『『もずやの芸術論』第4話』2015/9/4

『私の作陶経験は先人をかく観る』その1

この節は長いので区切って書きますね。

ここで書いて居ることは、共感する部分が多いです。

なんでもかんでも、高名な作者が造った陶器を観ると

『結構だ』

『なんとも言えぬ』

で終わってしまっていて、まるで仏様を拝むようにひれ伏している。

それではだめで、どこがどう良いのか具体的に言えなければ鑑賞家とは言えない。

『長次郎でも光悦でもよろしいが、茶碗のかけらでも何でも、持ってみないとわからないものです。それを持たないで、ただ人の声だけで信心するのですからムリな話です。そこで長次郎を見てただ何とも言えぬだけで感心していないで、もっと直視して、長次郎というものはどういうものだ、長次郎のチャンはどこがどういいのかという事を根掘り葉掘り極めていきますと、しまいには長次郎という人間が浮き彫りになってくると想うのです。ただむやみにありがたがらなくて良いと想います。』

『長次郎と話をしようと想うところ無く、いきなり無条件に信心して、善男善女的信仰に陥ってしまってありがたいありがたいの一点張りで長次郎を見ているのでは、長次郎はなかなか友達になって話をしてくれないのです』

私達商人は

『これ良いでしょう?』

『これ、さすがですよね』

とか言うセールストークをよく使います。

魯山人もあとで触れていますが、それが超一流とされている作家のモノだったら、わーほんとだ』と感心してしまうんでしょう。

しかし、そんな商売をしていたのでは、売る事は出来ても物作りは出来ないんです。

何がどう良いのかを具体的に自分で把握していないと、それを作り手に伝える事はできません。

解ってないのに、物作りをしようとすると、それは作り手に模倣を強いる事になるのです。

それも、形だけの模倣です。

魯山人が言うように『作り手と会話する』ための一つの方法として、その作品を模して造ってみるというのもあると想います。

絵画でも、模写するのが一番勉強になるそうです。

私も芸大でやったことあるんですが、画面を細かく区切って、一マス一マス、丹念に真似ていく。

線も描けないし、色も全然でません。

試行錯誤を続けていくと、作り手の狙いや技量の度合いがわかるのだと想います。

もちろん、私はそのレベルには達することはありませんでしたが(^_^;)

陶芸を初めて良かったと思うのは、陶器を見れば『これ、どないして造ったんやろ?』としげしげ見るようになったことです。

作陶している中で持つ疑問や課題が、ある陶器との出会いで解けることがあるのかも知れません。

そういう事を積み重ねて行ってやっと、

『すごい!』

と感じられるんでしょう。

そうじゃなきゃ、美術館のガラスケースの中の作品にしか、感動しないなんて馬鹿げた事になるわけです。

ですから、『自分でやってみる』ということは、難しいし面倒くさいけども、鑑賞家やいわゆる繋ぎ手と言われる人には大事なことなんだろうと想うのです。

『「陶器のことなんて全然わからんね」という人がありますが、陶器だって絵だって同じなのです。陶器が解らなければ絵も解らない。絵が解らなければ陶器を見たってわかりはしない。同じ美の観点から出発していますが、美というものがはっきり掴めていないとその意義がる区別が解らないのです』

これもその通りだと想います。

自分の専門分野ほどは解らないということはあるにしても、『これは良いじゃないか』と感じる心は持てていないといけない、そう思います。

逆に『世間では良いと言われているけど、これ、そんなエエかなぁ?』と想えなければいけません。

『どこが良いの?』とプロに聞いてみて、具体的な良さが説明できないとしたら、それは、でっち上げであることが多いのです。

私達のようなプロは、美しいと心で感じるだけでは不十分で、それを分析して言葉で表現出来なければいけません。

私は陶器や絵画を同じようには出来ませんが、染織品なら、完璧に出来なければならないと想っています。

それがもし、間違っていても良いと想います。

新たな『気づき』によって、だんだんと変わってくるのが自然でしょう。

かつて、ある県展で、『この技法に関して知らないので評価することができない』と堂々と講評に書いた審査員が居ましたが、そんな人は審査員たる資格は無いのです。

プロや、鑑賞家たらんとするひとは、他人がした評価を鵜呑みにしている様ではまったくいけません。

『こんなもん、何がええねん』と言える勇気と見識がなければなりませんし、

逆に、『わー、これ誰が造ったの?すごいええやんか』と、戸板の上で売られているモノから名器を見いだせる様でなければならない。

美は共通である、という面に於いては、茶の湯の世界は総合芸術といわれ、極めるにはほんとうに幅広くそして深い研鑽が必要だろうと想います。

しかし、茶人の中には『着物なんて何でも良い』とおっしゃる方がおられます。

茶道具を引き立てるために華美な着物は避ける。

これは正しい判断なのだろうと想います。

でも、何でも良いと言うのは違うのではないでしょうか。

山上宗二記には茶席においてどんな着物が良いのかも書かれています。

茶事における緻密な作為の中に入る客にも同様の心得が必要であるとすれば、着物もその対象となるべきだと私は思いますが、どうでしょうか。

茶の湯初心者の私がえらそうに解ったような事を書くのはやめますが、茶道をやっていると、本当にいろんな事を考えさせられます。

ただそれは、求める者次第であるのだろう、と想っています。

この節の続きはまた後日・・・

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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