【問ふ。文字に当たる風情とはなに事ぞや】
言葉に対応した所作とは何か?
謡曲の詞章の通りに舞うことが大事で、それが一体となったとき、名人の域に達すると世阿弥は書いています。
つまり、泣くと書いてあれば泣いている様に、音がすると書いてあれば聞き耳を立てるふりをする、ということです。
それを師匠のやるとおりに稽古しなさいと書いてあります。
これを商売に置き換えるとどうなるでしょうかねぇ。
謡曲の詞章というのは台本です。筋書き+セリフ。そこに節も書いてあります。
私が、新作を考案するときどうするかといえば、まずは土台になる研究の積み重ねからはじめます。
紅型がつくりたければ紅型の、更紗が作りたければ更紗の歴史、技法など様々な側面から研究するわけです。
その中で、今、忘れられているモノ、本来発揮されるべきもので失われているモノ、そして自分がこれをもっと強調してアピールしたいと思うモノを、浮かび上がらせるのです。
読書をたくさんする人は解ると思いますが、ツラツラと斜め読みをしていても、大事なところだけはパッと目に入ってくるモノです。同じ文章を読んでも、目に入る所は人によって違うような気がします。
私の中に入っている何かが、図録や文献を読んでいて、鋭く反応する。その反応を作品につなげていくわけです。
それは感動であったり、問題意識だったりするわけです。
ですから、当然、作品が出来上がる前にストーリーが先に決まっています。
ストーリー通りの作品でないと、作る意味が無いと言うことになります。
私の作品説明は、手作りだとか、草木染めだとかではなくて、それぞれのジャンルの作品の中で、どこが違っていてどこを理解して欲しいのか、をメインに立てていきます。
それを商談という大きなストーリーの流れに組み込んでいくということですね。
そんな感じなので、自分が思うところの説明がされないでいると、とっても不満なんです。
もちろん、作品が優れていれば説明なんてなくても売れていきます。
でも、それじゃ、てっちりを食べて最後のおじやを食べないようなモノ、というような気がするんです。
やっぱりこちらのストーリー通りに説明してほしいわけです。
例えばもずや更紗をご覧いただいて、買って頂いても販売員がもずや更紗のきちんとした説明をしていないと、売れたことにならないと私は感じるのです。
タダ単なる変わった更紗、にとどまってしまう。
それじゃ、作った甲斐がないのです。
一瞥して魅せられるような作品が作りたい、それと同時に、自分の思いも伝えたい。
はなはだ贅沢な希望かもしれませんが、そんな気持ちで物作りと販売にあたっているんですね。
世阿弥も自分で能を作ったりしましたから、表現すべきこところは逐一きっちりと表現してほしいと思ったのでしょうね。
それは詞章であり、節回しであったり。それが一体となったときに初めて作品が完成されて、自分の狙いとか想いがお客様に伝わると感じたのでしょう。
節というのは、謡い方が細かく指定されていて、そこには能を作った人の作為が籠められているはずなんです。
つまり、作り手の真意をパーフェクトにくみ取って演じきって、お客様に伝えるというのが名人ということなんでしょうかね。
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