伝統文化と多様性 2017/12/5

私は茶道、謡曲、コーラス、釣り・・等々下手の横好きで多趣味なのですが、特に茶道に関して常々想う事は、お茶を習うということに関しても、それぞれ人によって求める物は多様だなぁ、と言うことです。

初め想っていたことから変わってくる場合もあるでしょうし、初めからずーっと思っている事を貫く人もいる、また、何も得るものは無いと、辞めてしまう人もいるでしょう。

私のお仲間の中でも、お茶に求める物は、多種多様、ひとそれぞれという感じを強く持ちます。

それが、茶道の奥深さ、懐の深さということでもあるのでしょうが、お教えになる先生方は本当に大変だろうとも想いますね。

道具に凝る人、点前を追求する人、自分のライフスタイルのアクセサリーとしている人、雰囲気が好きな人・・・

ほんとにいろいろな感じがします。

それぞれあっていいのだろうと想いますが、何をどう求めようが、満足していれば続けられるし、続ける事に意味があるのだろうと想います。

着物を楽しむということも、全く同じなのだろうと想います。

着物に、そして着物を着ると言うことに、求める物はひとそれぞれ。

伝統文化に触れるとか、キレイな物を着たいとか、昔のライフスタイルを味わいたいとか、着飾って差を付けたいとか、お稽古ごとで着なきゃいけないからとか、身体に良いと聞いたからとか・・

いろいろあるんだと想います。

どれも、良いと想いますし、その趣味・趣向によって現れてくる表現も違うでしょう。

もちろん、ライフスタイルも、お財布も、着る環境も違いますから、多種多様、てんでバラバラということになります。

今、おかしいと想われている事も、あと30年も経てば、だれもおかしいと想わなくなる。

文化とはそういうものです。

否定的な意味ではなく、だからこそ、『自由に思いのまま着る』というのは怖いことでもあるわけですね。

その人の、センスや性格や環境が、見え見えになってしまいますからね。

私の感じるところでは、戦争によって壊されたわが国の伝統文化が、いよいよ消滅してしまいつつありますね。

では、わが国から文化が無くなるかといえば、そんな事は無いわけです。

一度は消えても、同じ土壌に同じタネがあるわけですから、たとえ外来種が来ても、また同じ様な草木が生え、実もなるはず。

わが国の文化は江戸時代という閉鎖された熟成期間がありましたから、非常に高度になったんだと私は理解していますが、今はグローバルとかなんとか行って、たえずいろんな物が入って来ますから、混乱しているんでしょう。

では、沢山の外国人が来た、堺や博多、長崎で文化が醸成しなかったか?と言えば、結論は歴史が示しています。

我々中高年が眉をひそめるような事でも、50年100年経てば、立派な文化として尊重されているかも知れないのです。

昔から日本人というのは舶来好きで、いろんな物が入って来て、その度に、影響を受け、そしてそこから、自らに合う様に熟成をしていったのでしょう。

そう想うと、わが国の文化が頽廃しているとか嘆くことは何も無いと想うのです。

また、必ず、我々とは違うかも知れないが、優れた文化を生み出してくれます。

そこにはまた、日本人らしさが必ず、反映されることでしょう。

しかしながら、心配なのは『ものづくり』です。

和装業界だけでなく、永年日本人が愛してきた伝統工芸が、とてつもない危機に瀕しています。

ものづくりが廃れば、精神性の高まりも限界があります。

精神が退廃すれば、ものづくりも廃ります。

無機質な物しかない世の中には、無機質な生活しかあり得ません。

求め用いる目的はいろいろでも、キチンとしたモノを造れるものづくりを残していかねば、私達の先人が営々と築いてきたモノを土台から失うのではないか、そんな危機感をもたねばならないところまで来ているのかもしれません。

伝統文化に求めるものは多様で良いと想いますが、ちょっと触れるところからもう一歩踏み込んで、『あ、これは楽しいな』『これは面白いな』と感じて、自分の生活に活かしていく。

私達日本人は、古代から同じ日本という国に住み、同じ風土で生きてきたのですから、そこに育まれた文化・習慣を採り入れて暮らす事で、豊かさを感じる事ができると想うのです。

私の様な文化に携わる者の端くれも、押しつけるのではなく、多様性を認めながら優しく提案していく姿勢が必要なのではないかと想います。

梅田・阪急百貨店『白洲正子のきもの』を見て2017/9/30

梅田の阪急で開催されいてる『白洲正子のきもの』の展示を見てきました。

元々、私とは好みが合うなぁ、と想いながら色々と参考にさせてもらったりしているんですが、非常に素晴らしい内容でした。

会場は撮影禁止なので私の持っている本から写真を拝借します。
(『白洲正子のきもの』新潮社)

