【秘する花を知る事。秘すれば花なり】
割と長文で書いてありますが、つまりは
観客の心に思ってもいない感動をもたらす方法というのが花なのである。
ということのようです。
今風に言えば、サプライズという事なんでしょうが、これとても難しいですよね。
1回限りの公演ならまだしも、将軍の前などでは何度も何度も舞っていたのでしょうから、見ている将軍も芸風というのは知り尽くしているはず。
その上で、サプライズで花を咲かせようというのですから・・・
毎回毎回、『うーむ、今回はそうきたか・・・』とうならせることなど、どうやったらできるんでしょうか。
私などがなじみ深い、よしもと新喜劇なら、何年も同じギャグでご飯を食べている役者さんがいて、その人の顔を見ただけで、笑ってしまう、そういう存在なんですね。
また、そのギャグがいつくるか、いつくるか、という緊張とキターという弛緩で笑いが生まれるということらしいです。
能の場合は演目を変えて、演ずる対象を変えれば、新しい花が生まれるのでしょうか?
えっ?さっきの世阿弥やったんか?
というような演技が果たしてできるもんなんでしょうか?
芸風の軸を保ちながら、意外性を演出して、観客の興味を引く・・・
私の世界なら、もずやの好みを消さないような、アッと驚く新作を発表する、という感じでしょうか。
あの着物も、もずやがプロデュースすれば、こんな風になります。そんな感じでしょうか?
でも、それを続けていくのは、むちゃむちゃ大変です。
自分の得意でない分野からネタを探してきて、自分なりにアレンジして、お客様にも納得してもらえる物にするのには、ものすごい器量・度量が要ります。
鑑識眼・審美眼も客観性があって研ぎ澄まされていなければできません。
なんでそんなたいそうに言うかというと、美というのはどうしても主観的になりがちだからです。
それを客観的に見て、自分の外にある美を認めるというのは、意識の外に働きかける何かが必要です。
何かというのは、宗教であったり、哲学であったり、ピンピンに尖った普遍的なものです。
私達はまさに、能面を着けてみるようなピンポイントでしか物が見れていないのが普通です。
パチンコ玉くらいの穴から、のぞくように物を見ているに過ぎない。
しかし、だからこそ、『秘すれば花』が実現するのでしょう。
意識の外にある美を感じさせる・・・
あ!これってうつくしいものだったんだ!
まさしく能にあって、他の演劇に無いものはそういう研ぎ澄まされた抽象性だと想うんですね。
ピンピンにとがった抽象性というのは、普遍性を持つ。
その梅干しのタネの中の芯みたいなのが世阿弥の言う『花』なのではないでしょうか。
もちろん、それを見抜く観客もそれなりの眼をもっていなければなりませんけどね。
実は、私にも先祖代々伝えられている『花』があります。
もちろん、それも『秘すれば花、秘してこそ花』
どなたにもお教えすることはできません。
この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。