映画『アーティスト』を観て。2014/1/22

昨晩遅くからitunesで観ました。

http://artist.gaga.ne.jp/

今、公開中なのでネタバレは避けますが、とても考えさせられる映画でした。

無声映画のスターが、無名の女優と出会う。

そのスターは、『女優は特徴がなければ』と、唇の上にホクロを描く。

その後、映画会社は無声映画を廃止し、トーキーに切り替えると宣言する。

その俳優は

『私のファンは私の声など聞きたがっていない』

とトーキー映画への出演を拒否。

自分で、無声映画を制作する。

世間は、

『これからはトーキーだ、無声映画など過去の遺物だ』とはやし立てる。

かつてのスターは、無声映画の制作のために全財産を投入。

やっと出来上がった無声映画のクランクインは、彼がホクロを着けたあの女優のデビュー作と同日だった。

もちろん、その女優はトーキーに出演。

結果は、無声映画の惨敗。

かつてのスターは破産に追い込まれ、女優はスターダムにのし上がる。

破産したかつてのスターは、家財道具などすべてを売り払う。

実は、その家財道具を買い取ったのは、付けぼくろの女優だった。

それを知ったかつてのスターは、自殺を図るが、間一髪で。

つけぼくろの女優は、かつてのスターの再生を図る

それは、声を発しない、二人のタップダンスだった。。。

ざっとこんな筋書きです。

この映画を通してすべて無声で描かれています。

芸術というものは時代の移り変わりと共に変化していきます。

絵画も、油絵具が発明されてから画期的に進化したという話を聞いた事があります。

私たち工芸の世界も同じですね。

時代と共に、技術革新があり、それとともに形を変えていきます。

では、それでみんながその船に乗るか、乗れるか、といえばそうではないんです。

自分のやり方、今までやってきた方法に、美を見出し、その枠の中でこそ生まれる価値を追求してきた。

この映画をみるだけで、無声映画の芸術性の高さ、求められる演技力•構成力の高さに気づくはずです。

しかし、大衆は常に新しいものを求める。

利益を追求する人々は、大衆に受け入れられるものをよしとするし、そうせざるを得ない。

時代遅れといわれる手法を愛する人は、そこで苦悩する。

私がやってきた事はもう、受け入れられないのか?

いや、本当にすばらしい作品なら、どんな形でも評価されるはずだ、そうも思う。

しかし、現実は厳しい。

この映画では、時代の流れに翻弄されるアーティストの苦悩する姿が如実に描かれています。

胸が痛くなりました。

『私はアーティストなのだ』という誇りがあってこそ、その作品は芸術的価値は高くなる。

しかし、時代が変わればそれが、そのアーティストにとってはアダになるんです。

最終的には、彼を救ったのは、彼を愛していた『つけぼくろの女優』でした。

彼女は、はじめは、彼の資産を秘密に買い取る事で彼を支えようとした。

しかし、それがかえって彼を傷つけてしまったことに気づく。

『私が間違っていた』

つけぼくろの女優はそういいます。

彼を本当の意味で救う方法は何か?

それは、舞台に上がらせて、アーティストとしての彼の力を思う存分発揮させる事だったんです。

それが、二人でのタップダンスだったんですね。

アーティストの悲哀と共に私が感じるのは、この『つけぼくろの女優』です。

かつてのスターを愛し、尊敬していて、彼の実力も解っていた。

それをトーキーに引っ張りだそうとはせずに、彼の持ち味を引き出し、彼も喜んでできる仕事を見いだした。

無声かトーキーかという映画の世界ではなく、かれの演技力、表現力に注目して『タップダンス』というモノを見つけた。

アーティストというのはプライドをもっていなければ成り立ちません。

でも、そのプライドのために辛酸をなめる事もある。

かつてのスターはどん底まで追い込まれました。

無声の中でこそ、発揮される彼の表現力、そこを見いだし、再び世に出したこの『つけぼくろの女優』はすばらしいと思います。

私のような立場の人間には、とても心にしみる、感動的な映画でした。

これからはいろんな映画も見ていきたいと思います。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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