ロートン織(大島郁作)

これはロートン織に多彩な横段の縞が入っています。規則的な横段になっているのかと想って見たんですが、どうもランダムに不規則に入れてあるようです。
沖縄では見たことが無い感じがしましたが、ロートン織の単調さをカバーするには良いデザインかも知れないと想いました。

久米島紬

泥で2点出ていた様に想います。

柄は大振りなほうですが、絣に力がなく、絣としてはそんなに良い作品とは想いませんでした。キレイに括れてはいたし、絣足も味がありましたが。もしかしたたら白洲正子が細めの絣を作らせたのかもしれません。私が注目したのは、グールの色です。いまのよりもかなり濃いです。それによって白の絣と合わせて、色絣としての存在感と躍動感は出ている様に想いました。

琉球絣として出ていた作品。

絵絣なので南風原産でしょうか。

写真では全く解りませんが、地色の藍が素晴らしかったです。

昔の絣にしては小柄で大人しい感じがします。

これも注文かもしれませんね。

半幅帯
井手孝造というひとの作品らしいです。
引きつけられたのは、右側の作品。
筆致も凄いのですが、色がすごすぎる。筆で引いただけでこんな色が乗るのでしょうか?
圧倒的でした。

柳悦博の吉野格子の生地に古澤万千子の染め。
かなり凹凸のある生地に、よくこんな繊細な文様を乗せた物だ!感心しました。
それでいて、生地と染めが完全に調和して、相乗効果をあげている。
古澤の力量が十分に感じられる作品でした。

紺色のは『琉球絣』と書いてありました。後述する田島孝夫の作品ですが、藍色が
すばらしい。沖縄では『縞ぬ中(あやぬなか)』というジャンルに入る作品ですが、織の技法の前に色で圧倒されてしまいました。

黄八丈
専門外ですが、いままで見たのと全然ちがいました。
色の奥行きが全く違うのです。
シンプルな構図ですが、力強さがわき出ているような素晴らしい作品でした。

琉球絣と書いてあった作品。
作者は田島孝夫
手結いの絣を使っている様ですし、構図からして手縞を手本にして、白洲正子が田島孝夫に、自分に合うように作らせた物でしょうね。
これも藍の発色が素晴らしい作品でした。
それと一番示唆を受けたのは、おそらくは白洲の要望で絣と縞を細くしたのでしょうが、
それでいて、『沖縄っぽさ』がそんなに抜けていない。力強さ、伸びやかさが十分にあって、『ニセモン』にはなっていないのです。
これは私にとって衝撃でした。
なんでこんな作品が出来るのか・・・・
総合的な織手としての実力がそれを実現可能にしているのでしょうが、やっぱり、染めと、その発色を保証する糸の質なんでしょうね。
写真では割に弱々しく見えると想いますが、現物をみると、腰を抜かしました。
細い線なんですが、生きてるんです。
コーディネートもさすがですね。
無地物の良さがもっと認識されて欲しいと想います。

芭蕉布も一点でていました。
よく見ると筒袖だし、丈が短い。
ということは、白洲は芭蕉布を琉装っぽくツイタケで着ていたんでしょうね。
これによって白洲正子が着物の超上級者である事が一発で解ります。
素材の特性を熟知して、それを十分に活かして着る。
筒袖なので、襦袢はどうしていたのかな?とか気になりますが
さすが!と想わせるに十分な一点でした。

柳悦孝の鉄線ですが、何気ない緯絣の様に見えますが、実はこれ、三段階の強弱によって構成されいてるんです。絣の強弱で2種。そしてジーッと見ないと気付かないかも知れませんが、花心の部分が節糸?になっていてポイントが作られているんです。悲しいかな老眼ですし、作品に近づけないので、節糸なのか花織なのか、よく識別できませんでした。近づき過ぎて柵を動かしてしまうくらい近づいたのですが・・・絣、とくに大きな構図の絣になるとベターっとなっててしまう嫌いがありますが、これだと立体感が増しますね。経緯の絣だと絣の交わりによる織味で濃淡や立体感が出せますが緯絣だけだとそうはいきません。これも大変参考になる技法でした。

