前にもご紹介したことがあったと想いますが、古い新聞記事です。
沖縄が祖国に復帰してすぐくらいだと想われますから40年くらい前の記事なんでしょうか。
私が小学校2年生の時、8歳の時に復帰したので、父はまだ三十代半ば。
私が社長になったのとちょうど同じくらいの年代です。
父が昔書いたノートやレポートを読むと、資料の少ない時代に良く勉強しているなぁ、と息子ながら感心します。
民藝論も完璧に理解していた様です。
私は父の影響を当然強く受けていますし、気質も歳を重ねるに従って似てきていると言われます。乗り移っているとも(^_^;)
真面目で一本気な父でしたが、この記事を読むと、やっぱり同じ事を考えていたんだなぁと、つくづく想います。
幸い、沖縄に自動織機が持ち込まれることはありませんでした。
沖縄風のモノが他産地や外国で造られたことは、父が心配した通りになりました。
自動織機が持ち込まれなかったのは良かったのですが、ではそれを本当に手放しで喜べる状況であったのか、というとそうとも想えません。
『心』はどうだったのか?
機械は使っていなくても、機械的では無かったでしょうか。
手作り、手織り、というにふさわしい内容が維持されてきたでしょうか。
沖縄の染織は有名になり、生産量もこの記事が書かれた当時とは比べものにならないほど増えたのだろうと想います。
しかし、作り手にせよ、商人にせよ、父のように熱い気持ちで取り組んでいる人がどれだけいるでしょうか。
父は貿易当時から沖縄に深く関わっていて、いろんな事を見通せたんだと想います。
復帰当時は、良いモノを造ろう、内地に沖縄の染織を広めようという気持ちがあった人も、次第に変わっていったのでしょうし、それにつけこむ商人が出てくるのは必然だったでしょう。
実は、貿易時代から、悪徳商人が沖縄に入り込んでいて、色々悪さをしていた、という話を聞いています。
その中で真面目で一本気な父が信頼をえて、沖縄の方々から支援をいただいた、という事の様です。
沖縄染織に関して言えば、当時のモノより今の方が品質的には安定していると想います。
でも、それと作品に魅力があるかどうかは別の話です。
ニセモノを造らせなくても、クイモノにしていないでしょうか。
沖縄に入り込んでいる業者で、本当に末長い沖縄染織の繁栄考えているのがどれだけ居るでしょうか。
また、作り手の方も、みんなが営々と仕事が続けられる様に自らを律して仕事をしているでしょうか。
もちろん、みんなお金が貰えないと困ります。
でも、お金と引き替えに大切なモノを犠牲にしていないでしょうか。
それをクイモノにしているというのです。
作り手も商人も、歴史と伝統の繋ぎ手として、『お預かりしている』という気持ちが大事だと私は思っています。
父から私に託された『京都、加賀、江戸に並ぶ沖縄染織の確立』はほぼなし得たかもしれません。
しかし、沖縄の染織が本当に良いモノ、最高の染織、と言われるにはまだまだ道のりは遠いと想います。
行く手は遠くとも、必ず到達できる目標であるとも想います。
一緒にそこを目指していきましょう。
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