『もずやの『歴史的妄想』(長文)』2014/4/18

たまにはちょっと得意の歴史的妄想を・・・

私はライフワークとして、自分のルーツ、つまり、萬代家がどんな家なのかを調べています。

インターネットが発達して参考文献なんかも検索しやすくなって、飛躍的に調査が進みました。

萬代あるいは万代という姓は、元々は土師氏で、今でいう堺市の百舌鳥地区に住んでいた土師氏が萬代・万代と改姓したのだそうです。

百舌鳥は昔は万代(もず)と書いて、うちの姓も元は『もず』と読んでいたそうです。

萬代と万代がいつ別れたかというと、明治になってからだと堺の萬代寺から聞いています。

土師氏はさかのぼれば野見宿禰が始祖で、埴輪や石棺を始め、古墳造営や葬祭を司っていた豪族です。

ところが、仏教が導入され、ケガレの思想が広まると共に、土師を名乗ることを止めてたんだとか。

菅原道真も土師氏で、うちの近くにある道明寺は別名土師寺と言って、道真が作ったお寺です。

私が住んでいるすぐ側に『土師の里』(はじのさと)という所があって、このあたりが土師氏の本拠地なんですね。

だから、百舌鳥古市古墳群があるわけです。

ケガレの思想が広まるにつれ、土師氏がどんな扱いをされたか、想像するにたやすいでしょう。

菅原道真という大天才の出現で一時は表舞台に返り咲いたものの、藤原氏などと違って、歴史上、語られない一族になってしまったんです。

それもそのはずで、野見宿禰は、出雲から来て埴輪を作ったそうですし、出雲大社に行けば、野見宿禰がまつられていて、その先祖は天日穂命となっています。

出雲大社の宮司さんは代々天穂日命の直系子孫だといいますから、天穂日命、野見宿禰とつながる土師一族は、バリバリの出雲族なんですね。

古事記に書いてある出雲の国譲りの真偽についてはよくわかりませんが、大和朝廷とは一線を画した立場にあったのかも知れません。

そのせいかどうか知りませんが、うちは先祖のどこをたどってもお百姓さんというのが居ません。

薬種商が主だった様ですが、薬というのは、今とは違って賤業だったんだそうです。

伝え聞く話では魚屋もしていたそうですし、堺鑑をみると萬代屋は醤油屋として姿を見せています。

海に近いところに醤油屋が多いのは、もともとはヒシオ(魚醤)を作っていて、そこから原料を変えたからなんでしょうか。

昔、親鸞の本を読んだときに、漁師が親鸞に、

『私は毎日の様に殺生をしていて、生きるのがつらい。これで浄土に行けるでしょうか?』

と問う場面があったのですが、非常に驚いた記憶があります。

それだけ、ケガレの思想というのは広く広まっていて、ケガレの部分で生きる人は苦しんでいたんだな、と強烈に感じたんです。

その後に、うちのルーツが土師氏で、土師氏がどういう一族か、ということを知ったんですが、

そう考えると、堺という所がどういう所だったのか、堺の人達の想いはどうだったのか、なんとなく解る様な気がしたのです。

堺というのは室町時代、織豊時代に、『東洋のベニス』と言われた大商業都市・大文化都市でしたが、それが堺の起源ではありません。

水軍によって瀬戸内海の通航が安全性を欠き、兵庫の港が使えなくなってからが堺の貿易港としての隆盛は始まります。

その前はどうだったかというと、都(天皇)や住吉大社に魚(鯛)や塩を納める漁港だったんです。

南北朝時代に南朝に荷担したことをとがめられて、堺は足利尊氏に商業を禁止されたことがあります。

ところが、正親町天皇が仲裁してくださり、堺の商業は元に戻りました。

それだけ、堺の力が強かったのは、経済力だけでなく、祭祀に関係していたからだと想います。

そういう役割を負いながら、国の体制の中では、武士や農民の下とされた。

常に『自分達は浄土に行けるのだろうか』と苦しんでいた。

堺には他所からたくさんの人が移り住んできています。

武野紹鴎もそうですし、今井宗久も、奈良の今井町から来た人だろうと私は思っています。

千宗易も先祖は他所から来た人だと言われています。

ルイス・フロイスは『堺では皆が自由で、分けへだてなく、黄金に輝いている』と書いて居ますが、つまり、堺は『別天地』だったわけでしょう。

なぜ、他所から来た彼らが堺で名をなす商人・文化人となり得たかは、土師氏の改姓と意味を同じくするように私は思います。

堺で会合衆による共和制がしかれていたのも、自由・平等の想いがあってこそではないでしょうか。

堺御坊を建て、また、石山本願寺の建立にも寄与した堺衆の願いは、『自分たちだって、浄土に行ける』というものだった様に想うのです。

石山本願寺も堺も、信長とは徹底抗戦し、その後、謎の和睦をし、双方とも最後は火をかけて、あるいはかけられています。

本能寺の変で失われたのは信長の命だけではありません。

多くの唐物の大名物も失われました。

秀吉が開いた北野大茶会。

予定を大幅に短縮して、終わっています。

宗易と秀吉の間には、その後大きな溝が出来たと言われています。

なぜでしょうか。

宗易は、町人の茶が盛んになることを望んでいたと言います。

町人の別天地である堺の人が望んでいたこと。

それは、下級武士を天下人に押し上げて、分け隔てのない自由な社会をつくることだったのではないでしょうか。

しかし、信長も秀吉も裏切った。

信長は安土城を造り、自ら神になろうとし、秀吉は藤原姓を名乗り、貴族になろうとした。

家康も一向宗や堺と戦いましたが、彼は江戸をつくった。

江戸は、町人の町です。

堺からも多くの人が移り住んでいます。

新しい町、大坂・江戸は、町人のまさに別天地だったんでしょう。

私は、町人の分際として、私達の祖先の歴史を受け入れると共に、誇りを持って様々な事に挑んで行きたいと想うのです。

町人・商人といえども、利の為に義を欠いてはいけない。

否、町人・商人だからこそ、武士以上に大義を重んじなければならないと想うのです。

そうでなければ、先人の永年の苦労がむくわれないのでは無いでしょうか。

今は身分制度の無い時代です。

宗教的価値観に基づく差別もほぼなくなりつつあります。

しかし、先人の気持ちを忘れてはいけないし、戦いはまだ続いていると想います。

文化人・言論人があからさまに商人を悪く言うのを私は何度もこの耳で聞いています。

そして、また、商人が悪く言われても仕方のないと想う様な事が今また、続いています。

私は悲しい。

先人がどんな想いで、戦ってきたか。

町人や商人の歴史を学ぶ事にも、大きな意義があるように想います。

歴史は、為政者だけのものではありません。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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