日本の美術と工芸 第9話2017/2/8

『彼らのデザインは、家族およびその国民の生活を感嘆するほどいきいきと描写している』
そして、その生活とは
『何百年にもわたる長い鎖国状態にあった人達が異常な生活で身につけた民族としての日本人のスタイル』は特に日本人のデザイン性を示す物として当てはまる。
私には何を言っているのか良く解りませんねぇ。

何百年にも渡る長い鎖国状態にあった人達が異常な生活で身につけた・・・?

鎖国状態で他国との交流が無かったことが異常?

鎖国していたといっても、長崎は開かれていたし、糸やクスリなどは入って来ていたはずで、それともに、ヤミでいろんなものも入って来ていたはずです。

大陸で地続きであるにしても、今ほど頻繁に外国人が行き来しているはずもないし、江戸時代の日本人がそんなに『異常』と言われる程の環境にいたとは想えないんですけどね。

私が思うにはですよ、文化・芸術の担い手の違いじゃないかと想うんです。

英国を初めとするヨーロッパは、貴族階級がそうであったのに対し、わが国では、鎌倉時代以降、一般庶民=町人がそうであった。

今、伝統文化といわれるもので考えてみるとどうでしょう?

茶道、華道、能楽、文楽、歌舞伎、和歌、短歌、俳句、多くの音曲、絵画・・・

すべてに対して細かく調べた訳ではないですが、主な主体は町人だったのではないでしょうか?

鎖国がもたらしたことは、外国から新しい文化が入ってこなかった事と共に、天下太平をもたらしたとも言えるでしょう。

じゃ、国際港として開かれた堺や、江戸時代の長崎で、外国との交流で欧風文化が花開いたか?と考えたらどうでしょう?

感覚的に言って、現在を見る限りはそんな感じはないですよねぇ。

かえって日本的であるような感じさえします。

特に堺は『モノのはじまりなんでも堺』という位、外国の文物を吸収して、新しいものを発信してきました。

でもそれは、外国から入ってきたそのままではなくて、完全に日本のものとして全国に広まっていったような感じがしています。

それは、皇族や貴族ではなく、町人がやったのです。

鎖国が無かったら?って、タラは海の中にしかいてませんが、鎖国がなかっても、日本の文化力は同じように培われていったのだろうと私は思います。

それは何故かと言えば、国民の文化力が違うからです。

そして、政治的な支配と、文化的な支配が別のところで行われて居たような気がするんです。

つまり、町人は非常に自由で、文化を生み出し、楽しむ余裕も資質もあった。

文化というものが一部の特権階級だけのものではなく、国民みんなもの、特に町人がその主役だったというところが大きく違うところだったんだろうと想うんですよ。

だからこそ、今で言う『民藝』が日本各地にあるわけです。

町人の豊かな審美眼がなければ、すぐれた民藝など出現するはずがないのです。

そもそも、鎖国鎖国っていうけれど、わが国には『環濠集落』というのが各地に点在していて、まったく外界との交流を絶って、独自の生活圏をもっていた場所があったのです。

そこがすごく遅れていたかといえば、全く逆で、驚くほどの洗練された文化と習慣をもっている場所もある事を私は何度も目にしてきました。

もちろん、その地域の民度にもよるのでしょうが、文化の醸成には開かれていることは必ずしも良いとは言えないし、逆に、孤立していたり外界と謝絶していて、熟成できる環境にある方が良い場合が多い、私はそんな感覚をもっています。

タネ本は日本の美術と工藝です。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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