第8章 競争構造の理解

8−1 競争の場の枠組み

ようやく8章まできましたね。

これで半分くらい終わりました。

この章では『競争』についてお話しします。

まず、競争を考える上では『誰を競争相手とするか』を考えなければなりません。

沖縄染織の競争相手は誰か。

さらに、それを考える為には、何を取り合って競争するのか、です。

お金はもちろんですが、そのお金の出所である、消費者を取り合っていると考えるべきですね。

取り合っている消費者=ターゲットということになります。

このターゲットというのをどう設定するか、が問題です。

着物を買う人でしょうか。

合っていますが、正解ではありません。

沖縄の染織を買う人というのは、どういう人なのか。

それが解っていないと、どうしようもありませんね。

沖縄染織とうのは基本的に価格的には中の上から、上の下にランクされます。

宮古上布や芭蕉布などの特殊な物をのぞいて、だいたい10万台から100万円くらいに分布していると考えていいでしょう。

そこに着物の場合は仕立代・裏地代が入る訳ですから、プラス7〜8万円かかります。

つまり20万円以上の物を買える人、ということになります。

最近、流行っているリサイクル着物やポリエステルの着物をもっぱら購入し着用している人は、いくら着物が好きで、着物を日常的に着ていても、ターゲットにはならないと思わなければなりません。

さらに、着物と言ってもいろいろで、結婚式に着る着物から、ゆかたまであります。

沖縄染織は基本的にはカジュアルです。

カジュアルの着物というのは、着て楽しむ趣味の着物ですから、『自分で着れる人』と考え得た方が良い。

そして、カジュアルの着物は、普段から着られるますが、その反面、着る場所を特定出来ない。結婚式やパーティなどに気合いを入れて着飾るために着る着物ではないということです。

ですから、着物を着る機会をある程度の頻度で持って居る、あるいは自分で作れる人ということです。

こうやって考えていくと、絞られてくるでしょう?

そこそこお金があって、自分で着物が着れて、着る機会がたくさんある人、ということになります。

さらに、本当に良い作品の価値を認めて買っていたたける方は『審美眼』『鑑識眼』を持っていらっしゃいます。それらを持つには、ある程度の『修練』『積み重ね』が必要です。

どんな人が思い浮かびますか?

