大阪芸大に通っていた時から、私はずっと『芸術家と狂気』について考えています。
精神的に病んだ人がすごい芸術作品を生み出す・・・?
これって本当でしょうか?
確かに映画や小説で紹介される画家や作曲家の生涯は奇異に飛んでいて、普通の人では無いように感じられます。
最近『カラヴァッジョ』の映画をみましたが、これもそんな感じです。
しかしながら、私が実際に接している『工人』は、普通の人です。
風変わりな人もいるにはいますが、極めて常識的な人が多い。
陶芸家も何人か知ってますが、同じです。
普通の人です。
だのに、なんで、芸術家には精神に異常を来している人が多い様に言われるのでしょうか。
私は、おかしい、おかしい、なぜなだんだろう?って、ずっと考えて来ました。
なぜなら、美は健康に宿り、健康的な作品は健康的な人からしか生まれないはずだ、と想うからです。
ですから、私は奇妙な格好をした芸術家気取りの人は好きになれません。
芸術家だからといって、麻薬や覚せい剤におぼれる人を許す気には全くなれない。
ですから、芸術家、クリエーターであっても常識人であるべきだし、常識人でも良い作品は生み出し得るはずだ、ずっとそう思ってきました。
しかし、ようやく謎が解けてきたような気がします。
日本の工芸家で狂気を感じる人は(ほとんど)居ません。
なぜ?
まず、生活の中で使われる物であるから。
生活の中で使われる物がおかしな人の作品あって欲しいはずがないですよね。
ご飯を盛るお茶碗が、キーさんの作品だったら・・・イヤですよね。
でも、私達が普段使ってる器物がどんな人が作っているのか、普通は知りません。
江戸時代までは、誰が描いた絵かとか、誰が作った皿だとか、そういうのは言われなかったんです。
作った人と作品が結びつけられるようになったのは、明治以降。
陶磁器が輸出品となってからです。
西洋では個性が重視される時代になっていて、誰が作ったのかを表示しなければ高値で取引されなかった。
作品=個人の個性とされるようになったわけです。
洋服も、料理も、建築もだんだんそうなってきてますよね。
そもそも日本にはそういう考え方・価値観は無かったんです。
物は物で、そこにまた別の魂が宿る、そういう考え方でした。
ところが西洋化して、物にはその作った人の魂(人格)が宿っている、そう考えるようになった。
そうなると、その作られた作品がどんな内容かより、どんな人が作ったのかに興味が移るようになります。
西洋画の解説を読むと、作者がどんな人だったのか、創作された環境はどんなだったのか、彼の思想的背景は?など、周辺的な言葉ばかりが並べ立てられます。
でも、私は河内に住んでいますが、葛井寺の千手観音(国宝)が誰の手で作られたのか、その人がどんな人だったのか全然知りません。
興福寺も近いですが、阿修羅の作者もどんな人だったのか知りません。
葛飾北斎や安藤広重もの人物像もたぶん近年になって勝手に作り上げられたものじゃないでしょうか。
大阪の有名な将棋指しの坂田三吉も全然ああいう豪気な人ではなく、極めておとなしい礼儀正しい人だったそうです。
でも、そんな常識人なら、映画や歌にしても面白くないですよね。
ポイントはソコです。
つまり、普通の人が作ったんじゃ、面白くないのです。
ヘンな人、悪いヤツ、そんな人が凄い作品を作った方が、面白い、話題性がある。
話題になる=沢山売れる、高く売れる。
そういう事です。
最近も、そういうのありましたよね。
佐村河内守・・・
私はサムラ カワチノカミ と読んでしまいましたが・・・
どういう内容だったかは読者のみなさんもよくご存じだと想いますが、全く同じ構図です。
事実が露見したあと、まったく普通の格好をした当人が出てきましたよね。
あの人が作ったら、話題になったでしょうか?
曲が素晴らしくても、普通の人が作ったらそんなに話題にならない=売れないんです。
簡単に言えば、注目されないんです。
聴覚障害があって、見た目には視覚障害もありそうで、そういう人が広島の原爆をイメージした曲を作って平和を祈る・・
NHKでこんなの流せば、だれもが『えっ!!!』って想いますよね。
素晴らしい!っておもうし、彼は天才に違いない!って誰しもが想う。
おそらく、棟方志功の釈迦十大弟子にまつわる話も同じような事だと想いますよ、私は。
また、ギャラリストの方も、そんなおかしな人との逸話を披露した方が、自分が芸術を理解していると顧客に想わせやすい。
『○○さん、この絵を描いた画家の先生ってどんな人なの?』
『まぁ、普通の人ですわ』
これじゃ、商売にならないでしょ?
