『民藝と機械』20156/2/23

日本民藝協団の機関誌『日本の民藝』660号に掲載されている記事です。

連載しておられる西堀さんは、一貫して日本民芸協会(駒場)が機械生産を認め、その理事長が工業デザイナーであることに疑問を呈されています。

そもそも『民芸とは何か?』という事を考えなければならないのですが、民芸でなくても美術や工芸というもうすこしジャンルのひろいものに置き換えて考えてみましょう。

柳宗理さんは、モデルを手仕事で造り、それを元にして機械生産で本生産をされていると書かれています。

その生産物は、民芸の要素の一つ、『実用に合致している』事を満たしている。

では、これが民藝、あるいは工芸品、なのかどうか?

工芸品、あるいは工芸とは何なのか。

ウィキペディアによれば下記の様に定義されています。

工芸(こうげい)とは、実用品に

芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
では、美術品とは?

原始時代の洞窟壁画ラスコーの壁画など)は呪術的な目的で描かれ、人間、牛の姿を巧みに捉え、日常的な実用性を離れた表現となっており、美術史の始めのページを飾るものである。美術は多く宗教とともに発達してきたが、近代以降は宗教から独立した一分野を形づくるようになり、個性の表現としても捉えられるようになってきている。

美術は芸術の一分野である。芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動である。とりわけ表現者側の活動として捉えられる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情など様々である。手作りで見本を造って、それを機械で大量生産する。
聞いた事があるような感じがしますね。
絵画では安価な模造品が沢山造られていますね。
では、その模造品は美術品でしょうか?
手仕事で造った茶碗。
その茶碗の型を手仕事で作って複製するのと、機械で造って複製するのとどれだけ違うでしょうか。
今時なら、3Dプリンターでできますよね。
ただ、それは『デザインだけは』という事です。
工芸品の価値は、それが実用性を持っている以上、見た目や形状的な使いやすさだけではありません。
手に持ったときの感じ、肌に触れた時の感じ、質感、などなど多様な要素がからみあって、その価値を生み出します。
織物の場合、手織りと機械織りでは見た目よりも、手持ち感や風合いに圧倒的な差が出ます。
同じように造っていても、強度も違う場合が多い。
糸もそうなんですから、布にももちろん反映されるわけです。
では、なぜ手仕事でなければならないのか。
機械で良いじゃない、という人は、手仕事によって生み出された価値を見いだせないから、あるいは大きな必要性を感じていないから、そうおっしゃるのでしょう。
飯田市の廣瀬さんは、機械でも手織り以上の風合いが出せるとおっしゃって、織機を開発されていますが、手織りの良さをキチンと意識した織物には及ばないという感じが私にはしていました。
つまりは、手織りの結果として出る物が、作り手も鑑賞者・使用者に認識されているかどうかが問題なんです。
布を見て、触れば、すぐに手織りかどうかたいてい見分けが付きます。
しかし、解らない人には解らない。解らない人には価値ももちろん解らない。
なぜ手織りなら高価なのか。
それは手間がかかるから、だけでなないのです。
逆に言えば、いくら手織りしても、機械織りにも劣る内容ならば、徒労といわれてもしょうがないのです。
陶磁器のデザインでは形状は機械でそっくりにつくれるかもしれません。
では、絵付けはどうでしょうか。
手で描いた絵付けと、そうでない絵付け。
絵の具の色はどうでしょうか。
歴然たる差ががあると言わざるを得ないのです。
民藝といってもピンからキリまで。
ピンは手仕事の良さが最大限に活かされたもの、キリはただただ大量につくられた手仕事による器物。
駒場の民藝館にあるのは前者でしょうか、後者でしょうか。
江戸時代に手作りで造られた湯飲みがすべて民藝を語るにふさわしいでしょうか。
ちがうのです。
民藝論というのは、数千、数万ともいえる、作り手の中でも名手の作品を観て、その美はどこから来るのかを考察したものなんです。
民藝の中にも名品もあれば、ガラクタも当然のようにたくさんあります。
では、その民藝の名品に、機械生産のものが追いつくのかどうか、です。
つまりは、作品の制作に機械をつかうかどうか、どの部分に機械を導入するかを決めるのは、作り手の価値観と、めざすところの品質に左右されるのです。
化学染料をつかうか、天然染料をつかうかでもそうですね。
化学で自分の思う色が出せるという人は化学を使うでしょうし、天然染料でないと私の色はでないと想えばそうするでしょう。
天然染料であれば、良い色がでるから天然染料を使うというのは、違うと想います。
あくまでも、作り手自身が狙った色を出すために、素材を選択するというのでなければならない。
天然染料は、意外性が魅力という意見もあるかと想いますが、それは詭弁でしょう。
陶芸でも、窯の中で何が起こるか予想がつかないとしても、100%狙った結果を出すようにするといいます。
つまり、柳宗理さんが機械生産という手段をとるということは、『それで十分』と想っているということです。
いち工業デザイナー、いち作り手なら、それでいいと想います。
しかし、民芸協会の会長に工業デザイナーが次々就任するというのは私も違和感を感じざるを得ない。
工程内で機械を使う事と、機械化することは違うんだと想うんです。
私がまだ毛織物の工場にいたとき、機械は導入されていましたが、依然として作業の主体は人間でした。
機械に通して、出てきて想う様な品質でなかった、修整が効いて、想うところの内容に達するまで何度でもやりなおせるか、それが大事なことなんだろうと想うんです。
優れた作品を造るには優れた道具が必要な事も真実だろうと想います。
でも、道具には品質を判断することはできないし、良い品質にしようという気持ちがないのもまた真実です。
民藝の本質はデザインではない。
実用を考え抜いた上での品質から生まれ、にじみ出る機能美なんだろうと私は考えています。
そこに熟練した技が必要なことは言うまでもありません。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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