ちょっと、みなさんで考えてみてください。

抽象的に言えば、いわゆる『趣味人』ですね。

ヒントとしてあげるなら、茶道や舞踊を習っている人はこの範疇にはいります。

お金もあり、自分で着物が着られて、着る機会がある。そして何より鑑識眼・審美眼があるのがこの趣味人に共通する事です。

カジュアルの着物なのに、お茶席とかで着れるの?という質問があると思います。

もちろん、お茶席・お茶会で使える物と使えない物があります。

しかし、この趣味人は、なにより鑑識眼・審美眼とともに財力がある人が多い。

いくら着物が好きでも、この二つが揃わないと良い買い物はできません。

作り手は、『物の解る人』を対象に作品作りをしなければ、よい仕事はできないと思います。

物の解らない人が解らないままに買う事を期待せず、解る人に納得して買っていただけるような作品を造る。そして私達商人もそれをお手伝いする。それがあるべき姿でしょう。

話は元にもどって、その人達を誰と取り合うのか、です。

結城・大島・塩澤・越後の織物産地、京都・加賀・江戸の染め物産地。

カジュアルの着物といっても各産地で多くのものが造られています。

そして、私達が現実に出くわすのは、茶人なら茶道具や茶会、舞踊家なら発表会という桁違いのお金が出ていく機会があることです。

そして、女性の場合、とくに趣味人の場合、多種多様な趣味をもたれています。

そのすべてが競争相手です。

現実には『縁』に頼るしかないのですが、それをもっと確実な物へと近づけるには、『図抜けた魅力』『他に類を見ない特殊性』が必要なのです。

私が小売屋なら、『もずやの顔を見たら買わざるを得ない』という具合に持って行きたいところですが、問屋なのでそこまでお客様との交流を深めることは難しい。

ですから、『とてつもない作品』が必要なのです。

そこいらのどこの小売店・問屋でも持って居る着物なら、勝負にならないのです。

話がまた、今日の台風の様に大きくそれましたが(^_^;)、言いたいことは、『他の着物』『他の産地』『他の作家』だけが競争相手ではない、と言うことです。

競争に勝つためには何が必要か。

この趣味人の方々をうならせ、どうしても欲しい!と思わせる作品の魅力なのです。

みなさんも、自分で競争相手を設定してみて、その相手に勝つためにどうしたらいいのかをじっくり考えて見てください。

8−4 業績の違いを生み出す移動障壁

 ここでは、ちょっと面白い考察をしてみましょう。

沖縄県本島にある三つの産地の事です。

三つの産地とは、読谷、首里、南風原の絹織物産地です。

読谷には『読谷山花織、』首里は『本場首里の織物』、南風原は『琉球かすり』といういわばブランドがありますね。

読谷は昔、貿易港として栄え、首里以外では唯一花織の着用を許された土地であるということです。ですから、読谷の伝統的織物というのは、あの『読谷山花織』だけです。

首里は王府の中にデザインルームとも言うべきものが存在し、そこから御絵図帳がつくられ、各地にデザインが流布された、ということです。そういう理由なのか、首里には花織、ロートン織、花倉織、手縞、縞ぬ中、諸取切、煮綛芭蕉、ミンサー、そして桐板と様々な素材、技法がそろっています。また、王府があったせいか、大和やチャイナから様々な文化が入ってきたせいか、デザイン的にも非常に洗練されている印象を受けます。

南風原は、本で読んだ話では元々は米軍のパラシュートをほどいてマメ袋を織ったところから始まり、首里に近いこともあって、首里の織物を手本にして、安い織物を大量生産した、という産地です。ここでのメインはいわゆる琉球かすりですね。俗に言う絵がすりの技法で大量に生産されて、『かすりの里』宣言をしました。

この三つの産地を比べてみると、ここの章のテーマがわかるかもしれません。

戦前は、南風原は織物産地ではなかった。大きくなったのは、たぶん、大城廣四郎さん、大城清助さん、カメさんくらいからなのでしょうか。

読谷にはわかりやすく言えば裏にいっぱい糸が通った花織しかなかった。それも、与那嶺貞さんが再興するまでは完全に途絶えていたのです。

ちょっと前に南風原と読谷の間に『花織論争』というのがあったように記憶しています。昔は南風原の花織は『琉球花織』と表示されていました。そこに、読谷がクレームをつけたんでしょうか。前述のように、南風原は織物産地としての歴史は浅いのですが、読谷山花織を再興した与那嶺貞さんが南風原に花織を習いに来たという証拠があったりして、結局は痛み分けのような形で『南風原花織』『読谷山花織』と分けて表示するようになったとか。

首里にはあらゆる技法がありましたし、いまも受け継がれています。ただ、技法は首里だけに伝えられていて、生産量も非常に限られたものでした。弊社が沖縄に行き始めたときは、首里の織り手といえば、大城志津子さん、宮平初子さん、漢那ツルさんなど、ほんとうに一握りの人で、生産量はといえば南風原が圧倒的だったのです。

ところが数度の沖縄ブームにも乗って、産地の様子は変わってきました。首里はアイテムが多いこともあって、量は増えたものの造っているものはそのままです。しかし読谷は手花と絣の帯を造り出しました。そして、いまは、花絽織という花織と絽織を併用した着尺を造り始めていると聞きます。南風原は絣はもちろん、花織、ロートン織、花絽織など織っていて、いわば、高級品の首里に対して、低価格品の南風原という構図になっていました。

そして、アイテムだけを見ると、首里、読谷、南風原に差がどんどん無くなってきているのです。

花織、花倉織≒花絽織、ロートン織はどこでも造っている。おまけに久米島や与那国まで造り出した。久米島は夏久米島やいままでと違った廉価な絣をつくりはじめて、南風原の領域に踏み込もうとしているとも聞きます。

