと言われてきました。

柳が当時言う通り、いまでも日本人は器用だと思っている方、信じている方も多いと想います。

しかし、現場の声は違います。

日本人の手は確実に劣化している。

そういう話があちこちの指導者から聞こえてきます。

それが真実だとしたら、なぜそうなってしまったのか。

あたりまえでしょう。

手を動かしていないからです。

私達が子供の頃はあやとりという遊びがありましたし、

えんぴつは手で削っていました。

計算もそろばんです。

電車に乗れば、編み物をしている女性をたくさん見かけた。

ほんの50年ほど前は、着物も反物で買って自分で縫うという人が多かった。

ちょっとした生活道具は自分で作ったんです。

ところが今はどうでしょう。

キータッチのみでなんでもできてしまいます。

お料理さえしない日本人も増えてきたそうです。

なんでもお金で買えば良いという世の中。

どんなにすぐれたDNAを持っていたとしても、後天的に磨きをかけなければ劣化するのはあたり前です。

織物の場合は特に糸作りです。

絹はほとんどの人が買糸をつかいますが、苧麻や芭蕉はそうは行きません。

原料となる植物から栽培して、自分で績むんです。

20歳過ぎて宮古島や喜如嘉に来て仕事を始めた人と、地元に生まれ、おばあちゃんやお母さんの仕事を見て、子供の頃から手伝ってきた人の仕事が同じわけがありません。

舞踊でも同じことを聞いたことがあります。3歳位からやらないとほんとの上手になるのはむずかしいのだそうです。

実は商売もそうです。大阪が商都と言われてきたのは、商売人の子供が小さなときから親の商売を見てきて、考え方に触れ、身体に染み込まされてきたからです。それがだんだんヤワになってきたのは、事業所と住居が離れ、仕事を家に持ち込まないことを美徳とする世の中になってしまったのが大きな原因だと想います。

話をもとに戻しますが、日本人の手は劣化しているのは事実のようです。

面倒くさいから、効率が悪いから、といって例えば紅型の型を外注したり機械で彫るようになったのでは、ますます手は劣化していきます。

一部分だけ手だからええやん!

一部分だけでもいいのです。

ただし、それが一番大切な部分であれば!

織ならもしかして、引き通しとかは手仕事である必要はないのかもしれません。

そうこうのセットとか。

染なら何でしょう。

『何を残して何を捨てるか』を考えて行かねばならないと、これまでもお話してきましたが、大事なところを捨てたら、それはもう、手仕事の作品とは言えません。

なぜ、手でやらないと行けないのか。

それは、手を鍛える、という意味もあるのだと想います。

心臓外科医は手術がない時はネズミの血管で手が劣化しないように練習すると聞いたことがあります。

作りては手が命でしょう。

自由自在に動く細やかで優しい手があってこそ、よい手仕事が生まれる。

感性に逃げてはいけません。

まず、布として、陶芸なら陶器として、自分の目指すところを定め、そこへの到達を目指しましょう。

感性は良い仕事を積み重ねる中から育まれていくものです。

そこに民藝の真髄があるのだと私は考えています。

『手仕事の日本』を読む 第2話2021/3/7

民芸を考える時、私はよくワードプロセッサが世の中に出だした頃のことを思い出します。

私が高校生くらいのときだったでしょうか、キャノワードとか文豪だったか、忘れましたが

ワードプロセッサが販売されました。私も大学3年か4年のときに、リサイクルショップで購入したのを覚えています。

当時まだパソコンはあまり普及してなくて、プリンター付きのワープロが圧倒的でしたね。そんな時によく聞いた話が、『ワープロで打ったほうが丁寧だ』『心を込めてワープロで書く』というようなものでした。

今も、特に年配の方からの年賀状が宛名までプリントになっているのが多いのはそのせいでしょうか。

私はその時分はまだ若かったのですが、『丁寧に心込めて書くというのやったら、せめて筆ペンで書いたらええのに』と思っていました。

織物に関しても、きものファンは別として、一般の方の中には機械で作ったほうが正確に間違いなくたくさんものができて良いんじゃないのか、という言葉が多く聞かれました。

今でも、年配の方々には機械文明に対する過剰な期待と信頼があるように想いますが、手仕事のものが良いものだという感じが持たれるようになったのはそんなに昔のことではないように思われます。

