民藝、手しごとを考える上で、日本のモノにこだわる必要は無いと想います。
世界中の手仕事の作品を自由にとらわれずに観た方が鑑識眼・審美眼は高まるはずです。
これだけ生活が西洋化してしまうと、和のものを生活の中に取り入れる事自体が困難だからです。
世界中の手仕事作品を観て、眼を肥やしていれば必ず、日本の手しごとの素晴らしさにも自然に気付くはずです。
金属工芸のアクセサリーでも良い。
毛織物でも良い。
西洋食器でも良いんです。
モノの良さがわかる様になれば、あとは好き嫌い、ライフスタイルの問題です。
毛織物の良さが解って、絹織物は解らない、そんな事は無いんです。
キモノが解る人は、必ず陶磁器や他の工芸もある程度目が利く。
根底は同じだからです。
値段というのは需給のバランスで決まるモノですから、良いモノが高く、下らないモノが安いとは限りません。
しかし、その物の価値はある程度見抜けるはずなんです。
作家名やブランドでモノを買ったり、評価したりしているひとは、全く眼が育ちません。
カーナビを頼りに運転していると、いつまでたっても道を覚えられないのと同じです。
マーケティングは私の専門分野ですが、消費者側から観れば、マーケティング技法の一つであるブランディングというのは、消費者の判断の軸を崩壊させ、本質的な内容から眼をそらさせるための目隠しです。
世界のスーパーブランドの偽物がかつて氾濫して、被害者がたくさん出たことは記憶されている方も多いと想います。それはもちろん、ブランド側が仕掛けたことではありませんが、お求めになった方は作品を見ず、ブランドのロゴとデザインだけを見ていたに違いないのです。
イタリアのヴェニスに行くと、ヴェネチアン・グラスの販売所に案内されますね。私が行ったところは、本当にひどいモノしか置いていませんでした。
でも、ヴェネチアン・グラスはやっぱり本場で買えば良いモノがあるのだろうと、大枚はたいて買う人もいたのです。
カメオしかり、金細工しかりです。
でも、作品をしっかり見るクセがついていると、だんだん解ってきます。
『浜田庄司の皿』ってだけでは騙されない。
富本賢吉、河井寬次郎はそんなに作品が多くないので、駄作もすくないですが、浜田庄司や金城次郎は、見るに堪えない作品もあります。
紅型などの染め物、首里織などの織物も同じです。
同じ作家でも、秀作も駄作もあるのです。
あまりの駄作の場合は、『これ、ニセモンちゃうか?』と想うときもあります。
私流に言えば『投げ頭巾』的なものもあれば、たたき割ってやりたいと想う作品もあるんです。
美術館・博物館に行っても、能書きを先に読んでいるようではダメだと想います。
作家名や産地・年代を当てたり出来る事と、モノの価値が解ることとは違います。
それは骨董屋の仕事です。
新しく世に生み出されたモノ、これから本当に私達の生活の中で使うモノ。
これの価値を、自分なりに、自分の物差しで判断出来る事が大事なのです。
あなたが自分でくだした価値判断、あなたの物差しには誰も口を出すことは出来ません。
それはあなたの宝物だからです。
朝、コーヒーを飲むときに使うカップで良い。
夜、ワインを飲むときに使う、グラスで良い。
身につける、ネックレスやブレスレットでも良いのです。
手仕事のものは、昔と違って高価です。
出来るモノから、身近なモノから始められては如何でしょうか。
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