白洲正子という人は、文化人だと想っていたら、ただの文化人ではないですね。
『こうげい』という着物のお店を銀座に開いて着物を売っていたということですが、
この作品展を見ると、『染織プロデューサー』であったことが解ります。
彼女と仕事をしている作り手の力量がまたとてつもなく凄い。
たぶん、お金に糸目を付けずに良い物を作らせたのでしょう。
もちろん、展示は白洲正子が実際に着用していた物ですから、彼女が自分の為につくらせたものだったのでしょう。実際、目鼻立ちのハッキリした白洲にピッタリの作品ばかりでした。私の場合、付き合ってるのは作家さんです。作家さんというのは自分のカラーがはっきりしていて、『作りたい物を作る』人達です。白洲が付き合っていたのは『職人』ですね。白洲の想いを受け入れてそれを形にした。またそれができる抜群の力量を持っていた。もちろん、白洲の力量もあるのですが、着物好きとしても染織プロデューサーとしても幸せな人だと想います。
今時は、特に織の分野では『言われた通りに作りますよ』なんて言って、出来上がってきたら、とんでもなく素晴らしい作品だった、なんて職人どれだけいますかね?織の分業において、また染めではまだ居ると想いますし、私もすぐれた職人さんともお付き合いをさせていただいています。しかし『作家物』と言う言葉が流行りだしてから、凄腕の職人さんは減ってきているような気はします。織のおあつらえ、というのが無くなって、委託販売が中心になっては、そうなるのも必然でしょうね。

もう一つ気になった作品は藤村玲子の紅型です。
残念ながら画像がありません。

あれをみると、白洲正子は紅型があんまり好きじゃなかったみたいですね。
赤を殺して、色指しも全体的に抑えめにしてありました。
柄も小柄で、ハッキリ行って、まったく面白くありませんでした。
もしかしたら、当時の藤村の力量にも問題あったのかもしれませんが、ちょっと『無理矢理作った感』『イヤイヤ作った感』のある作品だったと想います。
正直言って、紅型らしい魅力がまったく無かったです。
私なら、白洲正子にぴったりの紅型を作ってあげられたのに!とも想いましたね。

おそらく、ある時点から、白洲正子自体にも行き詰まり感があったんだと想います。それは、『私の好み』が一方通行で行ってしまって、作り手やお客様との『息の合わせ』がなかったような形跡が感じられるからです。

そうなると自分の好きな物は作らせることが出来ても、より幅広いお客様に指示される作品は作り得ません。

そこが作家とプロデューサーの違うところです。

本当にたくさんの事を感じる事ができて、狭い会場ですが、2時間たっぷり見せてもらいました。

沖縄の染織家さんたちにも是非見せてあげたいです。

プロデューサーとしての物作りと才能2017/9/18

私は染織、とくに沖縄染織のプロデューサーと自称しています。世間的に見ればただの問屋です。『自分で織ったことも染めた事も無いクセに何を偉そうに』そう想う人も多いでしょう。でも、実はちょっとやったことがあります。しかし、プロとして活動するには技術と共に才能が必要です。染織に関しては、私は『手を動かす』という事において全くの無才能です。全く不器用なのは、私の図画工作の成績が物語っています。プラモデルもろくに作れたためしがない。染織家としてプロになるどころか、工芸全般において、まったくの圏外にいると言っても良いでしょう。だからこそ、素人としていろんな物作りや芸術に触れて、『感性』だけを磨いているんです。それで、素人だから出来る事もあるんです。プロにとてつもない提案をするのも素人ならではです。それがそのプロにできるモノであり、乗り越えられるハードルであるかどうかを判断する。それが物作りのアマチュアであるプロ・プロデューサー?の真骨頂だと私は思ってます。そのためには、物作りは知っていないといけないし、頭の中に完成された自分の作品を持って居ないと行けない。こないだのラジオ番組でなかにし礼という作詞家が、少年の頃の体験を、ある歌手との出会いがキッカケで歌にした、と言う話をしていました。なかにし礼は、少年時代に父親がニシン漁で大もうけして、その後失敗して路頭に迷ったそうです。それをいつか歌にしたいと想っていた。それで現れたのが『北原ミレイ』でした。北原ミレイの声を聞いて、『この女に歌わせよう』と想ったんだそうです。そして出来たのが『石狩挽歌』です。https://www.youtube.com/watch?v=UpEioKGUEcY

