『『もずやの芸術論』第3話』2015/9/2

『窯を築いて知り得たこと』

この節で魯山人が書いている事を要約してみます。

個人作家の権威ー自作と銘打って出す個人作品の権威について、次の様な条件を備えなければその資格は無い。

1.胎土の仕事から最後の焼き上げを終えて完器となるまでの仕事すべてを自分でなし果たさなければならない。

2.釉薬は自分の調合でなければならない。

3.土もまた、自分で吟味せねばならない。
また、その土は他の土と調合してはならない。

4.窯もまた、伊賀には伊賀、古志野には古志野の昔ながらの形を復元すべく研究せねばならない。

5.名器をみて学ぶ態度を修業の第一とし、自己流の当て寸法は慎まねばならない。

6.作品を最初から売品の目的にしてはならない。

まぁ、よう言うわ!という感じですね。

確かに言ってる事は当たってます。

その通りだと想います。

魯山人が、自分の窯を持っていたのも知ってます。

でも、これ全部を、自分一人でやるとして、どれだけの時間と労力、そして何よりも経験が必要なんでしょうか。

自分が陶芸をやってみて解ったことは、染織と陶芸の仕事の中で大きな違いは、陶芸には『手早さ』が必要である、ということです。

また染織よりも気候変動に左右される要素も大きい。

一つの技法だけをマスターして、それで一流になるのも至難の業なのに、あれこれといろんな技法に手を出して、それを上記の内容に即したものにして、超ハイレベルの作品がつくれるものでしょうか?

民藝運動家の河井寛次郎は釉薬の専門家であったし、浜田庄司は、『六十年+5秒』という言葉を残しています。

『六十年+5秒』というのは、クスリがけを一瞬のうちに済ませてしまう技を『たった5秒の仕事であれだけの作品を』との言葉に、『今目の前でやっている仕事は5秒でも、それには60年の経験と仕事の積み重ねがあるのだ』という意味で言われた言葉です。

工芸とはまさに、永年の経験と修練の積み重ねそのものであって、そこが個性をテーマとした芸術とは根本的に違うところです。

良い絵の具にするには、乳鉢で何万回、何十万回も擦らねばならないのです。

完成された良い道具、良い材料、良い設備があれば、そこそこのモノが出来るでしょう。

なぜなら、仕事がしやすいからです。

しかし、仕事がしやすい形、内容にするのに、どれだけの時間と試行錯誤があったでしょうか。

魯山人の上記の話は分業を否定しているととらえて良いと思いますが、分業すれば自分の作品とは言えないのでしょうか?

そもそも、自分の作品と銘打つ必要があるんでしょうか?

私は自分が不器用なせいもありますが、自分が作った物で、上手でしょ!と他人様にお見せできるようなものは一つとしてありません。

魯山人とは才能が違うといえばその通りなんでしょうが、良いモノを観ていれば、情けなくなるくらい自分の未熟さを感じる、それが自然な姿ではないでしょうか。

例えばです。

良い着物を着ていれば、良い織物が造れるでしょうか?

もしかしたら、造らせることは出来るかも知れません。

また、材料だけを指定して、やり方を決めて、思い通りで染まった糸を機にセットしてもらって、織るだけを自分でするというなら、それは器用な人なら3年くらいで出来るでしょう。

これは自分の作品と言って良い、私はそう思います。

でも、魯山人の決めた条件に合っているでしょうか。

山で蚕を見つけてきて、飼育して、糸をとって・・・

糸をとるには、まずどんな織物にするかが決まっていなければ、出来ません。

ということは、まずどんな織物にするかを決めてから、山に蚕を探しに行かなければなりません。

そして、想う色を出してくれる植物を探しに行く。

それも年中いつでもいいというわけではありません。

これだけで何年かかりますか?

一生のうちに何反できるでしょうか?

その何反かをつくる技術はいつ身につけるのでしょうか。

喜如嘉の芭蕉布でも琉球藍は買った物を使っているのです。

私が思うに、魯山人は物作りの本質を解っていない。

あるいは、解っていながら、眼を背けている。

自分を良く見せるために、真実を欺いている。

真実から眼をそらして、自然と対峙せねばならない工芸に向きあえるはずがないのです。

私としては、全工程を自分でやっているかどうかなど全く関心がありません。

たとえ全てを自分でやっていて、『これが本当の私の作品だ!』とか言われても、

それがどないしたん

でしかないのです。

要は、魯山人は自分の名前で売りたい、自分の世界を演出している事を世に知らしめたい、そういう事なのだろうと想うのです。

私は『もずや更紗』という染色品をプロデュースして造ってもらっています。

これは私の美意識をそのまま盛り込もうとしたものであり、作り手さんも、私の思うままに仕事をしてくれます。

これを全部自分でやるとします。

糸を造る

織る

型を彫る

染料・顔料を造る

糊を調合する

型置きをする

染める

水元

蒸す

・・・

織るまでを自分でやる人は居ますし、型彫り以降の仕事は紅型の人はやっています。

でも、全部を自分でやってる人は知りません。

魯山人の場合、紅型も京友禅も加賀友禅も、全部自分一人の手でやろうとして、全工程を自分でやらなければ自分の作品とは言えない、そう言っているのです。

えーっ!

職人さんからすれば

おちょくってんか!

って感じでしょう。

でもね、ちょこちょこ自分の手を入れるだけなら出来るんですよ。

魯山人の場合、絵は上手でしょうから、あとは土、絵の具、釉薬がよければ、素人を感心させるくらいのモノにはなったんでしょう。

私は、魯山人の作品自体は、良いと想いますし、好きなのもあります。

でも、彼の考え方には違和感を覚えずには居られないのです。

工芸というのは、自然の恵みであり、民族の歴史の積み重ねであり、先人の努力と英知の集積であり、協力者や使用者の知恵の賜物なのです。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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