日本の美術と工藝 第5話2017/1/24

『工藝と絵画の間に明白な線をひこうとするある種の試みがなされてきたし、またこれまで言われてきたように芸術の市場性の投機性の間にもそのようなことはあった』

芸術と工藝のちがい。

私のような工芸に関係する商売をしていると度々直面するのは『作品と商品のちがい』です。

作り手によっては、公募展などに出す作品と、問屋に出す商品を明確に区別している人もいます。

ある全国的に有名な作家の中には、問屋に出すのはすべて駄作と言う人もいるようです。

つまり作品は真剣に入念に造るけれど、商品はいい加減で良いという考え方ですよね。

もしかしたら、作品を見る側、買う側もそう想ってませんか?

はっきり申し上げて、トンデモナイ事です。

自分の名前がついて世に出るものに対して軽重をつけるなどというのは、いわば恥知らずのすることです。

私がおつきあいさせていただいている作家さんの作品はそれが国展に出るものであっても、私にいただくものであっても、全く差はありません。

作品を見た時に、やっつけ仕事で作ったものか、心を込めて作ったものかはすぐに判断できます。

紅型の場合は型があって、柄的にはそのリピートになるのですが、それでも解ります。

一番は型がきちんと彫られているかどうかですが、色の作り込み方でも真剣味が感じられるものです。

紅型に気が抜けたスカスカの商品が多く感じられるのはそのせいです。

紅型の人は悪く言えば芸術家気取りで、工芸論などをぶつ人も多いですが、熱意の割には作品にそれが入っていないのは、初めて作るときと、リピートの時に『気の差』があるからだと想います。

『気の差』というのは、微妙なところでの妥協の積み重ねで起こるんだと想います。

これは実際にものづくりを体験してみると解ります。

良い作品を作ろうと想ったら、すべての工程に集中して納得行くまで突き詰めるという作業の積み重ねが必要です。

一つでも妥協したら、そこが『甘さ』として作品に出てきます。

見る人が見れば解ります。

甘甘の作品か商品かが、自分の名前を背負って世の中に出て衆目にさらされても良いと想っている人・・・

それは作家とも工芸家とも言いません。

工芸と芸術の違いというと、工芸は実需に即した物で、芸術はそうではないという分け方もあるかと想います。

しかし、現実に工芸展を見に行くと、実需に則さないオブジェの様な陶芸や、染織ならタペストリーもあるわけです。

芸術が崇高なもので、工芸は大衆的なものかといえばそうでもない。

芸術=art

artという言葉が本来どういう語感?を持つものなのか、私にはわかりませんが、辞書を引くと

芸術、技術、などと共に書かれているのは、作為、狡猾さも書かています。

つまり『つくりもの』ということですね。

つくりもの、つくったもの

それに対し、工芸は

使うもの

使うものは作り込む必要がない。

簡単に言えば、打製石器も工芸といえないこともないわけですし、私が土を丸めて作ったお茶碗も工芸になるわけです。

でも、私が何にも考えずに作った、干支の置物は芸術とは言わない。

そもそも干支の置物は芸術なのか?

曼荼羅は?

書き出すと美術史を紐解かねばならないので、やめときますが、歴史的にも芸術の定義は少しずつ変わってきている感じがします。

おそらくは、芸術と工芸は分けて考える必要はないのだろうと想います。

クリムトに見られるように工芸的な絵画もありますし、絵画的な染織も今は存在するので、意味はないでしょうね。

芸術が工芸より崇高だというのもちょっと違和感があります。

少なくとも工芸が芸術と言われているものよりも優れているところがあります。

それは『五感』で感じられるところです。

眼だけではなく触覚、聴覚、そして陶芸・漆芸なら味覚、嗅覚・・・

あとは、オールコックにゆずりましょう(^^)

(つづく)

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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