『そこまでの想いを込めた歌なら自分で歌えばいいじゃいか?』
シンガーソングライター全盛の今ならそう想うかも知れません。でも、その詩情を伝えるには、その世界を表現する、『歌い手』が要るのです。作詞家はもちろん自分でも歌えるでしょう。自分が歌うのが一番と思えば、そうするでしょうし、もっと、良い表現者が居ると想えばそうする。それだけのことです。京友禅とかだとわかりやすいですが、優れた作品はたいてい分業で成りたっているんです。作家といわれる人でも、実は全部自分でやってるわけじゃない。図案も図案家に描かせている人も居るし、自分では刷毛を持たない染色家もたくさんいます。でも、その染色家、染織家が、『自分の世界』を持って居れば、それは作家と言われるにふさわしいのです。でも、私は作家じゃないし、作家とも呼ばれたくない。染織家と出会ったら、その人の特長をよく把握して、自分の世界との接点を見出して、共に作品づくりをしていくというのが私のスタイルです。ですから完成された人や、自分の世界から一歩も動かない人は、お互いやりにくい。自分の世界を構築し、それを相手に伝える、それも出来るだけ具体的に伝えたい。だから、シコシコ勉強したり、チマチマとヘタなりに物作りをしてみたりするんです。趣味でいろんな物作りをしたり、絵を描いたりしてる人は、自分のジャンル以外の事に踏み出してみても面白いと想いますよ。絵を描く人が、『これこれこんな感じでバッグに刺繍してみて』とかね。そのかわり、出来てきたモノはドーンと受け入れる度量は必要ですよ。自分の伝え方が悪かったのか、あるいは、自分が思う世界にその刺繍するひとが合わなかったのか。その繰り返しがまた、自分の世界をさらに突き詰めるキッカケにもなりますしね。まぁ、いずれにしても、楽しく物作りしないと、良い作品にはならないです。それが私の一番のモットーです。

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紬のたのしみ2017/5/16

いきなりですが、紬というのは紬糸を遣っている織物の事をいうのであって、シャレ物の織物全般を言うのではありません。

沖縄でも南風原の絣は昔、多くが経緯生糸(平絹)を遣っていましたし、首里の織物、特に花織、花倉織の類はたいていは生糸遣いです。

生糸が繭から糸を引き出す方法で糸を造るのにたいし、紬糸というのは繭を湯で解いて、角真綿にし、その真綿から糸をつむぎだす方法をとります。

こうすると繊維の間に空気がいっぱい入りますから、温かくふんわりした風合いになるという訳です。

江戸時代、奢侈禁止令が出たときに絹織物の着用が制限された時代がって、オシャレな人が苦心して綿織物に見える絹織物としてつくらせ、愛用したという話です。

そもそも、養蚕あるいは絹糸生産が伝統的に日本で盛んであったのか、といえば、そうではありません。

綿糸、あるいは絹糸のほとんどは輸入に頼っていたんです。

糸割符舟というの出て、堺や京都の許された商人だけが独占的に扱っていたんですね。

と言うことは、紬は、捨てるようなクズ繭からひいた野良着である、などという言い方は全く当たらないということが良く解ります。

逆に紬織物というのは、日本人の美意識がつくり出した最高点の衣類であると言って良いと想います。

なぜなら、庶民が幕府から規制をかけられながらも、オシャレ心を忘れなかったということの象徴だからです。

羽裏にしゃれた物をつける、というのが日本人らしい美意識だと言われますが、それと同じ、いや、それ以上の象徴的存在なんですね。

私は紬以外の織物も、染め物も手がけていますが、正直言って、紬が一番好きです。

なぜかというと扱っていると気持ちが安らぐからです。

まずは温かい風合い。

経緯の糸が織りなす『織味』

とくに絣は、そのかすれ具合が絶妙になって、引き込まれそうになります。

紬は、造って良し、見て良し、触って良し、着て良し、持って良し。

そして一番はね・・・

自分で作り上げる、あるいは完成させることが出来るという魅力なんです。

染め物というのは出来上がった時にすでに完成されていて、あとは劣化していくだけです。

しかし、織物、とくに紬織は、そこから自分が着ることによって進化させることができるんですね。

染め物は30年くらいしか持ちませんが、紬織なら、いいものは50年、100年と持ちます。

30歳で買って80歳まで着ると、どんどん風合いも見た目も変わってきます。

まるで、使い込まれた茶器の様に味わいを増してくる。

それを楽しむのも紬の楽しみのひとつです。

最近はみんな、せっかちになってしまって、ジーンズでも履き古したもの、あるいはそういう感じを新品のときから出した物が好まれるそうですが、繊維好き、布好きの私からしたら、あーもったいない!という気がします。

紬は自分で着ることで完成させる過程を楽しむことができるし、それが一番の楽しみだと想うのです。

八掛がすり切れて、エリも汚れて・・・

いろんな事が出て来ますが愛情を持って、お手入れをする。

5年、10年、20年、30年・・・

着るごとに表情が変わってくるはずです。

それはまさに、美術館で展示された茶碗と、何百年も遣われ続け、あるものは金継までされた茶碗の差を見るようです。

50歳で紬の着物を買ったとしたら、あと30年、40年、どんな風になるかな?と楽しみをもって見て頂けたらと想います。

そして、子から孫へ。

大事にすれば100年前、ひぃおばあちゃんの着物だって着ることが出来るんです。

代々に渡ってタスキを渡されて、着物を完成させる・・・

こんな素敵な事があるでしょうか。

・・・

話が止まらなくなってくるので、今日はこのへんで(笑)

