私の様に伝統の世界に身を置いていると、かならず突き当たるのが『形式』という言葉です。
キモノでも、茶道でも、お能でも形式、決まり事、というのがあります。
好きな人にとってはとても心地よい物でもありますが、この形式が敷居を高くしたり、意味が伝わらなくなっている原因とも言えます。
しかしながら、今は、形式だけを語り、そのいわれ、つまり『なんでそないなったんか』という話は素通りされているように見受けられます。
伝統という長い歴史の中では、要らない物はそぎ落とされて、必要なモノは徐々に付け加えられて、完璧とも言える形になります。
これが今、私達の前にある『形式』なんですね。
そこには、物理的に合理性のあるもの、また、宗教的にそうあるべきもの、等々、様々な要素がぎっしり詰まっているんですね。
ところが、あたまから形式ばかりを言われると、
『そんなん、どうでもええやんか』とか
『めんどくさい』とか
『もっと自由にやりたい』とか
考えるようになると想います。
気持ちはわかりますが、そうやって長い時間をかけて育まれてきた形式を無視することは、そこに本来存在するはずの『意味』を無くしてしまう事になるんだろうと想うんです。
茶道やお能の事は、先生方にお任せするとして、キモノの世界では、形式だけに拘泥してしまうあまり、かえってその形式を破ろうとするきらいがあるようです。
キモノというのは何故今の形になったのか。
文様は何を意味しているのか。
更衣の意味は。
してはいけない事は何故してはいけないのか。
全部意味があるんです。
おそらく、茶道もお能もきまりごとにはキチンとした意味があるのだろうと想います。
こうすべきということは、こうすべきだからそうすべきなんですし、
してはいけないことは、してはいけないから、してはいけないんです。
それを『ま、ええやんか』というのでは『意味』が無いんだろうと思います。
『これこれこういう目的の為にやるんだから、そんな形式にとらわれることない』という意見があるかもしれませんが、
それは、ご飯を食べるのは栄養を補給するためなんだから、お膳の上でなくても、手づかみで立て膝して食べてもええねん、というのと同じ事でしょう。
私達のような伝統の世界への『誘(いざな)い手』は、形式の中にある『意味』をきちんと伝える責任があると想うのです。
最近問題になっている『花魁着せ』ですが、これについて私は良いとも悪いとも言わないことにしています。
しかし、花魁が何を意味するのか。
花魁はどんな存在だったのか。
成人式は何をする場なのか。
そして、自分はどうやって生まれて、現在存在しているのか・・・
それを着せる人も、親御さんも教えた上で、それでも『ええねん。やってみたいねん』というなら、
『縁なき衆生は度し難し』
としか言いようが無いのです。
今の時代、物は豊かですし、誰が何をやっても、とがめる人も少ないです。
価値観は多様ですし、自分と違うことをいちいち気にしていたら、キリがありません。
ましてや、多くの人が『これでいいのだ!』と言っている事を、硬い事を言ってとがめ立てするのは、とてつもなくイヤなことです。
その道で有名になっている人が言っていることを、私の様な者がいくら言ってもひっくりかえりません。
だから言わない事にしています。
言わないです。
『ほっといてーや。何えらそうに言うてんの。○○先生がそない言うてはったから間違いないし』
と言われたら、もうそれで終わりです。
でも、きちんと学び、きちんと知っておかねばならないし、正しい事を知りたいと想う人には前に進めるようにお手伝いしたいと想うのです。
我が国の歴史は2700年に及びます。
服飾史だけをひもといても、膨大な量になります。
文化史ということになると、とてつもない世界です。
でも、知っておかねばならない。
私達が勉強して伝えないと、キモノや染織のおもしろさ、意味を誰が教えるのでしょう。
『なんでそないなったんか』を知れば、キモノも我が国の文化も、もちろん、我が国そのものも、大好きなり、その歴史に敬意を持つに決まっているんです。
ちょろっと勉強して知った気になってないで、その道のプロならもっともっと踏み込まないとウソだと想います。
『なんでや?』と思い出して、勉強しだしたらキリがない。そんなもん、売る事に関係あらへん。
たしかにそうです。
茶道の世界だって、高いお道具を買い、型どおりの点前をおさめて茶名をもらえば、ひとかどの茶人と言われるのかもしれません。
でも、それでいいのでしょうか?
それで満足なのでしょうか?
自分自身がそれをヨシとするのか?
それがすべてだろうと私は思います。
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