『私の作陶経験は先人をかく観る』その3
その後もなんかつらつら書いてありますが、気になったところをひとつだけ。
『もし長次郎が純金で茶碗をつくっておったら、これはまたすばらしい事にちがいない。これは珍品だということで土よりももっと高いにちがいない。またよさもあるし、金でできておるし、形から味から立派なものができるでしょう。しかし純金ならつぶしたら何にでもなるが、土だと落として粉にしたら三文の値打ちもないし、そんなにないから何百万円もする、こういうことが考えられるのです』
これを読んでどう思われますか?
昔、ある方から、外国の有名な画家が着物を造ってみたいというので、協力してくれないか、との話を頂いた事があります。
私は『それは観賞用に造るのですが、着用する着物として造るのですか?』
と聞きましたら、
『観賞用だ』というのです。
私は観賞用の着物をつくりたいとは想わないので、ご辞退申し上げましたが、
たぶん、高名な画家なら、見て素晴らしい着物は出来たでしょう。
しかし、着るための着物というのは、着るために備えていなければならない条件をふくんでいないとダメなのです。
つまり、絵を描くことと着物の柄を描くことは違う。
絵描きの絵をそのまま着物に持ってきても、着物として良いモノにはならないと私は思います。
それと同じ事ですぐれた陶芸家だからと言って、その人が優れた金属工芸品を造れるとは私には思えないのです。
それはアマゴ釣りの名人がアユを釣るどころの話ではなくて、森に入って鳥を撃つくらいの差があるのではないでしょうか。
漁と猟、似たようにに分類される事でも、道具も違えばフィールドも違う。
もちろん、狙う獲物の性質も違う。
それに、私が気になることは、魯山人が作家ごとに分類して作品を観ていることです。
わかりやすいようにという配慮かも知れませんし、この話を聞いている人達は美術鑑賞家、つまり素人なので、そういう話の仕方しかなかったのかも知れません。
染織に関して言うと、同じ作家でも、秀作もあれば駄作もある。
腕が上がってくることもあれば、逆に落ちていく時もある。
永年作家さんとつきあって、じっくり作品を観ていくと、それが分かります。
あ、この人はちょっと行き詰まってるな、とか
逆に、伸びてきたな、上昇気流に乗ったな、なんて時もあります。
行き詰まっている時に、道を拓く手伝いをするのも私の仕事です。
そういう事なので、作家ごとに分類して作品を十把一絡げに評価するというのは、モノ知らずのブランド好きとしか私にはうつらない。
もしかしたら、長次郎の駄作は利休がその場でたたき割ったかも知れないではないですか!
作り手と真摯に向き合っていると、その作り手の心の動きが作品から読み取れます。
おごりが見えたり、自信のなさがのぞいたり、色々です。
ある意味では、その精神状態を読んでアドバイスするのです。
ある高名な染織家がご自身の個展の作品でミスを連発されるという事件がありました。
その方に聞いた話では、自分ではミスに気づかない事もあるのだそうです。
その方だけでなく、誰でもが知っている様な有名な染織家が、驚くような初歩的ミスを犯すことも少なくないのです。
なぜそういう事が連発するかといえば、そばにいる人がちゃんと見ていないからです。
作品のレベルが落ちてきたり、ミスを連発したり、制作の方向性がおかしくなってくるのは、作り手自身のせいだけではなく、本来必要とされるアドバイザー的な人の力量のなさが原因だと私は考えます。
画家なら画廊、陶芸家なら工芸ギャラリー、染織家なら着物の問屋・・・
この人達はいわばボクシングのセコンドみたいなもんで、勇気づけたり励ましたり、ときには冷静になれと諫めたり。
時にはタオルを投げることもあると想います。
魯山人は、かわいそうですね。
そういう人の存在を知らない。
ちょっと前に『利休にたずねよ』とかいう映画があったそうですね。
私は見ていないのですが、その中に『萬代屋黒』という茶碗が登場します。
利休役の役者がホンモノを持って演技したそうですが、これは萬代屋宗安(私ではなく先代の(^_^;))が長次郎に注文して作らせた物だそうです。
なぜそれが長次郎のところにあって今まで伝わっているかと言えば、宗安が長次郎に何個も造らせて、大名やお金持ちの茶人に売ったんでしょう。
その見本が長次郎の手元にあった、そう考えるのが自然でしょう。
つまり萬代屋宗安は長次郎に何度もこの萬代屋黒の試作をさせているはずです。
その中で一番良いと想ったモノを、『注文あったら、これを見本にして造ってくれ』
そう言ったんでしょう。
それ以外のものはどうしたでしょうか。
たたき割ったんでしょうね。
だから、良い物しか残っていないのです。
もっとも優れた批評家とはユーザーであり、
優れたユーザーなしに、良い作品は絶対に生まれてこないのです。
ユーザーのレベルを超える作品は出てこないと言って良い。
これあかんやんか、
とか
これはええやんか、
とか
ここはもっとこないしてみたらどや、
とか
言いながら良い作品というのは出来てくるんだと想うんですよ。
つまり、実用の為に造られる工芸品というのは、作り手の独りよがりでは良い物にはなり得ないということなんです。
そのへんの事は、魯山人の星ヶ丘茶寮でしたか、の経営を見ていてもうかがい知ることができますね。
実用的工芸品の主役は器物ではなく、あくまでも使う人なのです。
次には新しい節にはいりますね。
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