これは県内カニバリゼーション=共食いです。アイテムがふえれば、当然、それぞれ一定以上のロットが必要なわけですから生産量は増えます。しかし、需要は一定どころか逓減して行っています。どういう結果を招くかといえば、県の出荷量は一時的にあがるが、市場では滞留して、価格破壊・市場崩壊が起こるのです。

花織    首里 1  南風原 1  読谷 1

花倉織   首里 2  南風原 0  読谷 0

ロートン織 首里 1  南風原 0  読谷 0

絣     首里 1  南風原 5  読谷 0

が従来だとすれば、

花織    首里 1  南風原 2  読谷 2

花倉織   首里 2  南風原 4  読谷 2

ロートン織 首里 1  南風原 2  読谷 2

絣     首里 1  南風原 5  読谷 0

となれば増産となりますが、市場はどうですか?

花織ならば昔は1/3ずつ分け合っていたのに、1/5、2/5、2/5。

ほかも、全部分散します。これが市場が拡大している状況なら良いのですが、市場は縮小して行っています。これは首里が割を食っているとか競争に負けているという事ではなくて、全部の共倒れを招くということなのです。

南風原の絣を見てみると、前は5/12、下では5/24になっています。ところが市場全体のパイは確実に小さくなっている。ということは市場の縮小分だけさらに消費者ベースでの売り上げは減るということです。

そして、アイテムが増えれば増えるだけ死に筋=売れ残りも増えるのです。

なぜ、こういう事、つまり、総合産地化しているのかといえば、既存のアイテムが行き詰まっているという意識があることと、伝統的に技法を継承している首里の価格が高止まりしていて、他産地がその下をくぐっているということです。問屋が高い首里織を仕入れせずに、同じようなものを他産地で造らせているのです。

これは、果たして産地のために良いことでしょうか。将来的にもし、首里と南風原と読谷に差がなくなったとして、それが沖縄染織によい影響をもたらすでしょうか。私にはそうは思えません。

教科書で書かれている参入障壁、染織の場合は技法ということになりますが、それが低いために染織品・繊維製品の模倣は起こりやすい。これは着物、絹に限ったことではありません。毛織物にしても、かつて一世を風靡した英国の毛織物を日本が模倣して廉価な毛織物を作って繁栄したこともありました。その歴史はずっと続いています。

しかし、それは産地が移動すると言うことに繋がります。人件費の安い所に産地は移動するからそれでも繊維産業は世界のどこかで繁栄している。しかし、伝統染織での模倣が低価格化をもたらせば、それはすなわち低賃金につながり、かならず産地は崩壊します。そして、それを担うべき他産地はありません。

ですから伝統染織をはじめとする伝統工芸では、価格維持のために需給ギャップの調整というのが不可欠なのです。産地が移動すれば伝統工芸は崩壊した、ということなのです。

ではどうすればいいのでしょうか。

首里は首里、読谷は読谷、南風原は南風原、それぞれの産地が足下を見つめ直して、自分の一番強い部分に特化する事です。

たとえば首里は華やかな文化を感じさせるハイセンスな織物、読谷は民族的な海と土の香りのする力強い織物、南風原はそれをフォローする低価格産地。棲み分けをきちんとすればそれぞれの特長も際立ち、県内染織品全体の売れ残りも減ります。いまはとにかく市場に滞留する商品を一日も早く片付けることです。そうでないと産地の未来はありません。

だからといって、生産を止めるわけにはいかない。いままでと違うものを造りたいという気持ちや想いは解ります。しかし、それでは共倒れになります。

幸い、沖縄の織物は個人工房内で完結できるものも数多くあります。その場合、技術の継承に必要なのは多大な需要ではありません。需要に対して適正な供給を続ければ、仕事は必ず適正量残ります。それをきっちりと残していけばいい。数の拡大よりも質の維持、そしてなにより大切なのは、産地の将来まで見渡す志と使命感なのだと私は思います。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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