『丹波布を見て』2014/3/27

昨日、丹波布を見て来ました。

羽曳野から100キロちょっとなんですが、増税前だからか大渋滞で3時間かかりました。

開催されていたのはこちらです。

植野記念美術館

https://www.city.tamba.hyogo.jp/site/bijyutukan/2014-3-8.html

丹波布の展示は3月30日までです。

こちらではかつての研修生の作品が展示されていました。

そしてもう一軒、丹波布伝承館へ。

丹波布といえば、柳宗悦が絶賛した布で、私も東京・駒場の日本民藝館でしか見た事がありませんでした。

つくりかたはこんな感じです。

私が説明しなくても↑読めば解りますよね。

伝承館にいらっしゃった方に色々と質問してお話を聞いていたのですが、

この伝承館も丹波市が運営していて、後継者育成も丹波市がやっているのだとか。

現在、実際に丹波布を織っている人は10〜20人。

えらい開きがあるようですが、これにはワケがあるようです。

全国から後継者を募るのですが、2年間の研修を終えると、ほとんどの人が地元に戻って、続ける人は地元で仕事を続ける。

ところが、それも、『丹波布』と名乗って良いのだそうです。

丹波布伝承館で研修を受けた人は伝承館が発行した『丹波布』の証紙を添付して作品が出せると言うことです。

『それじゃ、勝手に名乗っている人もたくさんいるんじゃないですか?』

と聞くと、

『たぶん、そうだと想います』

地元でやっている人は、ほんの数名で、その人達が少しずつ伝承館に作品を持ってくるだけ。

『それじゃ、意味ないじゃないですか?』

と言うと

『そうなんです。ですから、今は研修生は地元優先という事になっています。』

当然ですよね。

丹波布は丹波で伝承されてこそ、意味があるのであって、その技法が他の地方で受け継がれても、丹波布が受け継がれた事にはならない。

なぜなら、民藝は風土と直結したものだからです。

いくら植物染料を使っても、地方から染料を持ってきて、外国産の糸を遣っていたのでは、厳密にはその地域の民藝品とは言えないと私は思います。

風土と生活に密着してこそ、民藝は美しくなる。

たしかに、趣味ベースでやっているから、手間を惜しまずに良いモノができる可能性があるとも言えるのですが。

結果としての作品は、見た目は美しいと想います。

自分の手で引いた木綿の糸に植物染料。

それを手織りするのですから、きちんと造れば美しくなるでしょう。

ただ、衣料としてどうか?という問題があります。

手持ち感はザックリしていて、手触りも気持ちが良い。

でも、織物として粗いのも確かで、収縮を聞いたら縦方向に15〜20%だそうです。

着尺の長さが15mで、なんとか用尺を確保する、という感じです。

15〜20%も縮んだら、風合いも見た目も変化してしまうんじゃ無いでしょうか。

私なら、縮むだけ縮ませて、その変化を楽しむという風にしますが、価格的には決して安い物ではありません。

洋服に仕立てた物もありましたが、縮んで形が崩れてしまうのではないでしょうか。

展示されている反物も表面が波うっていて、織るときの緯糸のテンションむらなのか、織上がった後の収縮なのか解りませんが、値段に見合った織物の姿とは言えないです。

名のある民藝品はそれ自体に価値があるみたいに想ってしまいがちですが、それでは、骨董品の域をでません。

私が興味があるのは、いまから生活の中で使われ、その為に生まれてくる品物です。

工程が昔ながらで、手間がかかっているとか、植物染料遣いで色が美しいとか、それはそれで価値ある事ですが、着尺・帯として織られた物が衣料として十分な使命を果たせないという事になれば、それは、ただのキレに過ぎません。

ただのキレはただのキレ。

使われて美しさを増すことも無ければ、見た目以外の着心地などの快適性、堅牢さを実感することもありません。

衣料であるならば、beautifulであると共に、否、それ以上に、comfortableでなければならない、と私は思います。

それが一体となっているところに『用の美』が存在するのです。

いくら昔ながらの方法で造られていても、表面が波うっていたり、布目が曲がって仕立てしにくいというのでは、衣料としては一流品とは言えないのです。

手だからそれが出来ない、許されるというのであれば、それは手仕事の敗北です。

機械以上の事が出来て初めて、手仕事は価値を生むのです。

それがあってこそ、手仕事は機械生産の物より高価で取引される値打ちがあるのです。

工程が必然的な結果をもたらさないのであれば、それは技量の未熟としか言いようが無い。

丹波布に関しては、もうひと工夫、ふた工夫あれば、もっと良い織物になると想います。

伝承するだけでなく、織った物の美しさに陶酔するのではなく、使ってもらって、着てもらった時の最上の喜びを目標とすべきです。

着られない布は、刻まれて土産物になるだけです。

かつての民藝運動家の罪。

それは、工程に拘泥しすぎて、『いかにつかわれるか』に眼を向けなかったこと、だと私は思います。

工程が昔のままでも、様々な環境は刻々変化している。

人の価値観も変わっている。

人の価値観に沿わないものは、使われなくなる。

これは当然です。

見て美しい物は、昔のままで造れるかも知れない。

でも、本当の意味で、本来の使い方をされて、人に愛される品物は、変わりゆく人々の生活の事情や環境と共に歩んでいかなければなりません。

私達は博物館の学芸員でもありませんし、骨董屋でもありません。

今に生きる布として、どうあるべきか。

作り手と共に考えていきたいと想います。

もずや民藝館

http://www.mozuya.co.jp

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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