日本の美術と工芸 第6話2017/1/25

『他のいかなる近代的な国の人間よりもはるかに日本人は「平凡なものを作ることを楽しみ、そしてささいな工芸品であっても、芸術的に価値あるものとして、その芸術的価値のみでなく、一般的な生活においても、もっと満足できるように空想力に働きかけるのである」』

ささいな工芸品であっても、もっと満足できるように空想力に働きかける・・・

どういうことでしょうか?

たとえば、備前焼の火だすきを見て、登り窯の中の火の様子を想像したり、

波佐見や有田の茶碗を見て、その絵付けから風景や自然を想像する・・・

そういうことでしょうか。

一つの湯呑みに描いてある絵を見て、例えば鳥の絵を見て、私たちは鳥の存在だけを感じるのではありませんよね。

そこに、ストーリーを見出し、感じる。

里山の風景が描いてあれば、その中にいるような気分になってその器に向き合う。

それがいい絵だとかあんまり考えずに、薬の色や絵付けを見てその話しかけてくる世界に入っていく。

焼き物の表情見て日本人は『景色』と表現したりします。

特に意図して作られたものでなくても、そこから何かの自然や風景などの趣を感じ取ろうとする。またそれが面白みであると想っている。

繊維の世界で言えばテクスチャでしょうか。

その布の表情によって、味わいや情緒を感じ取ったりします。

様々な凝った技法を盛り込んで細かい細工がしてあるよりも、シンプルだけどその『味わい』のあるものに惹かれて、魅力を感じたりします。

これは『芸術品』として特別に作られたものでなくても、日常の雑器にも感じているわけです。

それがすごいのだ!とオールコックは書いているのでしょうね。

日本人よりも外国人の方が日本の文化の良さをよく知っている、という人が居ますが、私はちょっと疑問に想います。

本当の文化というものは、生活の中に深く溶け込んでいるもので、事さらに文化と意識されるものは実は、非日常的文化というべきものなのです。

お茶碗とお箸でご飯を食べるのも日本の文化ですし、それもご飯茶碗とお箸は自分専用のものがある。これも日本の文化です。

いただきます、ごちそうさま、というのもそう。

なぜだか理由は知らないけど、誰に教えられたか知らないけど、いつのまにかそうしている。

どんな子供だって、緑茶に砂糖やミルクを入れる日本人はまずいないでしょう。

なぜか?

日本人だからです。

日本人なら、割れるお茶碗でご飯が食べたいと想うでしょう。

何故ですか?

割れないプラスチックや金属のお茶碗が何故普及しないのでしょうか。

大人なら木や竹で出来たお箸で食べたいですよね。

私たちは身体で、そういう素材のほうが良いと知っているからです。

スプーンやフォークで食べている人にとってはとてつもなく優れた事に感じるのかもしれません。

韓国料理を食べる時、金属のお箸で食べると口に冷たい感触が伝わって、美味しくないのです。

民藝運動というのは、私達が本来身体で知っていることを、改めて意識させるものであったのです。

まったく新しい美を見出したのではありません。

私達が先祖から受け継いだDNAの中に刻み込まれたものを柳が解説し表現したのです。

ですから、誰が作ったとか、どこの産地だとか、いつごろ作られたものだとか、全然関係ない。

そのモノをただただ見て、ただただ感じる。

そして使ってみる。

五感で味わう。

日本人の生活の中でそれが普通の様に行われている事にオールコックも驚嘆したことでしょう。

そしてそういう消費者がいるからこそ、日本の工芸は世界に冠たる地位を占めてきたのです。

(つづく)

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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