まずは、文章を引用してそれに対する見解を書くという従来のやり方で進めていきますね。
オールコックについてはこちら
『租界に済んでいた少数の日本人は商人が中心であった。彼らは身の回りの事や商売を軌道に乗せるのに忙しく、自分たちの仕事以外の自国の美術や工芸品についての知識を広める為に時間やお金をかけるゆとりなどなかった』
『高度が技術と芸術の独創性を示す作品が多数私の手元にあった』
まずは、オールコックが日本開国後の初代総領事であると言う事を前提としなければいけませんね。
ですから、彼が書いている事は幕末の事で、その時代の日本を見る上で参考になるという事です。
オールコックは当時の日本人を評してこう書いています。
彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である。 — オールコック『大君の都』
えげつないこと言いますよね。
これを読むと上の引用文がどういう事を表しているか良く解りますよね。
『日本にはすばらしい美術品・工芸品はあるが、だれもその価値に気づいていない。』
まぁ、あんたらに言われたくないわ!という感じですが、江戸幕府を相手に手こずっていたことがこういう事を書かせたのだと読めないこともありません。
まず、『工芸品を広める為の知識やお金をかけるゆとりがなかった』のは真実でしょうか。
当時彼のまわりにいたのは、江戸幕府の重鎮、大名、あるいはその関連の商人達でしょう。
工芸品の価値が解らなかったとは考えにくいです。
しかし、それを商品として世界に広めようと想っていたかどうかは別の話です。
そもそも、攻め込んできた外国人を相手にのんびり絵や工芸品の品定めなんて考えている場合じゃなかったでしょう。
そして、それまでのわが国に『独創性』などという概念があったかどうか、です。
浮世絵にしても後から外国人が見て独創性を感じるだけで、日本人にとっては見慣れた絵であったはずです。
絵師も師匠のやりかたを踏襲し、そこに自分のやり方を少し加えるくらいの事だったはず。
解る人にだけ解ってもらえりゃ、それでいい。
そんな職人気質だったような気がします。
ロンドン万博やその後のパリ万博で欧米人が腰を抜かした日本の作品たちも、あくまで伝統の中でコツコツ造られてきた物で、あくまで職人技であって、芸術家気取りのものではなかったはずです。
オールコックは、日本に来る前はチャイナに居たそうですから、陶磁器には多少触れていたんでしょう。
その後、日本の陶磁器が大きな輸出品目となることを考えると、イギリス人は、それに目を着けていたんでしょうか。
『詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて』
とはよく言ってくれますね!
詩、思想、芸術、彼らの国と比べてわが国のどこが劣っているでしょうか?
政治は劣っているかと言えば、300年天下太平を守って、文化を熟成させたわが国が劣っているとは私は思いませんけどね。
他所の国から収奪しなくても、わが国は十分に豊かな国土とすぐれた国民性を持って居たと言うことです。
まぁ、オールコックは自分の芸術力というか審美眼にかなりの自信を持っていたみたいですが、他国の文化や風土をそれと共に理解するという事は出来なかったみたいですね。
もしかしたら、これはわが国の国民だけが出来る事なのかも知れません。
他国の歴史、文化、風土、伝統、宗教を寛容的に理解できるなら、今みたいな戦争は起きないでしょうからね。
また、日本は寛容であるからこそ、他国の文化を吸収して自国の文化に溶け込ませる事が出来るとも言えます。
室町時代にルイスフロイスが書いた本でも、堺人の事をボロカスに書いていますが、押しつけようとしたものを拒絶されたからって、ボロンチョンに言われるのはお門違いという感じですよね。
そこが一神教と多神教の違いかもしれませんが。
後にジャポニズムが欧米を席巻したことをみても、それこそ『土人』と想っていた日本人が、素晴らしい美術・工芸品を生み出し、高い文化を持っていた事に度肝を抜かれたに違いありません。
それは民藝運動家が沖縄に行ったとき『ひれ伏して教えを請いたい心境であった』と感じた事と同様だったでしょう。
今日はこのくらいにして、このタカピーなオッサンがどんな風に日本を見ていたか、読んでいきましょう。
(つづく)
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