琉球びんがた その味わい方2017/10/24

工芸品なり芸術品というのは、まずパッと全体を見ることから始まるわけですが、そのパッと見の印象がどこからくるのか、を解析してみる事も大切です。

学者さんとかは、この作品のここが素晴らしい!とか文章であれこれ書いているのを読む機会もあるんですが、現物が前にないとチンプンカンプンな感じもします。

ここではそれを紅型に関して総論的に行ってみようというわけですが、まぁ、少しでも参考になればと想います。

まず、私がひとつの琉球びんがたの作品を見たとします。

帯だとたいてい6通ですから、無地場がまず出て来て、やっとこさ柄に到達します。

10㎝見れば、良い変わるかは判断できるものです。

いや、3㎝で十分ですね。

もっといえば、裏返して巻かれている状態でも、もうそこで半分ほどは値打ちが解ります。

何故かというと、私の場合一番重きを置いているのは『地色』だからです。

地色の洗練の度合いが、まずその作り手のセンスと物作りへの考え方を示していると、私は判断しています。

どんな色が美しいのか・・・

それはねぇ・・見る側のセンスもあるし、好みもあるし、経験もあるし、いろいろです。

たぶん、京友禅ばっかり見てる人達は、沖縄の色彩が解らない人も多いでしょうし、逆もそうかもしれません。すべての色に対して公平に評価するのは非常に難しいことですし、意味の無いことです。

ですから、お好みで良いんですが、地色の良さがその染めモノの価値の大半を決定すると私は思っていますし、地色を良い加減に考えている紅型師はたいしたものにならないと考えています。

紅型というのは二つの芸術によって成りたっています。

ひとつは彫刻。

そして絵画。

彫刻というのは型彫りです。

紅型を見て、地色の次に見るのは、型の出来具合です。

紅型に染められた作品をみても型そのものは見えないわけですが、その線から、型がどう彫られて居るのかが解ります。

難しい事ではありません。ジーッと見てください。

紅型の型は突き彫りという技法が取られるので、滑らかな曲線も表現することが出来ます。

もちろん、その直線・曲線の美を表現するには絵画的な構成力・描写力も必要です。

それと、顔料・染料に見られる、色の世界。

滑らかでありながら力強く。

強弱、濃淡、明暗、曲直・・・

ひとつひとつの線や、色を丹念にみていく。

そして紅型ならではの隈取りのとり方。

上手い紅型師ですと、なんらかの仕掛けがしてある場合があるんです。

染色そのものの技量は経験によって向上していく場合も多いのですが、その作家さんのセンスや物作りに対する想い、考え方というのは、そうそう変わるものではありません。

また、それが変化すると、すぐに作品に現れてきます。

それは織でも同じですね。

『ちょっと、気持ちが足りないんじゃない?』

『うーん、行き詰まってる?』

そういう指摘をすることもままあるんですが、たいてい当たっています。

もともと良い物を作る人が作れなくなっている時は、ほとんどがその内面に問題があるときなんです。

技術の退化ではないんですね。

紅型の世界は、絵画や友禅の世界とはちがって、古典だけを染めてもごはんが食べていけるんです。

ですから、実際はそんなに創作力は必要としない。

体力・気力の低下とともに、創作力が鈍ったとしても、品質はそんなには落ちないはずです。

若くて脂が乗りきっている年代のはずなのに、落ちてくる人がいる。

なぜか?

どうしてわかるのか?

作品に気が乗っていないのです。

そしてその気を乗せるようにするのも私の仕事なんです。

良い作品が解るようになるには、本当に良い作品をたくさん観なければなりません。

しかし、残念なことに、本当に良い作品を観る機会というのが、特に内地ではほとんど無いというのが現実です。

インスタントラーメンばっかり食べていたら、ほんとうに無化調で手作りしたラーメンの味が分からないのと同じです。

逆に手作りのラーメンばっかり食べていたら、インスタントラーメンは別の食べ物だと想うくらいでしょう。

紅型の価値というのは、『だれそれが作った』とか『柄が変わってる』とか『何々の生地に染めている』とか、そんなのはあまり関係がないのです。

なんの変哲もない、平織りの絹の生地に染めてある無名作家の作品でも、ガーン!と引きつけられるときがあります。

そういう意味で、沖展を初めとする公募展は楽しみな場なのですが、最近は、ちょっと期待薄な感じもしています。

紅型の世界は老壮青、たくさんの作り手がいます。

しかし、見る者に挑戦的に迫ってくる迫力のある作品をとんと観なくなりました。

みんな、それなりにまとまっているんですが、どれといって特色も個性もない。

まぁ、無難にそつなくまとまっているが、いうなれば、可もなく不可もなし。

今時の演歌歌手みたいな感じです。

しかし、天才はいます。いるんです。

天才は、その才能の故に、技量が才能に追い付かない。

だからなかなか世に出てこないんです。

技量の良否を判断できるひとはいても、才能に価値を認めることが出来るのはごく一部。

古典だからこそ、引き立つ才能もあるんです。

クラッシック音楽なんか、同じではないのでしょうか。

ですから、紅型を見るときは、古典紅型というのがどういうものなのかを知っておくと良いでしょう。

いろんな古典があって、その古典をアレンジして、作品づくりをするわけですが、そこにとてつもない才能が垣間見れるわけです。

一般の人が紅型に触れる機会といえば、小物類が一番多いのでしょうか。

紅型のプロを分類すれば

着物・帯を作っている人
小物を主に作っている人
紅型体験や教室をやっている人

と分けられると想いますが、その作品の序列は、いわずもがなでしょう。

本物の琉球びんがた自体を見られる機会自体が少なくて、『紅型』と称して売られているものの90%が本物の琉球紅型ではない、という事では、どうしようもないのですが・・・

結論みたいなものがお示しできなくて、私もワジワジしているのですが、せめて紅型制作に携わっている人には、もう少し良い作品を観る機会があればな、と想いますね。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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