手仕事だけでなく、昔ながらの方法でやったほうが良いものができるものはたくさんあります。お料理も炭火で焼いたほうが美味しいし、羽釜で炊いたごはんは美味しい。お茶も炭火で沸かして、鉄製の釜で沸かした湯で点てたほうが美味しい。なぜでしょうか。

AIが発達したとして、機械が握ったお寿司が、ふんわりと口溶けの良いものになるでしょうか。センサーで魚の美味しい部位を当てて取り出すことができるのでしょうか。有名な書家の字をフォントにして、ワードに組み込めば実際にその書家が書いたようなものになるでしょうか。

柳はここで、手仕事の良さが見失われていることを認めながら、まずは全国の手仕事を見て歩きましょう、と書いてこの本を始めているというわけです。

前述の問いかけに関して、このブログを書きながら私も何度も何度も考え直してみたいと思っています。

読んで頂く方も、手にとった器が、これは手作りなんだろうか。愛着を持てているんだろうか。そうだとしたら、なぜなんだろう・・・そんなふうにご飯を食べながら、お茶を呑みながら少しだけ考えていただければ幸いに想います。

『手仕事の日本』を読む 第一話2021/2/20

では、第一回始めましょう。

原文は青空文庫から転用させてもらってます。

1段落ずつ細か読んでいきますね。

 

まず、『貴方がたはとくと考えられたことがあるでしょうか。今の日本が素晴らしい手仕事の国であるということを』

この文で始まります。

では、考えてみましょう。

今はどうでしょうか。

今もまだたくさん手仕事のものがあると言う感じがされていますか?

それとも、もうないんじゃないの、と感じられているでしょうか。

このブログを読んでくださっている方は、ある程度民芸に関心をお持ちの方が多いと想いますので、前者の『まだ、結構ある』との答えが多いかもしれません。

染織だけでもまだまだ無いというレベルまでは行っていませんし、陶芸なんてほんとうにまだまだたくさんの陶芸家がいます。木工、竹細工、金工、などなど、少し探せば手仕事をされている方に出会うのはインターネットの時代でもあり、簡単なんことです。

手仕事は残ってもそれだけではダメなんです。

民芸運動の大きな命題は、『私達の生活の中に手仕事の美を取り入れ、美に囲まれた暮らしをすること』だからです。

特別に上等なものだとか、観賞用のもの、展示会で入選するために作られたものがたくさんあっても、それは民芸の世界ではあることにならないのです。

あくまでも、私達がある程度日常の生活の中で使い、少し探せば手に入り、長く使うつもりであればそこそこの所得の人なら購入できるものでなければなりません。

手仕事であれば、手作りであれば良いのかといえば、それだけを目指しているのではないということを認識しておきたいと想います。

『凡てを機械に任せてしまうと第一に国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものと共通にしてしまう傾きがあります。』

どうでしょう。

全くそうなってしまっていますね。

テレビで見てもわかりますが、全世界衣服はほぼ同じものを着るようになってきています。

民族衣装はお祭りや婚礼の時だけ。

皆さんのお家の食器棚を見てみてください。

和食器はどのくらいありますか。

湯呑とコーヒーカップ、どちらが多いですか。

なぜそうなるかといえば、もちろん生活習慣の変化、世界的均一化ということもありますが、機械化=効率化だからです。

効率を追求すれば、同じものを作るほうが安くたくさん作れます。

企業はその方向へ消費者を誘導しようとする。

個性なんてなくて良いんです。

文化なんて障壁でしか無い。

世界中同じもの、たとえばアメリカでジーンズが機械で安価に作られたれるように慣れば、世界中の人に着させようと思うでしょうし、発展途上国の人にまでとなれば、さらに大量に安くということになる。そこでは文化も習慣も邪魔。美意識も障壁としかとらえられない。だから、ブランドという名の洗脳が生まれるわけです。

