【直面】
これは『ひためん』と読みます。
お能というと、面(おもて)を着けているというイメージがあると思いますが、面を着けないお能もあるのです。
ある能楽師の方が、丸顔でぽっちゃりされていて、面から顔がはみ出すので『はみだし王子と呼ばれています』などと、笑いをとられていたことがありましたが、私のお師匠様によれば、お能というのはあくまで幻想の世界なのではみだした方が良いのだということです。
この世の出来事ではない事を演ずるために面を着けるということだとしたら、直面はその反対ということになるのでしょうか。
そういう意味では私の商いはいつも直面です。
面を着けるのが幻想の世界の表現のためだとすれば、私の商いが目指すところはそこには無いからです。
面を着けることを商いになぞらえれば、上品に振る舞うとか、仰々しい事を言うとか、派手なアトラクションをするという事になるのでしょうか。
お客様を夢見心地にする、お姫様気分にする、というのがその目的でしょうか。
私は、理想主義者でありますが、リアリストでもあるので、お客様の現実、そして作り手の現実を、正面からとらえて、それにお応えしていこうと考えます。
作り手は良いモノを造って豊かになりたい。
お客様は、ご用途たお好みに合うキモノ、良いモノを安く手に入れたい。
沖縄のキモノというのはそもそも、上品ぶって売る品物ではありませんが、それ以外の素晴らしい魅力があります。
私自身も、お上品な人間でもありませんし、上品ぶるつもりもありません。
ブログやフェイスブック、ツィッターなどで発言するのも、もうちょっと柔らかく言えば良いものを、心のままに書いてしまうので、たぶん誤解?されている事も多いと思います。
でも、そんなことも含めて、すべてがもずやという男なんですね。
商道風姿花伝とか言って、これは教本のつもりでもありませんし、単なるエッセイというか、ぼやきです。
京都の上品なキモノをやっていたら、私ももう少し上品になれたかもしれませんが・・・(^^;)
なれそうも無いので、諦めて、力強く伸びやかな沖縄の染織を愛し、その美意識に沿うモノを造り、集め、自身もそれを体現しようという魂胆です。
そもそも、茶道だって、上品ぶってするモノなのかどうか、私は疑問に思っています。
私が加えて頂いている養心会はほんとうにざっくばらんな楽しい会ですし、みなさん笑いながら稽古をしています。
千利休が上品だったかといえば、当時の堺の人の気性からして、とても生意気な商人だったんだろうと思います。
こんな逸話があります。
ある大名が堺に鉄砲を買いに来た。
『鉄砲をうってくれ』
『鉄砲はうつもんですわ』
『で、ねはいかに』
『ポンていいますねん』
いかに堺商人が大名を馬鹿にして、生意気だったかがよく解る話でしょう?
そのせいで、あとでえらい目に遭わされるわけですが、今でもこの気位の高さは受け継がれています。
和物が全部京風でお上品なものが良いのか、といえば、私はそうでないと思うのですよ。
日本人のアイデンティティというか美意識には、本来多様性があって、京風のはんなり上品としたものというのは、その大きな部分であるとは思いますが、すべてではない。
お江戸の粋というのもそうですが、大阪には大阪の、沖縄には沖縄の、その風土が生んだ美意識とか価値観があるわけです。
美は時代も映しています。
奈良時代から平安時代へ、仏像の姿も変化しているのもそのせいです。
人間、心の内はそれぞれで、人生の場面によっても違います。
静かな気分になりたいとき、明るい気分になりたいとき、その助けの一つが『衣』というものじゃないでしょうか。
自己表現のためのアイテムとしても『衣』は役立ちます。
元気なキモノが着たい時、シュンとした商いでは元気はでません。
だから、私はいつも元気いっぱい。
大阪の元気をそのまま表して、お客様の前に出ます。
でもね・・・美しいモノに共通したもの、っていうものがあるんですよ。
それがつかめれば、良いモノとそうでないものは解るようになるんです。
それは、なんというか言葉では難しいのですが・・・『気』というのですかね・・・
私が品物を仕入れるとき、そこを大切にしています。
一通り説明は聞きますが、それより自分の感性を信じます。
ですから、そこそこで仕入れたのは、やっぱり力が入らないんですね。
良いのは、見たときにグンと心に入ってくるんです。
その感動を、お客様にそのまま伝えるということなんですね。
ですから、私はいつも直面ですかね。
まぁ、ここで世阿弥が書いているように直面でも、表情はできるだけ押さえ、高ぶらないようにするのですがね。
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