堺更紗 (小谷城郷土館)2017/2/21

堺の小谷城郷土館に行って来ました。

うちから車で30分ほど。

小谷城とはこんなところです。

古い農具やら家具、土器などが置いてあって、時節柄、小谷家に伝わるひな人形が展示されていましたが、今回の目的は『堺更紗』です。

堺更紗とは、長崎、鍋島に続く、和更紗の事で、ダイナミックで力強い色彩と構図が特徴です。

江戸時代までは盛んに造られて居たようですが、いまは史料で見るのみです。

本で研究しているのですが、一度現物を生で見たいと想ってここに行って来た、と言うわけです。

残念ながら館内は撮影禁止で写真はありません。

所蔵品はたくさん有るようですが、退色するという理由で展示されていたのはわずか2つでした。

ひとつは比較的細かい図案で割によく見る感じでしたが、もうひとつは幾何学模様で非常に面白い図案でした。

どちらもかなり退色していて、遺っているのは茶系の色だけ。

それで頭の中で塗り絵をしてみました。

当時は河内地方で盛んに綿が栽培されていて、堺更紗もその河内木綿の布に染められていたと言われています。

後染めですし、実際に長い年月使用されていたものなので、劣化は激しいのですが、それでも非常に趣深い布でしたね。

ただ、残念なのは、額に入って高いところに展示されていたので、生地の風合いや染め味の細かい所がチェック出来なかったところです。

やっぱり、布というのは、間近で見て、手にとって風合いを確認したいです。

染め物じゃなくて布なんですから。

生地と染めがばっちりとシナジー効果を発揮してこそ、良い布になるんです。

もうちょっとたくさん見たかったし、出来ればもう少し、保存状態の良い物を、近くで見たかったですね。

それでも写真で見るよりは遙かに良かったです。

堺更紗もいろんな使われ方をしてきたでしょうし、生活のなかでどのように彩りを加えてきたかを想像するのも楽しい物です。

布は着物や帯としてだけ活かされるものでもないと想います。

大切にタンスにしまわれて、美しい姿をそのまま今も伝えてくれる布はもちろん

有り難いですが、それにも増して魅力を感じるのは、使いたおされて、朽ち果てそうに

なっている布です。

民藝運動家の外村吉之助氏が『木綿往生』という言葉を残していますが、

最後は雑巾としてまで使われる事が布として幸せなのだろうと想いますね。

いまは高速織機になり、生地は大量生産されて、あちこちに溢れかえっています。

しかし、堺更紗がまだあったとき、布は貴重なものだったはず。

先日の夜咄の茶事と同じように、手織、手染というのは、昔の暮らしを少しだけ感じさせてくれるものなんでしょうね。

電気もガスもなく、すべてを人の手で,自然と共に暮らしていた時代。

薄暗い部屋の中で見る堺更紗は人々にどんな幸せを与えたでしょうか。

私も、使う人が幸せになって、末長く最後は雑巾になるまで使って貰える布が作りたいな、と想いました。

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贋(がん)作師 ベルトラッチ ~超一級のニセモノ~2016/10/20


http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=160915
今日の夕方、これを見て愕然としました。
絵画の贋作って、見るだけでは判別が付かなくて、絵の具の成分分析で見分けるんですね。
染織の世界でも贋作とかコピー商品ってありますけど、本当に技術の高い人の作品て、まねできないように想うんですが。
組織は真似できても、色は真似できない。
ある作家さんから完全に作品の作り方を指導されて同じモノを造っていた人が居るけど、元々のモノには及びも付かない。
じゃどうすればそれに近づけるか、私にも解らない。絶対色彩感というのを持って居る人がいるらしいけど、特に天然染料でそれができるでしょうか。
同じ染料で同じ糸を使っても同じ色が出るでしょうか?
糸の状態で見るのと布になってからでは見え方が違うし、洗濯してからも色が違う。糸を染めるときに、織って洗濯したあとの発色を完全に予想して染色するって、出来るんでしょうか?
それが出来なくても良い作品は出来るかも知れないけど、色を完全にコントロール出来てこそ、作品であり作家であると想うんですが。
ベルトラッチのある意味でシャーシャーとした態度も驚きだけど、贋作を望んでいる画商も居ると平気で言い放つ人も居て、これもビックリ。
実際、私達の業界でもニセモンやパチモンを望んでいる業者は少ないとは言えないですわね。
『売れりゃ、なんでもいい』この番組でもこの言葉が出ていたと想いますが、そう想わない業者はなんでそう想わないかというと、創作するときの苦悩を知っているからですよ。
そしてその物作りに一緒に関わっているからだと想います。
いまどきは、ブランド化すべきだ!なんていう意見が多く聞かれますが、これはブランドというものを良く理解していない、あくまでも売り手側の意見だと想いますね。

