まぁ、この問題は非常に難しいというか、永遠とも言えるテーマなんですが、ちょっと書いておこうと想います。
そもそも、私の様な若輩者が書くこと自体がおこがましいのではありますが・・・
職業的な事から書くと、若いときは何が良いのか全然解りませんでした。
とにかく先輩が売ってくるモノ、お客様の反応が良い物を良い物だろうということで、お勧めしていたというのが本当のところです。
いまも、私達の業界ではたいていが、人間国宝などの世間に認知されていたり、老舗と言われている所のモノが良い物だとする傾向が強い感じがします。
でも、その作り手がそれまでどういう経歴であったかとか、造っている会社がどんな歴史をたどってきたかは、本来作品とは全く関係がありません。
ある作家さんと『これから沖縄の染織からあらたに人間国宝がでるでしょうか』というような話をしていたのですが、私は『まぁ、出ないでしょうね』と答えました。
その作家さんも同意見で、一時バタバタと何人もの人が沖縄で認定を受けましたが、本当にふさわしい人は、一人くらいだろうという様な事を話したのでした。
他所の産地などに関してはその仕事ぶりや作品を細かくは知りませんので何とも言えませんが、実際、人間国宝などに認定されるについては作家としての力量以外の事も大きく影響するような感じがしています。
私がモノを観るときは、そういう作家の勲章や経歴などは全部視野の外に置きます。
大作家の作品だからと言って、かならずしも良い作品とは限らないからです。
無名の作家だからといって、作品もつまらないかといえば全然そんな事はありません。
ある作家さんと、『またどこからか、きっと天才が彗星の様に登場するはず』などという話をしていたんですが、その人曰く、いま現在もその方が天才と認める作家は存在するんだそうです。
その世界についてはかなり精通しているつもりの私でも名前さえ知らない作家の作品が個展をすれば飛ぶように売れ、天才が天才と認める存在であるわけです。
そういう意味では、実は、多くの人が知らなくても、解る人にはちゃんと解っているということなんですね。
織物、たとえば首里織なら首里織、びんがたならびんがたをずっと見ていれば、その作品がどんなに素晴らしく優れているかは、すぐに解るんだと想うんです。
平凡な作品ばかりを観ていても、図抜けた作品が目の前に現れれば、そこから目を離すことが出来ないほど、魅入られてしまう。
私は、博物館や美術家に行っても一切能書きを読みませんし、音声ガイドも聞きません。
できるだけ素の状態、真っ白な状態にして、自分の心だけに照らして作品を評価する。
染織に関してはプロですが、陶芸に関しては全くの素人です。
また、それが『眼』を鍛えるチャンスになります。
私は茶道の稽古をしていますから、道具についても色々と勉強をしなくてはなりません。
しかし、茶席において、その道具がどういう道具かの話はあっても、そのどこが良いのかについて言及されることは全くと言って良い程無い感じがします。
ということは、道具の作者とか言われとかを頭にいれなければいけない訳ですが、どうも性に合わないなぁ、と想って、陶芸教室に通い始めたということなんです。
何をどう見るかについて、一番の早道が『造る事を学ぶ事』だと考えたからです。
まだまだ、多少は解る様になったといえる段階にも達していませんが、この選択は間違っていなかったとは想っています。
モノを観るという事についてもいろんな見方があって、陶芸でも茶碗や皿などと、オブジェみたいなものとは観る部分や評価の仕方も違うのだと想います。
湯飲みであれば、持ち重りするものはダメだし、口当たりも良くなくてはいけません。
素人が普通に湯飲みの形にしても、飲みやすい湯飲みにはならないんです。
湯飲みとして優れた作品かどうかがあるように、着物として良い染織品というのも当然あるわけです。
それは『着るために造られた』という事に於いて、評価されるべきだからです。
それを除いて、着物としての染織品の評価は出来ません。
いくら技法が優れていて色が良くてもです。
着物であれば、日光や外気に当たるわけですし、人間の身体にも接近するわけです。
当然、長く愛用したいといこともあります。
そのすべてを満たしてこそ、良い作品であるわけです。
作品を観ただけでは解らないこともあります。
ですから、プロであれば様々な知識が必要です。
糸遣い、技法、染料その産地の伝統、等々、いろんな事を知っていなければいけません。
しかし、はじめて作品に対峙するときには、まずはその全てを捨て去る必要があります。
その上で、観たときに自分の心がどう動いたか、です。
ハッ!キレイだー!
ウワッ!すごい!
エェッ!なんやこれは!
など色々あります。
そこからはじめて、細かい分析を始めるのです。
『上手の手で下手なモノをつくる』という言葉がありますが、ものすごい技法を駆使して、丁寧につくってあっても、くだらない作品はごまんとあります。
まずは、その作品に感動するかどうか、です。
そして、一番大事なのは、自分の評価に自信を持つことです。
自分の評価に自信が持てないと、どうしても『名前』『銘柄』だけでモノを判断してしまうことになります。
そういうのを俗に『成金趣味』と言います。
モノが観れるというのは、山あいの小さな無名の陶芸家の工房に入って、その中から優れた作品一つを抜き出せる、そういう眼の事を言うのです。
この間、ある地方の民芸店である有名産地の作品がたくさん並べられていました。
良いのがあったら一つ欲しいな、と想って、ジックリ見たのですが、名前ばかりで作品はさんざん。
この民芸店の人は名前だけで作品を集めてるんだな、と一発で見抜けました。
安価でも良い作品は集められるはずなんです。
もちろん『好み』というのもあります。
『好み』で良いんです。
自分の好みでモノを観て、集められる。
これもアリだと想います。
そもそも、芸術や工芸の評価に中立・公正なんてものはありません。
感性の世界なんですから。
また、自分のモノに対する評価をヨシと出来なければ、自分の感性を世に問う事ももちろんできません。
作品の評価を全くしないで、作家の名前だけをあげつらう人が出来る仕事はせいぜいブローカーです。
では、モノを観る眼はどうやって育てれば良いのか、です。
あなたが作者の誰も知らない、例えば、県展や公募展に行ってみてください。
染織でも陶芸でも絵画や彫刻でもいいのです。
そのジャンルについて何も知らない方が良い。
そこで、作品をジックリジックリ見てみる。
できれば数年、できれば毎年。
誰も知らない、何をどうやって造ったのかも知らない。
作品を観る以外は一切学ばない。
そこで、ハッ!とする瞬間が必ずあるはずです。
そのハッ!を感じた作品が良い作品なんだと考えれば良いのです。
そして、そのハッ!に自信が持てたとき初めて、どうしてハッ!と想ったのかを学べば良いと想います。
ハッ!が無い作品は、たとえ世間がどんなに高評価を与えていようとも、良い作品では無いのです。
また、作品を観た後の『後味』も大事にしてください。
ハッ!と想った作品のうち、その中でまた良い作品は、ずーっと心に残っているものなんです。
世の中には『この人、どんなセンスしてるの?』と想う事があります。
作り手の中にも、どうしようもなくセンスの悪い人もいる。
技術が素晴らしくてもセンスが悪いとどうしようもないのです。
なぜセンスが悪くなるのかと言えば、たいていの場合、おかしなコダワリを持っている場合が多いのです。
でも、コダワリが無いと物づくりはできないのも確かです。
だから、どうしようもないのです。
でも、そのセンスの悪い人の作品を良いと想う人も必ずいるんです。
だから、世の中捨てたもんじゃない。
すべての作品は、作り手は良いと思って造っている。
ですから、一番大事なのは、自分をヨシとすることなんです。
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