『私の作陶経験は先人をかく観る』その2
続きです。
魯山人はここで長次郎と利休の事について触れています。
『長次郎を利休が指導して立派な茶碗が生まれたというが、そんなことはない』
何度も繰り返し書いています。
その理由として、
1.指導によって、そんなに力量が変わるはずはない。
2.利休の書や茶杓を見ても、良いとは想わない。
1に関してですが、
『じゃ、あんた、お料理も全部自分の手で材料を吟味して、料理もしたのか?』
私はそう聞きたいのです。
茶道の事については私は初心者ですし、修行中の身で、あんまり書きたくないんですが、
今現在想ったり感じていたりすることを書きますね。
そもそも、茶道具というのは、茶道において使いやすいものが良い道具なのではないでしょうか。
当初は唐物や朝鮮の飯茶碗などを使っていたのでしょうが、『わび茶』と言う世界で、使いやすい物、点前において良いものを茶人そのものが考えて造りたいと想った。
それを陶工に造ってもらって、よい『道具』が出来た。
一人の竹工芸の名人がいたとしましょう。
その名人はすばらしい竹細工を造っていた。
そこに、釣り師が現れて、その作品と技量を見て、竹竿を造ってもらいたいと想った。
しかし、名人は釣りを知らない。
竹竿として必要とされる要素も解らない。
もし、釣りをしたことがあったとしても、その釣り師の求める水準が高ければ、その釣り師の指導・要求に従うより無い。
そして、その竹名人と釣り師のいわば合作によって、『素晴らしい竹竿』『すごい釣り道具』が出来上がるのではないでしょうか。
先日のお稽古で宗匠に教えて頂いた事があります。
点前が終わって、棗と茶杓を飾るときの事です。
宗匠は、棗・茶杓と私との距離について、教えてくださいました。
私は身体が大きいので、その距離が大きい方が良いのだそうです。
考えてみればそうですね。
私の膝前すぐに、棗・茶杓があると、道具は小さく見えるし、お客から見ても圧迫感があるはずです。
そんな事から考えても、茶人の体格などによっても使うべき道具やしつらえも違うのだろうと思えるのです。
茶には茶に、大男には大男に、良い道具というのがあるはずで、そこには使う人の要望・理想とする形があるはずなのです。
要は、利休は長次郎に対して自分の欲しいと想う茶碗を焼いてくれる人として認識していたということだろうと思うのです。
私が染織品を造ろうとするときも同じです。
自分の頭の中にあるものを、形にしてくれる人を捜すのです。
そもそも、魯山人が作陶をしようと想ったのもそこからではなかったのでしょうか。
それが出来なかったのは、作り手に力が無いのではなくて、魯山人に指導力が無かったか、人望がなかったか、あるいは、彼の美意識が実は研ぎ澄まされ整理されたものではなかったか、のどれかだろうと私は思います。
2の話ですが、ちょっとどうなんだろう・・って想ってしまいます。
実は私、利休の物なんていうのは、ハナから信用していません。
その話は置いておくとして、一番気になるのは、その茶杓が見てどうなのか、と言うことよりも、使ったみてどうだったのか、に全く触れていないことです。
お茶の稽古の時、宗匠が二つの茶杓を見せてくださった事がありました。
見た目でもその二つの茶杓のレベルは歴然でしたが、手に持ってみるとその何十倍、何百倍も違いが解るんです。
圧倒的に違う。
見た目はそれなりに出来ても、手に持ったときの感触は、これは鍛え上げられた感性がないと表現できないものです。
私なども、反物を見るとき、色柄だけでなく、じっくりハンドリングをします。
眼を閉じて、じっくりじっくり味わう。
心がザワザワするのはダメです。
持つと心が落ち着いて、しっとりした気分になるのが良いモノです。
スピリチュアルな話みたいですが、事実そうなのです。
そして、ここの区切りの最後の方で魯山人はこう書いています。
『先ず、名碗と言われているところの茶碗で、かれこれした席に入れて、感動に価する掛け物を掛けてくれて、良い名釜がかかっておって、炉ふちもなかなかのものだという事になってくると、茶道の功徳も分かってくるというものでしょう』
まさに俗物!
私にはそうとしか思えません。
私はよく、
『どんなお酒が好きですか』
と問われます。
『一に日本酒、二に泡盛、三にウィスキィ。でも一番大事なのは誰とどんなお話をして飲むかだと思ってます。』
魯山人の焼いた徳利とぐい飲みで十四代を一人酒。
そんな酒、美味しいでしょうか?
魯山人はまさにジョルジュ・ムスタキの世界。
『私の孤独』
孤独と二人なのです。
たとえ、ワンカップ大関でも、懐かしい友と酌み交わす酒。
コレの方がよっぽど美味しい。
魯山人は、民藝論を批判して柳宗悦と大論争をしていたようですが、どちらも同じ穴の狢です。
そこに、人間がいない。
酒を飲むのも、茶を飲むのも、茶を点てるのも、ご飯を食べるのも、すべて人間。
主役は器物でも、料理でもなく、人間であり、その心であるはずです。
利休の同時代に、『へちかん』という茶人がいたそうです。
その人は、あばら家に住み、飯や汁を煮る鍋で湯を沸かし茶を点てたそうです。
それでも、利休は彼と深い親交を持っていたし、彼を師とも仰いでいました。
へちかんが落とし穴を掘って利休を落とした逸話は有名ですね。
最後まで読んでみないと分からないのですが、いまのところ魯山人が『もてなし』に付いて書いた話を読んだことがありません。
『茶道の功徳』って何でしょう?
私はこう思うのです。
茶室では誰しもが平等で、俗世間の事から離れ、談笑し、ゆっくりと幸せな時間を過ごすこと。
利休が目指した『町人茶』の世界は、まさにこういう事だったのではないかと私は思っています。
あの茶室は何故造られたのかです。
当時堺で活躍した商人は、そこで生まれ育った人ばかりではありませんでした。
堺は東部の今で言う百舌鳥地区が元々の中心部であり、後に栄える港湾部は、塩田と漁業が中心の荒れ地だったんです。
そこに経済的利益を求めて、各地から商人が集まってきました。
緑豊かな所から、潮で草木の生えない堺にやってきた。
緑が無ければ、心の安らぎが無いのは、現代に生きる私達とて同じです。
堺に来て、昔の灯台の位置を確認してみてください。
あの茶室はそういう安らぎを求める心から生まれたものだと私は思っています。
利休は自分の好みや使いやすさで道具を発注し造っただけのことでしょう。
ちょっと話が長くなりそうなので、また今度・・・
この節はまだまだ続きます。
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