第9章取引関係の理解

9−1 取引関係の構造

 ここでは『取引』ということについて書かれています。

取引というのは個人、あるいは企業が何らかの利益目的で商品・サービスやお金をやりとりすることです。

一般的には、生産者と業者、業者と消費者という場面が考えられますが、実際には生産現場でも取引が行われています。

織をやる人は、糸屋や糸を造ってくれる人から糸を買い、染をする人は生地屋や生地を織ってくれる人から生地を買う。工房主は織子や染子、あるいは工房外の外注にお金を払う。

その形態は造っている品物や商習慣によって違うと思います。作り手の思い入れによっても違うでしょう。

取引というのは利害関係の上に成り立つ訳ですから、対価を前提としない場合には取引とは言わないとも言えます。糸や生地をもらったり、造った品物を自分の工房に陳列するだけなら、取引は発生しません。

取引というとなにかえげつない感じがしますが、販売=実用を前提とする伝統工芸の世界での取引というのは『感謝の連鎖』であると考えればいいと思います。

芭蕉布なら、糸芭蕉を苗つけする。糸が取れるようになるまで長い歳月が必要です。害虫を駆除したり、肥料をやったり、枝葉を整えたり・・・そして灼熱の太陽が照りつける日も、寒い北風が肌を刺すときもそれが続けられて、糸芭蕉は育ちます。そして、やっと、糸が取れるくらいにまで成長する。その時に育てた人は自然の恵みや共に作業をしてくれた人に感謝することでしょう。そしてブーウミ。糸を造る作業も様々な工程を通ります。糸をつなぐ工程では外注にも出される。しっかりつながれた糸を受け取った織り手は、素晴らしいできばえに感謝することでしょう。良い糸ならば降りやすいし、作業もスムーズだからです。芭蕉布は幅出しや丈出しの為に布を強く引っ張るので糸がきちんとつなげていないと抜けてしまいます。織をする前に絣も括ります。絣がきちんと正確に括れていないと、手結いの絣はキレイに出ません。寸分の狂いのない絣くくりがされて居てこそ、美しい躍動感ある手結いの絣は生まれるのです。ですから織り手は、糸芭蕉を育ててくれた人、糸を造ってくれた人、絣を括ってくれた人、そして染色をしてくれた人に感謝して織を進める事でしょう。

芭蕉布に染めるときは、染める人の手に無地の芭蕉布が手渡されます。芭蕉布に染められた琉球びんがたは、これ以上ないほど美しい。やはりびんがたを最高に演出するのは美しい芭蕉布の生地であろうと思います。

芭蕉の生成りの色、美しい表面、キレイに揃った布目・・・染める人は芭蕉布を目の前にして、最高の作品に仕上げようと決意するはずです。そして、その芭蕉布を造ってくれた多くの人に感謝するはずです。

そして、精密に力強く彫られた型が置かれ、糊が置かれる。そして彩色。また糊伏せ。最後には水元で糊が落とされ、美しいびんがた染が姿を現します。

その作品を前にして、染め手はきっと感動し、芭蕉布を造ってくれた人達に改めて感謝することでしょう。

織の場合も同じです。キレイに出来上がった織物も染め物も、そういう『感謝の連鎖』が積み重なって出来上がっていくのです。

そして、作品が出来上がった後も、感謝の連鎖は続きます。

私達商人は、美しい作品を見て、精魂込めて造ってくれた作り手と、沖縄の自然に感謝します。そして、その作品の素晴らしさをきちんと消費者に伝えようと決意するのです。

そして、商人は、消費者の方々に、どうしてこんなに美しい布が生まれるのか、渾身の説明をします。時には、沖縄の自然を、時には、歴史を語りながら、その美しい布が生まれてきた背景を説明するのです。

そして、消費者の方に買って頂く。

消費者の方は、作り手から、商人まですべての芭蕉布に関わった者たちに感謝の笑顔を必ずくださいます。満足して、満面の笑みを浮かべて、芭蕉布を手にとってくださるのです。