織物の世界もそうですね。
良い織物を作る人は、とんでもない年老いたおばあちゃんだと想われている。
年若い美人が作るご飯より、小太りのオバチャンが作るご飯の方が美味しい。
だれしも、そう思うでしょう。
つまり、天才=奇人という先入観の壺にはめられているんです。
それは、私達一般人もそうですし、芸術に携わる人も同じなんだろうと想います。
変わり者だと言われると、自分は芸術に向いているんじゃないだろうか、と想う。
山下清の絵は好きですけど、あの絵が私が描いたとしたら、人気が出るでしょうか。
私の描いた絵も大して変わらないと想いますし(苦笑)、ああいう絵を描く人は沢山いると想います。
昔の絵巻物の中から、山下清の絵が出てきたとして、すごい!って感じるでしょうか。
感じるのは、本当の意味で感性が研ぎ澄まされている人であって、そんな人はそんなに大勢いません。
しかし、出土した縄文土器は、誰が作ったかわらか無くてもすごい!と想うでしょう。
運慶・快慶の作品はそれがもしかして、彼らの作品でなかったとしても、その価値になんの変化もありません。
作品に作者の人格や人生は投影されないんです。
作品の中の個性を重視するから、その個性がぶっ飛んでいるものが珍重される、ただそれだけだと私は思います。
ぶっ飛んだ個性に価値がないと言っているのではありません。
作者の個性に引きずられてはいけない。作品を直で見るべきだ。そう思うんです。
最近読んだ本にも書いてありましたけど、芸術作品を見たり、工芸品を使うとき、その主役は誰か?
それは受容者たる、私達なんです。
作品を見て、使って、私達個人個人が自分の心に何を感じるか。
それ以上でもそれ以下でもない。
私達の心に入って、形成された物。
それが、その作品そのものなんです。
草間弥生の作品を見た後で、草間弥生さんの姿を見たら、さもありなん!と想うことでしょう。
どうみても普通じゃない(笑)
でも、私は彼女の気持ちが解ります。
自分の世界にズッポリと入ってしまわないと、発想が途切れる恐怖感があるんです。
もっと、もっと、もっと・・!!
もっと良い物が作りたい、もっと研ぎ澄まされた作品を作りたい!
もっと、見る人の心に突き刺してやりたい!!
そうすると、だんだん、精神が濃縮してくる。
濃縮してしまった人間は傍目から見ると、おかしな人になってしまう・・
グスタフ・クリムトもそうだったんだろうと想います。
イサドラ・ダンカンもそう。
おかしな人が良い作品を作るんじゃない。
スポーツ選手が厳しい練習をして、体がガタガタになるように、1カ所を極端に鍛えると、全体のバランスが崩れて、おかしくなってくるんです。
それはどうしてそうなるかというと、個性のエキスを抽出しようとするからです。
その結果だけを見て、名をなした芸術家が産卵を終えた鮭の様になっている姿を見て、
あれが芸術家の姿だ!と私達の心に植え付けてしまうのです。
いわば、印象操作、マーケティング戦略にまんまとはまっているんです。
サムラカワチノカミだけじゃなくて、STAPおぼちゃんもそうですね。
マーケティング・アイを凝らして見れば、そんな例は数限りなくあります。
イヤ、そんなのばっかです。
問屋のオッサンが作家を名乗るとき、必ず、ヒゲを伸ばすか、髪を伸ばして後ろで括るか、普通の会社員ではしないことをします。
そうすると、芸術家っぽく見えるからです。
ものづくりする人が、金髪にしたり、奇抜な格好をするのもそうでしょう。
常人では、良い物、面白い物が出来ない。みんなそう思っている。
でも、実は普通の人です。
でも、私は思うんですよ。
芸術をやっていて、精神障害になって、もし、その人が苦しんでいるなら、助けてあげる方法は無いのかって。
また、最近、こんな話を本で読みました。
『なぜ、画家は自分のアトリエや画材を美しく保ち、使いやすいように整理しておかないのか。ふつう、良いモノを作る人はキチンと整理して掃除もして、よい環境をととのえているものだ。それは、優れた芸術家がそうしてきた、そういうものであったような幻想・先入観があるからだ。しかし、それは間違っている』
商売と屏風は曲がらなきゃ立たない。
この言葉が間違っているように、
何か救いになる方法があるのではないかと想うんです。
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