もずやと学ぶ『芸術と経済のジレンマ』第6話

しばらくサボっていましたが、またはじめますね(^^;)

第5章 実演家、作曲家、劇作家および振付師

この章の冒頭にはこう書かれています。

『仕事がうまく行った時の個人的な満足感こそ、経済的にほとんど恵まれない職業で得られる最高の報酬です。私は音楽家になってよかったと思います・・・自分の子供たちが音楽家になりたいといえば、それでいいでしょう・・・しかし、娘には音楽家と結婚してもらいたくはないのです(あるオーケストラ団員の意見)』

労働省の職業案内にはこう書かれているそうです。

『結婚したり、家族を養っていくために十分な生活費を得るためには、2つ3つ、あるいは4つの仕事の兼業も辞さないと決心し、それに必要な能力もそなえている・・・というのでない限りは職業として音楽を選択すべきでない』

また、ニューヨーク・シェークスピア・フェスティバルのプロデューサー、ジョセフ・パップは『銀行や家主は、俳優は生計を立てるためのはっきりした手段のない、信用上危険率の高い存在と見なしている』

各々の職業について分析したあと、この章の最後ではこうまとめています。

『多くの面で、実演家の労働条件は、一応まずまずといった水準をはるかに下回っている。エネルギーを消耗させる巡業、職業上の支出の高さ、頻繁に起こる失業とそれに伴う不安定さ、少ない有給休暇、しばしば見られる退職金制度の欠如。結局、万が一私たちがそこに飛び込んだら、ほとんどの人にとってそれは悪夢の世界と映じるだろう』

『芸術家が現存の芸術に対して果たす貢献と引き替えに、社会が差し出してきた補償は、十分に寛大だったとは言い難いのである。どんなに金がかかっても上演したいという実演家の気持ちに、私たちは平然と寄りかかってきたのである』

この本の著者は『芸術は豊かな社会を実現する上で、必要不可欠なものである』という事を前提としています。

不必要なモノなら、どんなに頑張っていようが、それはタダの酔狂かもの好きでしょう。

でも、必要だと思うから、『平然と寄りかかってきた』とある意味で私たちを糾弾しているのです。

では、『芸術とは何か』

それは『強く魂を揺り動かすなにか』なのだと私は思います。

見た、聞いた、触った、その時に、なにか心の奥底にズシリと感じるものがあった。

それが何かは解らない、でも、まるで種を植え付けられた畑の様に、その魂の動きから、自分の中に芽生えを感じる。

芸術とはそういうものなんじゃないかと思うんです。

ただキレイとか、細かいとか、上手いとか、面白いとかいうのとちがう。

洗い流すものではなくて、植え付けるモノ、それが芸術じゃないでしょうか。

技を磨くといいいますよね。

磨くととんがってきます。

滑りも良くなる。

だから、グサッと来るんです。

私は、芸術の価値は大衆に受け入れられるかどうかで判断するべきではないと思います。

堺には世界一の包丁があります。堺・打ち刃物といいます。

日本で、そして世界で一流の料理人が使っています。

でも、この包丁を素人が使いこなせるかというと、そうではないだろうと思います。

もし、不況で包丁づくりの名人が窮乏することになったとして、その技の価値が落ちるでしょうか。

そんな事はありません。技にはそれ自体に価値があるのです。

そして、包丁作りの職人は何を目指すのか?

素人ではなく、一流の料理人に使ってもらえるような包丁をつくるように精進するでしょう。

高価な素人が使えないような包丁を作っている職人の仕事に価値がないでしょうか?

無いというのはすべてを金に換算する商人の世界の話で、技の世界、芸の世界は違うはずです。

私は商人であることに誇りを持っていますが、世の中のすべての人、とくに為政者が商人的感覚を持ちすぎるのはいかがなものか、と思います。

お金に換算されない、大切な価値のあるものはたくさんあるのです。

この章を読んでいると、身につまされます。

私も同じように巡業生活をしているからです。

お金にならない仕事でも、必ずお金は出ていきます。

動けばお金がかかる。

もちろん、精神的、肉体的負担も大きい。やった人でないと解りません。

実演者は、演技をしている以外にも何時間も稽古を積み、打ち合わせをしています。その仕事もいつも安定してあるわけではない。

彼らが巡業と共に持ってまわる芸術は、その種を世界にまくことになるのです。

彼らの音楽を聴いた若者は、クラッシックの世界に入るかもしれないし、新たな音楽を生み出すかも知れない。

音楽から発想が湧いて、絵を描く人もいるかもしれない。

そして、人々の価値観や生活観を変えるかもしれない。

彼らは使命感や達成感でやっているのでしょうが、こんなに社会に貢献している人達が、苦しい思いをしているのを私たちは見て観ぬふりをし、放置して良いモノか。

『よりかかっていていいのか?』と著者は問うているのです。

昨日の産経新聞に『芸術の支え 最後は市民』というコラムがありました。

『東京で15分でチケットが売り切れる文楽も、大阪ではガラガラ』という事実に、『文楽は大阪の市民でで支えろ』というわけです。

ごもっともなようで、間違っています。

文楽はもう大衆芸能の域を超えてしまっています。

もとは大衆のものでも、今は違っています。

それは退化でも怠慢でもなく、まぎれもなく進化です。

能はどうですか?

元は申楽で、物まねや簡単な芝居をやっていた。

田楽などは田植えや収穫の時に行われていた訳です。

そこから、能へ進化した。

今の能を観て、大衆化が可能と思う人はいないでしょうし、するべきでもないでしょう。

では、大衆に受け入れられない芸術に価値が無いのか?

収益が得られないことを責めるべきなのか。

それは商人の発想で、私が勧進元なら怒ります。

でも、伝統芸能や伝統工芸というのは、『私たちの宝モノ』なんです。

欧米ではクラッシック音楽やオペラがそうでしょう。

要るとかいらないとか、儲かるとか儲からないとか、そういう次元の話ではないはずです。

堺の包丁作りの名人に、『儲けろ!』と言ったら、場合によっては刺されるかも知れませんよ(^^;)

そんな事を彼らは目標にしているんじゃないはずです。

私たちが生きているこの世の中で、お金に換算できない部分を担当してくれているんです。

それはみんなで支えなければならない。

みんなで支えるというのは、みんなで観に行くこともですが、みんなのお金で維持する、携わる人も含めて護っていく事が必要なんだろうと思うんです。

大神神社や伊勢神宮に対して、参拝客が少なくて、公費が投入されているとして、だからもっと儲けろとか、もう潰してしまえとかいいますか?

熱くなってきたので、先に進みましょう・・・(^_^)

この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。

既存ユーザのログイン
   
新規ユーザー登録
*必須項目

投稿者: mozuya

萬代商事株式会社 代表取締役 もずや民藝館館長 文化経営研究所主宰 芭蕉庵主宰  茶人