『手仕事の心』2014/1/5

明日からいよいよ仕事始めです。

短い一年がスタートします。

お正月はゆっくりさせてもらえたので、色々と考えてみました。

工芸の美や手仕事に関してです。

私は仕事としては、機械生産のものも扱いますし、進んでお勧めもしています。

しかし、私の存在意義は、『手しごと』にあると想っています。

『手しごと』の素晴らしさがきちんと評価されれば、必ず染織は存続できるはずです。

キモノというものを広義でとらえれば、それは合繊・化繊でも良いでしょうし、プリントでも良いのです。

私があえて『染織』という言葉にこだわるのは、キモノを日本の文化とするなら、そこには手仕事の美しさが絶対的に必要だと想うからです。

糸はすでにほとんどが外国産となり、染料も化学染料です。その他の加工も現代文明のちからを借りています。

せめて国産と想う方も多いでしょうが、最後の砦は私達の美意識・価値観だけ、という事になります。

しかしながら、いちど機械の力を借りてしまうと、効率を考える方向に引っ張られるのが人情なのです。

初めは、この単純作業だけを動力で、と想うのですが、そこからどんどん考え方が変わっていくが常です。

機械生産が悪いというのでは全くありません。

機械の力を借りなければ、もうとっくに手仕事の染織も無くなっていたでしょう。

問題は『手しごとの意義』です。

手づくりすること自体に意味があるというより、その結果として生まれてくるモノが圧倒的に美しいから、意義があるのです。

つまり、手しごとを完全に失うと、効率一辺倒の口当たりの良いモノばかりになるのです。

それはしいては、美意識の破壊に繋がります。

それが作り手の世界にも広がっている、だから危機感を募らせているのです。

『そんなもの、関係ないよ』

そう想われるかも知れません。

でも、そうではないのです。

江戸時代までのあの素晴らしい工芸品、絵画から見て、今はどうでしょう?

家電製品、ビルディング・・どれも無機質で美からかけ離れたモノばかりです。

効率一辺倒の極地が今の私達の生活なのです。

そんな環境で住む人間に、世界で通用するモノが造れるわけがない、私はそう思います。

今はまだ、ギリギリ伝統の糸が繋がっているから、なんとか生み出せているに過ぎないのです。

技術は日進月歩。世界では抜いたり抜かれたりです。

でも、美の世界はおいそれとは追い抜けない。

浮世絵や美しい工芸品で欧米人の度肝を抜いたのは、ほかならぬ私達の先人なのです。

そのすらばらしい財産が失われようとしているのです。

どんなにコンピューターが発達しても、人間が心から美しいと感じ、感動する絵はイラストレーターでも描くことはできません。

背骨が震えるような美しい色は化学染料やインクでは出せないのです。

手てしごと、あるいは『眼しごと』の必要性はどこにあるのか?

それは、頭にある、身体に染みついた、美しいモノを、手と眼で確認しながら生み出していける所にあるのではないでしょうか。

機械や化学を用いると、そこには結果が用意されています。

必然的な結果しか出てこない。

でも、手しごとは違います。

人知を超えた、まさに天が与えたとしか考えられない美しさがそこには生まれるのです。

失敗すればやり直すことが出来るし、修整だって可能です。

失敗を活かして、最終的には面白いものができることもある。

陶芸なんかはその典型ですね。

機械を使って造れば、否が応でも、完成品としてこの世に生まれ出てしまいます。

効率のみに汚染された頭で考えると、それを世の中に無理矢理だそうとします。

結果、

『これでいいや』

という事になってしまうのです。

手しごとは確かに効率が悪い。

でも、その分、作り手は長い時間、そのモノと対峙しているのです。

私はつねに作品に囲まれて生活していますが、醜いモノがあると気分が悪くなって体調を壊すのです。

無機質なものに囲まれた生活のなかで、染織をはじめとする手しごとの作品に救われて生きながらえている、そんな感じがします。

キモノに興味がないのなら、陶磁器でも、ガラスでも、木工でも何でも良いのです。

すべて根っこは同じです。

焼き物が解れば染織も解ると想います。

なぜなら、手しごとは、ジャンルが違ってもそれを構成している要素は同じだからです。

キモノの世界を顧みて想う事は、あまりにも生活から離れてしまっているということです。

日常の生活の中で、手しごとの染織品の良さを味わおう!と言っても無理です。

『手しごとの美に気付いてもらう』

これさえできれば、全ては解決する、そんな気がします。

美の全ては同根だからです。

柳宗悦が始めた民藝運動は木喰仏から美に開眼したのですが、運動の主体は陶芸でした。

日本文化の中で、いまでも根強く残るのは食の部分だけだと想われます。

日本人なら、プラスティックのお椀とお箸で食べるより、塗りのお箸と割れるお茶碗で食べた方が美味しいと想うでしょう。

紙コップより、手作りの陶器で飲む酒の方が美味しい。

そう感じるところに、まだ救いがあると想うのです。

要は、『高価ではあるけど、たしかにその価値はある』と想ってもらえるようにしないといけないという事なのです。

柳の時代のように手しごとの作品を廉価で販売したり、手に入れる事は難しいでしょう。

時代は変わりました。

作り手も人間ですから、生活していかなければなりません。

工芸論、民芸論というのは唯物主義ではないのです。

一番大事なのは、そのモノを使って得られる精神的充足感なのです。

その充足感の質がどういうものなのか、そこに問題の本質があるのです。

最近、山上宗二記を再読してみましたが、列記されている名器のどれ一つとして、作者が書かれているものはありません。

誰が持って居るか、それのみです。

これは、その大名物を持っている事が茶人としてのステイタスだったという事もあるのでしょうが、私はそれだけではないと想います。

一番大事なのは『誰が目明きをしたか』です。

一つの壺があって、その美しさに誰がはじめに気づいたか。

村田珠光、武野紹鴎がその器物を観たときはそのヘンにころがっているタダの真壺だったかもしれません。

しかし、彼らの直感に触れるものが眼に入ってきた。

その瞬間は私も自分が体験したかのように想像することが出来ます。

何百何千という壺の中で、ドーンと眼に入ってくる一つの壺。

その時の喜びほど大きなモノは無いのです。

それが器物と対面するときの楽しみであり、その一瞬のために色んなモノを観て歩くのです。

ですから、作り手と使い手は真剣勝負。

染織も陶芸も、今はモノが多すぎ、また皆さん忙しすぎて、じっくりモノを観る余裕がおありにならないのかも知れません。

いつも身の回りにあって、毎日接するモノ。

それを美しくすることが全ての始まりだと思い始めました。

それで素人ですが、陶芸を勉強する事にしました。

染織にも役立つだろうと思いますし、手しごとの美をご理解いただく助けにもなるだろうと思います。

あんまり核の部分に踏み込んでいくと、商売はしづらくなるのですが、しょうがありません。

せっかくですから、生きているうちに私なりの工芸論を残したいと思っています。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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