『『もずやの芸術論』第7話』2015/9/15

陶芸家を志す者のために

ー芸術における人と作品の関係についてーこの節は、アルフレッド工科大学での講演の内容のようです。
いつものように気になるところについて感想を書いていきますね。
『私のつくります陶器はほとんど、,心の芸として、心の美だけを頼りにし、常に美術眼から見た自然美を親とし、師と仰ぎ、それによって学び、美術価値を至上主義としての陶器をつくりださんとしている』

ポイントは『美術価値を至上主義として』という部分ですね。

作品を造るとき、美術価値を至上主義として、ってどういう意味なんでしょうか。

そもそも美術価値って何?

美術価値・・・?

植物が花をつけるとき、美術価値を意識して花を咲かせるでしょうか。

魯山人が言うままを再現してみると、

『よっしゃ、ここはこうやって、こないして、美術価値を高めたろ』

とか想いながら、造っていると言うことでしょうか。

でも、それじゃ、自然美を親とし師と仰ぐ事とは相反するような気がするのですが。

そもそも、魯山人が造ってるものって、陶器であり、あくまで料理をひきたてる為の『食器』ですよね。

食事の中で、器が大きな役割を果たすことは言うまでもありませんが、それはあくまで脇役としてでしょう。

私の場合着物が本業ですが、主体はあくまで着物をお召しになる人間であって、着物はその方に着て頂いてこそ、着る方に評価されてこそ、値打ちが出るのだろうと想っています。

着物がいくら美しくても、重くて着られないとか、人間が着るにふさわしくない柄であるとかですと、良いキモノとは言えない。

魯山人が言うことから逆算すれば、美術的価値の高い器に合わせて料理を造るということなんでしょうか。

美術価値を至上主義とするというのですから、そうとしか考えられませんよね。

でもですよ、陶器や磁器だけで、食事の器全てが揃うわけではありません。

漆器もあるし、場合によってはガラス器・金属器もある。

その全てに価値があり、かつバランスが取れていなければ、魯山人の言う様なレベルには行かないはずです。

『私はいろんな美しい物を観てきて、センスも抜群だから、器を作らせても最高のモノが出来る』

そう言いたいのでしょうか。

そこにつなげて、こうです。

『陶作にたずさわる人間のごときは、概して程度の低い者でみたされていますから、歴史に遺るような作品はまず当分は望み得べくもありません』

ビックリですよねぇ。

前にも書きましたが、魯山人の作品の多くは、絵付けだけをしたものです。ある時期から自分で土もいじりだしたんですが、それも、他人の道具や環境をそのまま居抜きでつかったものが多いと聞きます。

それなのに、ああそれなのに、それなのに、という感じです。

私の作品は凄いけども、あとは数百年さかのぼって、駄作ばかりで私の作品がダントツだ。

そう言っているのと同じ事です。

考えてみてください。

同時代には,浜田庄司、河井感次郎、富本謙吉などもいるのです。

それを差し置いて、『オレがダントツ』と言う。

すごい神経ですね。ほんとうに恐れ入ります。

分析してみると、彼は彼の美しいと想うモノにしか、美を認めないという事なのです。

ひいては、彼が正しいと思うことしか正しいとは想わない。

正解は私が正しいと思うこと、ただひとつ。

さから次の様な言葉がでてくる。

『すべての陶芸家が土をいじる前に、まず絵画をもって陶器を作る・・・を第一義とし、それが相当成功した上で、土の仕事にかかられても決して遅くない』

すごいですねー

私は陶芸においては土の仕事が最も熟達に時間がかかり、かつ重要だと想いますけどね。

そしてこう締めくくっています。

『下らない人間は下らない仕事をする。・・・人間を造る事はいわば作品の成果を得る基礎工事だと知れ』

外国だと想って、良く言いますよね(^o^)

上の事はそれはその通りだと想うのですが、上等な人間が、下職の陶工をさして『程度の低い者』なんて言うでしょうか。

大阪に『うどんすき』で有名なお店があります。

そこで会合があったときに聞いた話ですが、そこは元々は普通の料理屋だったんだそうです。

ところが、戦中・戦後の食糧難の時代に、なんとか限られた食材で美味しい料理を提供しようとして造ったのが『うどんすき』なんだとか。

しかし、当初は上手くいかず、うまくいなければ売れるわけもなく、毎日毎日、泣きながら出汁を捨てたといいます。

今の美味しいお出汁になるまで、何年かかったかは分かりませんが、プロの料理人がちょっと別の物を極めようとするのにも、こんな努力と辛抱が必要なんですね。

それを良いところ取りしている人間が、一から積み上げてご飯を食べている職工さんに、こんな言葉が言えるとは、私としては開いた口がふさがらない感じがします。

伝統工芸についてはすべてそうです。

先人が積み上げた物があるからこそ、今の自分がある、そう考えるべきです。

私達商人でもそうですよ。

堺の商人、大阪の商人が、営々と築き上げ積み上げてきた伝統があるから、その知恵でどんな困難にも勇気を持って立ち向かえるのです。

私が卒業した中学・高校では高野山に修養行事に行くんです。

そこで毎食前に『一粒の米にも万人の力が加わっております。ありがたく頂きましょう』と唱和するんです。

日本人の心とは、天地、そして、人間の力に感謝をするところから始まると私は考えます。

それを解さずして、いくら美を語ろうとも、それは日本の美にはならない。

魯山人はその部分が決定的に欠落している、と私には思えるのです。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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