伝統文化と多様性 2017/12/5

私は茶道、謡曲、コーラス、釣り・・等々下手の横好きで多趣味なのですが、特に茶道に関して常々想う事は、お茶を習うということに関しても、それぞれ人によって求める物は多様だなぁ、と言うことです。

初め想っていたことから変わってくる場合もあるでしょうし、初めからずーっと思っている事を貫く人もいる、また、何も得るものは無いと、辞めてしまう人もいるでしょう。

私のお仲間の中でも、お茶に求める物は、多種多様、ひとそれぞれという感じを強く持ちます。

それが、茶道の奥深さ、懐の深さということでもあるのでしょうが、お教えになる先生方は本当に大変だろうとも想いますね。

道具に凝る人、点前を追求する人、自分のライフスタイルのアクセサリーとしている人、雰囲気が好きな人・・・

ほんとにいろいろな感じがします。

それぞれあっていいのだろうと想いますが、何をどう求めようが、満足していれば続けられるし、続ける事に意味があるのだろうと想います。

着物を楽しむということも、全く同じなのだろうと想います。

着物に、そして着物を着ると言うことに、求める物はひとそれぞれ。

伝統文化に触れるとか、キレイな物を着たいとか、昔のライフスタイルを味わいたいとか、着飾って差を付けたいとか、お稽古ごとで着なきゃいけないからとか、身体に良いと聞いたからとか・・

いろいろあるんだと想います。

どれも、良いと想いますし、その趣味・趣向によって現れてくる表現も違うでしょう。

もちろん、ライフスタイルも、お財布も、着る環境も違いますから、多種多様、てんでバラバラということになります。

今、おかしいと想われている事も、あと30年も経てば、だれもおかしいと想わなくなる。

文化とはそういうものです。

否定的な意味ではなく、だからこそ、『自由に思いのまま着る』というのは怖いことでもあるわけですね。

その人の、センスや性格や環境が、見え見えになってしまいますからね。

私の感じるところでは、戦争によって壊されたわが国の伝統文化が、いよいよ消滅してしまいつつありますね。

では、わが国から文化が無くなるかといえば、そんな事は無いわけです。

一度は消えても、同じ土壌に同じタネがあるわけですから、たとえ外来種が来ても、また同じ様な草木が生え、実もなるはず。

わが国の文化は江戸時代という閉鎖された熟成期間がありましたから、非常に高度になったんだと私は理解していますが、今はグローバルとかなんとか行って、たえずいろんな物が入って来ますから、混乱しているんでしょう。

では、沢山の外国人が来た、堺や博多、長崎で文化が醸成しなかったか?と言えば、結論は歴史が示しています。

我々中高年が眉をひそめるような事でも、50年100年経てば、立派な文化として尊重されているかも知れないのです。

昔から日本人というのは舶来好きで、いろんな物が入って来て、その度に、影響を受け、そしてそこから、自らに合う様に熟成をしていったのでしょう。

そう想うと、わが国の文化が頽廃しているとか嘆くことは何も無いと想うのです。

また、必ず、我々とは違うかも知れないが、優れた文化を生み出してくれます。

そこにはまた、日本人らしさが必ず、反映されることでしょう。

しかしながら、心配なのは『ものづくり』です。

和装業界だけでなく、永年日本人が愛してきた伝統工芸が、とてつもない危機に瀕しています。

ものづくりが廃れば、精神性の高まりも限界があります。

精神が退廃すれば、ものづくりも廃ります。

無機質な物しかない世の中には、無機質な生活しかあり得ません。

求め用いる目的はいろいろでも、キチンとしたモノを造れるものづくりを残していかねば、私達の先人が営々と築いてきたモノを土台から失うのではないか、そんな危機感をもたねばならないところまで来ているのかもしれません。

伝統文化に求めるものは多様で良いと想いますが、ちょっと触れるところからもう一歩踏み込んで、『あ、これは楽しいな』『これは面白いな』と感じて、自分の生活に活かしていく。

私達日本人は、古代から同じ日本という国に住み、同じ風土で生きてきたのですから、そこに育まれた文化・習慣を採り入れて暮らす事で、豊かさを感じる事ができると想うのです。

私の様な文化に携わる者の端くれも、押しつけるのではなく、多様性を認めながら優しく提案していく姿勢が必要なのではないかと想います。

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投稿者: mozuya

萬代商事株式会社 代表取締役 もずや民藝館館長 文化経営研究所主宰 芭蕉庵主宰  茶人