日本の美術と工芸 第4話2017/1/19

『日本人は「自然の芸術家」と呼ばれてきた。そしてそれが、古代ギリシャとおなじくらい美術的様式が抜群に彼らの名を高めているとしたら、その名称はぴったりと適合しているし、美術の領域において彼らの業績は十分に正当だと私は考える』

『英国の教養ある人々に満足を与え、労働者や工芸に従事する人々に対し示唆を与えるために、芸術が日本人とその工芸に何をもたらしたかということを明らかにすることである。』

私達日本人が『自然の芸術家』であり、私達が生み出す芸術が工芸に何をもたらしたか?

自然の芸術家・・・

原文はartist of nature でしょうか?

natural artist ?

自然の中から生まれた芸術家なのか、自然を描く芸術家なのか?

おそらくは両方なんでしょうねぇ。

西洋の芸術というと、はじめのころは人物やら宗教画が多い様な印象があります。

それに対して、日本人は古くから花鳥風月、四季の移り変わりの美しさに眼をむけ、それを写し取ろうとしてきたのではないでしょうか。

私が専門とする染織でも、特に伝統染色は風景や草花といった自然がモチーフになっていることが多いです。

絵も富岳三十六景や東海道五十三次などの美しい風景画が思い浮かびます。

そういえば、西洋画であんまり自然の風景とかという印象ないですよね。

果物の絵とかも実は宗教画だと聞いた事がありますし、日本で言うところの絵解きみたいなもんですね。

その日本人の感性が芸術にも工芸にも及んでいるということで、芸術と工芸を分けて意識しているなんてことは、そもそも日本人の感覚としてないですね。

芸術と工芸に垣根を作ったり、芸術は工芸も包含する大きな概念だ、なんていうのは、近代西洋思想の影響じゃないんでしょうか。

ただ、よく言われる『空間の美』というのがどこから生まれてきたのか、私にも良く解っていません。

それが空間に対する美意識から生まれたのか、それとも、美意識が空間を生み出したのか?

日本人の特徴として、不必要なものはとことん削り、必要最小限で最大の効果を生み出すと言われています。

茶道のお点前でもそうですね。

お点前に必要な最小限のものしか、茶室には置かないし、客も持って入らない。

それは茶器を引き立てる為だという説もあるし、必要最小限だから茶器が引き立つんだという話もある。

私は経験的に、良い物、観て欲しい物に意識を集中させるために出来るだけ不要な物を排除するのではないか、と感じています。

例えば、茶碗にひとつの絵を描いたとします。

その絵に自信があったら、作り手としては是非その絵付けの良さに気付いて欲しいはずです。

その時、周囲に不必要な柄や絵は入れないだろうと想うのです。

せいぜい、それを引き立てるようなポイントとなるような絵を少し入れるだけでしょう。

画竜点睛という言葉がありますが、一定の空間を活かすためには、ピンポイントで
最高の造形をそこに描き加えなければならないんだろうと想います。

紅型や更紗はごちゃごちゃしているという印象を持たれがちですが、洗練された図案は、
絶妙の空間を維持していて、足すことも減らすことも出来ないんです。

それは何で解るかといえば、地色の活き具合です。

良い紅型も更紗も、柄よりも地色が活きる。

柄と地色が絶妙にバランスして、安定するんです。

ごちゃごちゃしすぎていると、地色が濁って見えるし、柄が少なすぎると、寒々しい。

そのバランス、安定感が静かさと力強さを共存させるんですね。

(つづく)

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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