ブランド=銘柄です。

ブランドとは信用でもあるけれども、ブランド・イメージで消費者を、悪く言えば攪乱する目的も含まれていることは否定できないのです。

作家名というのもある意味ではブランドで、それを悪用して、駄作を乱発して高値で押しこんでいる作家もいることが、それをよく示しています。

これは、いわば自己贋作なんですよ。

技術や品質の衰えは、ブランドでは判別がつきません。

手仕事の場合は特に、それが変化しがちなんです。

名前が売れたら、織るだけならまだしも、糸の染色さえ他人まかせにする染織家がいたり、紅型でも、京都に型彫りを外注している有名作家がいたり、というていたらくです。

組織図だけかいて、糸染めも織りも自分でやらないんなら、私でも作家になれちゃいますよね。

ベルトラッチはとんでもないヤツですけど、いろいろ考えさせられる番組でした。

民芸運動と観光公害2016/10/20

私は民藝運動家のはしくれと自負をしておりますが、そもそも民藝とはなにか?といえば以下の様に柳宗悦は定義しています。

  1. 実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
  2. 無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
  3. 複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
  4. 廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
  5. 労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
  6. 地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
  7. 分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
  8. 伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
  9. 他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。

民藝運動の話をしだすと長くなるので話ははしょって行きますが、以上の様に言っておきながら、浜田庄司、河井寬次郎、富本賢吉、芹沢けい助らの個人作家が中心になって運動を展開し、かれらが開く作品展が彼らの作品によって埋め尽くされたのは何故か?
結論から言えば、『カネが無かったからだ』という話を某民藝運動関係者から聞いた事があります。
私自身も色々と理由を考えてきましたが、それでストンと腑に落ちました。
民藝運動を続けるには『お金』が必要だったから、有力作家の作品を民藝作品の名前に載せて、高値で売って稼いだのです。
それに対して、駒場の民藝協会を半ば追放されるような形で、大阪に民藝協団を設立した三宅忠一氏は、実業家であったため、私財をなげうって、民藝の本筋を貫き通す事が出来た。そういうことなのです。
民藝運動が批判される事の一つに『昔からのやり方で、そのままで』と言い続け、生産者の生活を無視していた事があげられます。
『じゃ、あんたんたちは、沖縄に来るのに手こぎ船で来たのか?』と言い返されたのは当然でしょう。
工人には、『昔のままで』と無理難題を突きつけ、『無名で無学な工人』とバカにしていながら、自分たちは清らかな看板を偽って、本末転倒な運動をしている。
民藝作品を観ているとだんだんと解ってきますが、濱田や河井といえども駄作がたくさんあります。
無名な工人の素晴らしい作品よりも、自分たちの駄作を民藝運動の旗頭の下、高値で押しつけたのです。
無論、民藝運動は大きな貢献もありましたし、成果もありました。
しかし、結果としては、『寝返った』と言われても仕方ない事になってしまっていると私は考えています。
人間国宝の個人指定を受けるなどと言うのは、民藝とはまったく筋の違う事です。
いくらどう説明しても、『カネの為に本筋を曲げた』責めは負わなければならないし、その延長線上に工芸デザイナーが民藝協会トップを歴任するという事があるのだろうと想います。