そして、私達商人は、そのお気持ちにお応えして、精一杯の笑顔と、お礼を申し上げます。そして、責任をもって、仕立て、着用頂くのです。

着用してご満足頂ければ、また、感謝の言葉を頂けます。

そのお客様の満足をまた、作り手に伝える。

良い品物をつくり、お客様にご満足いただけた品物は、さらに何度も感謝の輪を広げていくのです。

お客様は、良い品物を持ってきてくれたと感謝され、商人は、よい作品を造ってくれたと感謝し、染め手はよい生地を造ってくれたと感謝し、織り手は糸を造る人に感謝する。

そして、糸を造る人はよい織物にしてくれたと感謝し、織り手は良い染めをしてくれたと感謝する・・・・・

分業、協業、取引というのはそういう事なのです。

感謝の輪で手をつなぐ、すべての人が、それぞれ責任をもって自分の仕事を全うする。そこに感謝が生まれグルグルグルグル永遠に回り続けるのです。

感謝の印として金銭がある、それだけの話です。

金が絡むから、作品でなくて商品だから、と実用品=商業工芸を見下す人が居ます。

全く間違っています。

お金=感謝が形になったもの、と考えるべきなのです。

染め物は織物から、織物は糸から、糸は自然から、それぞれ生まれ、それが無くては出来はしません。

染め手が織り手に感謝せず、織り手が糸づくりに感謝せず、商人が生産者に感謝しなければ、よい品物は出来るわけが無いのです。

その感謝一つ一つに、お礼としてお金がついてくる。

ですから価格というのはその感謝の集積なのです。

そう考えれば、取引などというものを理屈をこねて考える必要など無いのです。

『自然』と『人』にあり得べき当然の感謝をすれば、取引関係というものは無理なく形成されていくはずです。

感謝の無いところに、よい取引など決して出来ません。

伝統染織というのは、古くからある仕事です。農業や漁業と同じ。

みんなが力を合わせて、感謝と喜びを分かち合って作り上げていく物です。

それ以上の取引の形など、ありはしない、私はそう思います。

9−2 統合か取引か

ここでは、『仕事』を自分でやるか、外注に出すかの選択の問題が書かれています。一貫して経済原則というものに則った形です。

ここで少し考えて欲しいのです。

仕事というのは効率だけで前に進むものでしょうか。

外注に出すとなれば、受ける側は仕事が増えるのですが、その分、仕入れも人員も場合によっては増やさなければならない。もしかしたら、それまでその会社が取引していた得意先にも影響がでるかもしれない。

そんな風に、仕事というのは自分だけでなく、社会全体と繋がっているのです。

自社内で完結させるにしても、あらたに社員を雇わねばならなかったり、しなれた仕事を離れなければならない人を生み出すことになる。

つまり、個人も会社も社会的存在であって、すべてはそのつながりの中で生きているし仕事をしている、ということを忘れないで欲しいと思うのです。

もちろん、仕事はお金を稼ぐためにやるのです。

しかし、それは様々な人、多くの人が一緒になってやるから生まれて来る利益なのです。

当然、そこには一定のルールがあります。

自分勝手な利益追求は認められない場合もあるのです。

わかりやすく例を引きましょうか。

ある織物作家Aが独立して工房を構えた。若いし、技術も稚拙でどこの問屋も相手にしない。そこにAの才能を見いだした商人Bが現れ、Aの作品をぼちぼちですが仕入れした。十年後、Aは工芸界でも認められる存在になり、Bが仕入れた作品も順調に売れ出した。雑誌などにも載り、名前も知られ出した。そんな所に、小売店Cから連絡があり、直接取引がしたい、あるいは、自分の取引している問屋Dを通して作品が欲しいという話が来た。Aは今までの苦労が報われた、と想い取引に応じた・・・

良くある話です。

これは、このマーケティングの話題で言えば、Aが作家として前に出た=問屋を飛ばした=垂直統合という事になります。

もちろん、Bを飛ばして売れば高く売れるでしょうし、問屋Dを通しても販路は広がります。

仕事を経済性という面から考えると、当然の選択とも言えます。

でも、それで十分でしょうか。

仕事というのは1人、あるいは一社で続けられる物ではありません。

必ず協力者、支援者があって成り立つ物です。

Aの場合、駆け出しの時代に支えてくれたBがいなければ仕事を諦めなければ成らなかったかも知れません。

古くさい様ですが、Bへの配慮があってしかるべきなのです。

私も、作家さんと新しくおつきあいを始めるときにそんな話を作家さんから聞かされる事があります。私はその作家さんに敬意を払うと同時に信頼を置きます。そして、自分の立ち位置をわきまえながら、その作家さんとのおつきあいを始めます。

このBの場合は、様々な努力をしながらAの作品を市場に押し出してきたはずです。Aの作品がBの力を借りなくても一人歩きしだしたとしたら、逆にBへの配慮を欠かさないようにする、それが作家と商人との信頼関係です。

作家の旬は短い。

飽きられたら捨てられます。

値段も下がる。

そのときに、利のために義理を曲げた行為をした人は、誰からも相手にされなくなります。

商売人はそれほど馬鹿じゃない。

仕事だけでなく、人間関係というのは長い線で繋がっているのです。

点でとらえてはいけません。

目先の利益のために、せっかく続けてきた仕事をもしかしたら捨てなければならない事になります。

それまで、高値で買い支えてきた問屋がいるのに、金に困ったからと言って、他の業者に安く叩き売ってしまうというのもそうです。

じゃ、いままで、作家さんを支えてきた商人の努力はどうなるのでしょうか。

なんども言いますが、作品は機からおろされて、洗濯が住んだら完成するのじゃない。着物や帯に仕立てられて着用されて初めて完成するのです。

そのためには、流通業者の手を借りなければならない。もっと川上もそう。糸や染料がなければ、織機がなければ、織物は作れない。

作家も商人も現在にとらわれてはいけない。未来と過去に想いをいたし、長い線の上で自分の仕事を考えることがとても大切な事なのです。

作るより買った方が安い。どこからもらってもお金はお金。

そうかもしれません。

でも、それだけでいいのでしょうか。

今いる、周りの人。

長い歴史の中で織り続けてきた先祖。

そして、その織物の将来を担う未来の人たち。

それを考え合わせて、さまざまな事と適切に折り合いをつけていく。

これが伝統工芸のあるべき姿なのではないでしょうか。

私は、民芸運動家のように作り手に過酷な要求はしません。

仕事は、お金が入らないと続けられない。

糸が買えなければ織物はできないのです。

ですから、永く、末永く、お金が入る様に考えましょう。

あなただけでなく、あなたの周りの人、あなたを支えてくれる人、みんなが一つの仕事で豊かになれるように考えてみましょう。

協業というのはそういうものじゃないでしょうか。

仕事をしていれば良いときも悪いときもあります。

そんなときに、本当に支えてくれる人が仲間です。

本当の民芸というのはそういう仲間の中から生まれるのではないでしょうか。

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投稿者: mozuya

萬代商事株式会社 代表取締役 もずや民藝館館長 文化経営研究所主宰 芭蕉庵主宰  茶人