『手仕事の日本』を読む 第3話2021/3/14

『国民の手の器用さは誰も気づくところであります』

日本人は手先が器用だと言われてきました。

柳が当時言う通り、いまでも日本人は器用だと思っている方、信じている方も多いと想います。

しかし、現場の声は違います。

日本人の手は確実に劣化している。

そういう話があちこちの指導者から聞こえてきます。

それが真実だとしたら、なぜそうなってしまったのか。

あたりまえでしょう。

手を動かしていないからです。

私達が子供の頃はあやとりという遊びがありましたし、

えんぴつは手で削っていました。

計算もそろばんです。

電車に乗れば、編み物をしている女性をたくさん見かけた。

ほんの50年ほど前は、着物も反物で買って自分で縫うという人が多かった。

ちょっとした生活道具は自分で作ったんです。

ところが今はどうでしょう。

キータッチのみでなんでもできてしまいます。

お料理さえしない日本人も増えてきたそうです。

なんでもお金で買えば良いという世の中。

どんなにすぐれたDNAを持っていたとしても、後天的に磨きをかけなければ劣化するのはあたり前です。

織物の場合は特に糸作りです。

絹はほとんどの人が買糸をつかいますが、苧麻や芭蕉はそうは行きません。

原料となる植物から栽培して、自分で績むんです。

20歳過ぎて宮古島や喜如嘉に来て仕事を始めた人と、地元に生まれ、おばあちゃんやお母さんの仕事を見て、子供の頃から手伝ってきた人の仕事が同じわけがありません。

舞踊でも同じことを聞いたことがあります。3歳位からやらないとほんとの上手になるのはむずかしいのだそうです。

実は商売もそうです。大阪が商都と言われてきたのは、商売人の子供が小さなときから親の商売を見てきて、考え方に触れ、身体に染み込まされてきたからです。それがだんだんヤワになってきたのは、事業所と住居が離れ、仕事を家に持ち込まないことを美徳とする世の中になってしまったのが大きな原因だと想います。

話をもとに戻しますが、日本人の手は劣化しているのは事実のようです。

面倒くさいから、効率が悪いから、といって例えば紅型の型を外注したり機械で彫るようになったのでは、ますます手は劣化していきます。

一部分だけ手だからええやん!

一部分だけでもいいのです。

ただし、それが一番大切な部分であれば!

織ならもしかして、引き通しとかは手仕事である必要はないのかもしれません。

そうこうのセットとか。

染なら何でしょう。

『何を残して何を捨てるか』を考えて行かねばならないと、これまでもお話してきましたが、大事なところを捨てたら、それはもう、手仕事の作品とは言えません。

なぜ、手でやらないと行けないのか。

それは、手を鍛える、という意味もあるのだと想います。

心臓外科医は手術がない時はネズミの血管で手が劣化しないように練習すると聞いたことがあります。

作りては手が命でしょう。

自由自在に動く細やかで優しい手があってこそ、よい手仕事が生まれる。

感性に逃げてはいけません。

まず、布として、陶芸なら陶器として、自分の目指すところを定め、そこへの到達を目指しましょう。

感性は良い仕事を積み重ねる中から育まれていくものです。

そこに民藝の真髄があるのだと私は考えています。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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