今回のブログでお話ししたいのは、民藝運動の事ではありません。
ひさしぶりに沖縄を回って、観光と環境の事について考えた事をフェイスブックに書いたところ反響があったので、すこし考えて見ました。
題名に書いた『観光公害』というのもおかしな言葉で、公害というのはたいてい観光開発などの経済発展と共に出現してきます。
私の故郷、大阪でもかつて光化学スモッグ、地盤沈下、水質汚濁、土壌汚染など、ありとあらゆる公害がありました。
それは、『東洋のマンチェスター』といわれた経済発展と裏腹でもありました。
ふるさとの川は黒くよどみ、泡を吹いて、魚の住まない川になりました。
体育の授業はしょっちゅう中止になり、運動場には『光化学スモッグ警報』と赤い旗が張られました。
工業の発展で儲けた実業家達は、空気の良い兵庫県や奈良県の高台に移住していきました。
大阪に行けばお金が儲かると、地方からもたくさんの人達が移住してきました。
あいりん地区という日雇い労働者が集まる場所が出来、市民のやすらぎの場所である天王寺公園はあっという間にホームレスの寝床と化しました。
そういう状況を『活気溢れた』と表現する人も多かったと思います。
しかし、それと引き替えに、大阪、堺、河内・・・それぞれの暮らしの彩りを失ってしまったことも事実です。工業の基盤が海外に移り、サービス業中心の産業構造になると、こんどは大阪に観光客を呼ぼうという流れが出来てきました。
海遊館、USJなどが出来てから、私が若い頃とは比較にならない位、観光客が増えました。
昔は、友達が来ても食べ歩きくらいしか思い浮かばないくらい観光するところが無い、そんな所でした。
ミナミや新世界には国の内外から観光客が溢れ、ごったがえしています。
そうなると、観光客相手のお店ができるのは必然です。
ミナミも天王寺も阿倍野も、新世界も・・・私達が古くからなじんだ姿ではなくなってしまいました。
同じ事が沖縄でも起こっている、否、もっと深刻でひどいことになっているんです。
沖縄の南北を貫く58号線を走って、中部までの間、美しい海を観る事はありません。
多くの海岸や浜は埋め立てられ、美しいビーチはホテルに占拠されて見えなくなっています。
波の上ビーチは街中から手軽に行けるビーチとして親しまれていましたが、その眼前に道路が通り、景観は台無しになってしまいました。
沖縄の名物とも言える、色とりどりの農産物、海産物がならぶ市場も、大手SCの進出で壊滅にちかい状況となり、次第に観光客相手の内容となっていきて、いずれは黒門市場の様になってしまうでしょうね。
昔は沖縄に来る前から、飛行機が次第に空港に近づいてくると、青い海が窓から見えました。
だから、みんな窓側に座りたがったものなのです。
窓から離れた席に座っている人も、小さな窓から必死になって青く澄んだ海を見ようとしていました。
ところが今はどうでしょう。
『キレイな海が見たい』
そういわれたら、北部を目指すしかない、そういう感じになっていきています。
リゾートホテルというリトル沖縄の箱庭に閉じ込めて、南国を満喫する。
それが観光客が沖縄に望んでいる事でしょうか。
巨大DFSやアウトレットモール、メインプレイス、ライカムなどで買い物することを望んでいるんでしょうか。
私は行ったこと無いし、行きたいとも想わないです。
それより、地元のスーパーや共同売店、道の駅に行った方が、楽しいし、美味しい物もあります。
『観光客が沖縄に何を求めているのか』そして『沖縄の観光地としての存在価値はどこにあるのか』
はたしてそれを理解して開発は進められているのでしょうか。
沖縄の経済は3Kで成りたっていると言います。
基地、観光、公共事業の3つです。
しかし、この三つの為に、一番大切な先人から受け継いできた資産を食いつぶしているとは言えないでしょうか。
『切り取って額縁に入れる』
今の開発はそういう感じにしか見えません。
これは京都のお寺が高い拝観料を取っているのと同じような事です。
うつくしい自然を見るのにお金がいるのです。
これがまた、沖縄の住民にも適用されるのです。
私は釣りも趣味のひとつですが、釣り歩いてみると、釣りの出来るところが非常に少ないことに気づきます。
海沿いの多くの場所が、なんらかの管理がされている。
つまり、がんじがらめなのです。
話は戻って大阪です。
大阪は様々な文化を産んできました。
大和・河内、そして堺。
これが我が国の文化の生みの親です。
しかし急激な工業化にともなう自然破壊と人口移動によって、その基盤は薄らいだ、私はそんな感じがしています。
あの無機質な街並みから、あたらしい文化がうまれるとはとうてい思えません。
お笑いにしてもかつての人情あふれる喜劇から、滑稽さだけを売りにした薄ら寒いものになってしまった様に思うのです。
沖縄も同じでしょう。
私達は大切な物と引き替えに経済的繁栄を得てきたのです。
でも、もうそろそろ一度立ち止まってみる時じゃないでしょうか。
本末転倒なのです。
豊かな暮らしを得るために経済活動を拡大してきたのに、どうして豊かさが実感できないのでしょう。
民藝運動を標榜している人達が、なぜ機械生産を受け入れて、それをヨシとしているのでしょう。
手段と目的がごっちゃになっているんです。
民藝運動とは、名前の知られた有名作家や、有名陶器店のものではなく、無学な工人の手による物の中に本当の美がある、それを知らせるための運動であったはずです。
沖縄の観光開発も、そもそもは沖縄の経済発展を目指して行われたはずです。
しかし、自然が県民の手から奪われ、お金を払わなければ満喫出来なくなったとき、富裕な県民は、沖縄から離れ、残された人々は、コクリートの壁の中の故郷で窮屈に暮らしている。
いろいろ考えてみると、民藝運動も、大阪や沖縄の経済発展も、主役が思われていたものとは違っていたのかも知れません。
民藝運動の主体は、民藝をつくる工人ではなくて、民藝運動家たちであったのです。
沖縄の観光開発の主役は・・・果たして誰だったのでしょうか。
基地・観光・公共事業・・・
それがなくて沖縄は今の様に豊かになれたのか。
それは否と言わざるを得ないでしょう。
しかし、あまりにも調子に乗りすぎ、乱暴であったのではないでしょうか。
自然や伝統文化を食いつぶしてしまうと、あとに遺るのは荒涼としたガレキのみです。
そこからは何を生むこともできません。
なぜなら、天才は自然の中からしか生まれないからです。
沖縄の染織を見てもだんだんと昔のような力強さや温かみのある作品が出てこなくなっています。
こじんまりとまとまった、売り物にするのに良い物ばかりです。
でも、なにか冷たい。
心を撃つすごみがない。
それは、自然が失われた事と無関係ではないと想います。
那覇の子供達の中には美しい海を知らずに大きくなる子供もいるかも知れません。
沖縄=美しい海
であるのに、その美しい海がない沖縄。
手作りの作品の無い民藝運動。
ノリの無い巻き寿司みたいなものです。

