釣りばっかりしてんと、もっと為になるブログ書け!とのお言葉を頂いたので、また連載始めますね。
元にする本は、
『独歩ー魯山人芸術論集』
平野武 編著 美術出版社
です。
とりあえず、第1話です。
『序にかえて』から
独歩の言葉は鎌倉時代の高僧の墨跡からとったものらしいですが、魯山人は
『小生は一生を通じて世外生活に近いと言って良い程の境涯を独り歩み続けてきた。独歩の二字は私の過去の生活を適切に良い現しているかの感がありすこぶる我意を得たものとして題字に選んだ』
と書いて居ます。
柳宗悦との反目や、星ヶ丘茶寮でのいきさつをみると、なるほどな、という感じがします。
魯山人に関して特に詳しくはないのですが、とてつもなく偏屈なオッサンというイメージがあります。
自分は食い道楽で、この本の中ではその体験史になるだろう。
そう書いています。
その中で、食べ物のおいしさを引き立てるには着物を着せなければならない、着物とはつまり器の事です。
しかし、現代には良い作品が見あたらない。
だから、自分で料理をつくり、器も自分で、となったということなんですね。
『これは理想に近い行動であると信じている』
魯山人の作品を何度か見た事がありますが、なかなか味わい深い感じで、上手につくってあるなぁ・・と関心します。
私も陶芸をかじっていますが、やろうとおもっても、そう簡単に思い通りの形が出来るわけではありません。
『良い物を観てるからできるんだろう』
そう考えがちですが、良いモノを観ている事は必要かもしれませんが、十分条件にはなりませんね。
そもそも、手が動かない。
自分の思い通りに動かないんです。
私はまだ初心者で全然わからないのですが、土、絵の具、釉薬の組み合わせを習得するだけでも、かなりの年月と修練が必要だろうと想います。
それをあの年齢から、あのレベルの作品が造れるようになるには、器用さも必要でしょうし、一種の天才なんでしょうね。
陶芸には手早さも必要なので、そう簡単じゃないです。
『ほんまに自分でやったんかいな?』
ちょっと疑わしく想えるくらいです。
たぶん、料理も器も出来る限りの贅を尽くしてやったんでしょうから、さぞ素晴らしい物だったんだろうと想います。
しかし、芸術家肌の弱みは採算を度外視してしまいがちなことです。
結局彼の横暴さと浪費が原因で星ヶ丘茶寮から追放されたということです。
料理を造る人が器も作る。
自分の料理を引き立てるに最高の器を選ぶ。
しかし、それが無い場合は自分で造るしか方法がないのかもしれません。
それはよくわかりますね。
でもですよ、様々な技法と素材がある陶芸の世界で、これも多種多様な料理に合う器が自分一人の力でできるもんでしょうか。
それが、ずーっと疑問でしたし、陶芸を習い始めてから特にそう思う様になりました。
調べていたら、ちょうど京都国立近代美術館で魯山人の展示会が開催されて居るみたいです。(〜8/16)
魯山人の本を少しだけ読んだ事がありますが、食べ物に関してもかなり決めつけと偏見の強い人だなぁと感じましたし、たぶん、陶芸に関しても同じような事だったんじゃないかと想うんですよ。
それだけ自分の世界が確立していて、自信があってこその事でしょうし、その裏返しとして偏屈でもあったんでしょうね。
自分の世界に強烈な自信がある・・この事こそ天才の天才たる所以なのかもしれません。
第1話はこんな感じで。
魯山人はズバズバと強烈に書いていると想うので、私はユルユル書き連ねていきたいと想っています。
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