そんなことない、機械でも良いのあるよ、という意見もあると想います。

実際、機械で作ったほうが、正確で失敗のないものが生まれてくるから良いんじゃないのかという話も多く聞いてきました。

民芸論を理解する上で、私が個人的に必要と思うことは、『文明はすばらしいものだ』ということに疑問を持つことです。

産業革命以降、世界中はそれまでとは比較にならないスピードで文明が進歩し、生活は便利になってきています。

しかし、そのことで失ったものもたくさんあるということは、ほとんどの方が気づいておられるのではないでしょうか。

野に咲く花よりも、しおれることも枯れることもない造花が美しいと思う・・そんなことがあるとしたら、プラスティック製のご飯にお箸をつけてしまう・・そんなこともありえるのです。

人間性、いや、自然界に生きるものの感性を失わないためにも、民芸論は忘れられてはいけないのだろうと私は思っています。

手作りのものは高価である。

これは確かなことです。

湯呑一つ作るのでも、いくつもの工程を通らなければ、みなさんの食卓に登ることはありません。

最低賃金が1000円近くなっている今の日本で、手作りの湯呑茶碗が100円ショップに出ることはありません。

しかし、お気に入りの手作りの湯呑を毎日使ってお茶を飲む生活に2000円は惜しいでしょうか。

私達の心を和ませてくれる花を入れる花器に1万円は高いでしょうか。

普通の人の手に届く範囲の価格にすることは手仕事の工人にとって不可能なことではないはずなんです。

和装の分野でも、昔は多くのお針子さんが家計を支えていた時代がありました。

仕立て代が高いという方が多いのですが、着物は3日で縫えるとよく言いますが、

1日8時間、三日間で時給1000円としたら、24000円です。

これはアルバイトの学生でも得られる賃金です。

実はもっと需要があって、仕事が増えたら、効率も上がり、技術も上がり、手も早くなって

良い仕事のものが、そこそこの値段で手に入るようになるはずなんです。

確かに機械でじゃんじゃん作るほどにはコストは下がらないですが、内容と価格のバランスからすれば、手仕事が捨てられることはないと私は考えています。

では、何が必要か、です。

一つは、消費者のモノを見極める眼です。

これはじっくりと話を続けていきたいと想います。

そして、流通させるつなぎ手の眼。

これが節穴が多いのがどうしようもない。

流通業者の罪は、流通コストではなく、良いものを自らの目で選んで、お客様のもとに届けるという最も必要なことができていないことだと思うのです。

柳宗悦は問屋の存在を一貫して否定的に書いていますが、工は善、商は悪というのも、全く間違った考え方で、工商一体で民芸論は論じられるべきでしょう。

そこのところも、柳宗悦の民藝論の大きな欠陥といわれる、人間性の欠如が顕在化している部分だと私は感じています。

次回は次のセンテンスについてお話します。

1話1センテンスずつです。

 

また連載はじめます。ネタ本は『手仕事の日本』2021/2/14

ちょっと間があいてしまいましたが、また連載を始めたいと想います。

毎回ネタを考えるのも大変ですし、私も勉強しながらの投稿ですので、前の通り書物を題材にして書いていきます。

ネタ本は柳宗悦著『手仕事の日本』です。

私が三十代半ばの頃、民芸論を勉強しようとして初めて手にとったのがこの本だったと記憶しています。この本からとりつかれたように民芸関連の本を読み漁りました。

そして、反民芸の本もたくさん読みました。

いろんな意味で私の民芸論の原点となった本です。

もちろん、私は染織、もっといえば沖縄の染織以外は大して知識がありませんし、作品を論評することなどできません。そこはものづくりの立場、そして商人として語るつもりです。

柳の民芸論は『非人間的』との批判が多くなされます。このへんも、生活者としての工人という視点でも考えていきたいと想います。

毎週日曜日の投稿という感じで書いてきます。

お付き合い、よろしくお願いいたします。