沖縄県立美術館 国展と民芸館展2016/9/27

南部を2軒回ってから沖縄県立美術館に行ってきました。
国展の沖縄展と日本民藝館の『沖縄の工藝』が同時開催されています。
先に国展、後に民芸館展と観たのですが正解でした。
まちがっても逆に観てはいけません。
国展の方は沖縄を意識してか、染織の出品が多いので見ごたえがありました。
大阪市立美術館での出品よりはるかに多いのではないでしょうか。名古屋なんて無きに等しかったですし。
全体的に『こぎれい』な作品が多くて物足りない感じがしました。
デザインは良いのだけれど、織物としての完成度はどうなのかな?と感じる作品もちらほら。
パイルやらローケツやら型絵やらいろいろあって楽しかったです。
民芸館展のほうは、今まで駒場で何度も観た作品も多かったのですが、さすがに内容は良かったです。

しかし、染織以外では濱田庄司や河井寛次郎、棟方志功らの作品が陳列されていたのは腑に落ちないです。

沖縄の作品にもっとスペースをとって、じっくりと観れる様にしたほうが良いのではないかと想います。

濱田や河井の作品もそんなに逸品ぞろいという感じもしませんでしたし、沖縄の陶芸家が観てどれだけ収穫があったか、聞いてみたいです。

3階で民芸館展、1階で国展、という開催になっているのですが、やはり両方見ると染織品を比べてしまいます。

国展のは確かに創意工夫が凝らされていて、近くにじっと寄って、『どないしてつくってあんのやろ?』と分析したくなるものが多いのですが、

民芸館展の染織は、いわば伝統的なシンプルな技法によっていて、文様やデザインも目新しいものはないのですが、どういうわけか、質感とか魅力が全然ちがいます。

作品として魅入ってしまうのは圧倒的に民芸館展の方でした。

紅型もたくさん出ていましたが、『なんで今の作品はあんなんなんだろう?』と考え込んでしまいます。

もう100年以上前の作品ですから、色はさめているし生地も劣化してるはずですが、まず線のイキイキ感が違う。

経験上、元の図案より型を彫ったほうが、よくなるはずなんです。

絵から型に写す事によって、単純化されて、アクが抜けるからです。

でも、今はそうなっていない作品が多い感じがします。

織物でもそうですね。

絣や組織という技法より目立つのはテキスタイルとしての質感の差です。

『手が劣化しているからか?』

そう考えてみました。

でも、違う!と思い直しました。

手じゃない。

『眼』が劣化しているんです。

人間は思えばその方向に近づいていくはずです。

生物の進化は必要とするものを手に入れて来た結果です。

想っていないから出来ないんです。

ということは、何が美しいのか、何が目指すべき本当の姿なのかが、見えていないんです。

それは作り手も、見る人も、使う人もです。

産業革命以降、人々の生活から手作りのものが失われてしまった結果が今の我々の『眼』なのでしょう。

民芸館展では昔の沖縄の工藝の様子が映されたビデオが放映されています。

沖縄の人たちの昔のくらしぶりが垣間見れて私も座り込んで観てしまいました。

工藝に関係する方々は、2つとも是非ご覧になるべきだと想います。