【第1章 はじめに】
この本は、全部で17章立てになっています。
要旨を把握しながら、考察していきますね。
第1章では論を進める上で、読者が理解する上での前提が書かれています。
(引用)
本研究の中心目的は舞台芸術諸団体の財政問題を明らかにし、合衆国における芸術の未来にとって、こうした問題がどのような意味をもっているかを検討することである。
次のことは指摘しておかなければならないだろう。
本書の著者たちは経済学者であり芸術に個人的な関心を持っているとはいえ、こうした研究はできるかぎり冷静に、そして資金調達の上での問題に直面している他の産業を研究するのと同じように行われるべきであるとの固く信じている。私たちは、芸術の財政疾患を治すことを約束する万能薬を発見しようとはしなかった。むしろ芸術につきつけられている選択可能な代替案を客観的に列挙し、芸術の費用と社会に求める負担を説明することができればよいと考えたのである。
最後に私たちは、舞台芸術に直接触れることの価値や、舞台芸術が人間存在を豊かにするというような、感情にのみ訴えるようなメッセージを準備しなかった。このことを納得しない読者であれば、舞台芸術の経済学に焦点をあてた如何なる報告書を読んでも、何かを考えてみる余地はほとんどないと言えるのではありますまいか。
(引用おわり)
つまり、舞台芸術に対して特別な想いをもって研究したのではなく、あくまでも客観的なデータと分析手法によって、全く他のテーマを分析するのと同じように、研究し、この本を書いた、ということですね。
そうはいっても、この経済学における統計というのは眉唾も多くて、結論はどちらにでも引っ張っていけるというのもある意味で真実だと思います。
舞台芸術、大阪で言えば今、話題になっている文楽の助成金問題がありますが、『ちゃう!』ということがあれば、この本を読んで反証される方が出ることを期待します。
私の立場は、もちろん、中立ではあり得ません。
正直に言っておきます。
中立ではありません。客観的でもありません。
あくまで、主観的に、芸術と文化に強烈な愛情をもって、この本を読み進め、論を建てていきます。
文句があるなら、建設的に反論されたらよろしございましょう。
ただ、私は誰から頼まれて書いているのでもなく、この本を熟読してシコシコ書いても誰もお金はくれません。
自分の情熱に任せて、やむにやまれず書いているのです。
もし、『世の中に文化だの芸術だのは要らない』という信念が私の情熱や信念に勝るとお考えの方は、どしどし反論してきてください。
その分、私も勉強になりますし、理論武装も強化されます。
・・・という感じで、いきなり宣戦布告ですね(^^;)
ただ、私はあくまでも『自助論者』です。
最大の愛読書はサムエル・スマイルズの『自助論』です。
ですから、自助論者でマーケターを自認する者としては、助成に頼るのではなくて、あくまでも自助の方向で私なりの結論を見つけてみたいと思っています。これがこの本を勉強する私の最終目標です。
この本が書かれるまではアメリカのブロードウェイといえども資料が整備されていず、データの蓄積にかなり苦労したようです。膨大なデータと格闘して、数字で示した初めての書であったところにこの本がバイブルと言われる所以があるのでしょうね。
そして、はじめに、の段階で3つの方向性をしめす結論を挙げています。
(以下引用)
第1に『カルチャーブーム』として描かれている現象は、確かに事実ではあるが、この問題に関する多くの報道において、その広がりや規模が誇張されており、その正確と意義が誤解されていることを、この研究は明らかにするだろう。
第2に、芸術に対する一般大衆の関心が増大しているという主張や、観客が広範囲な社会集団を含んでいるという楽観的見解にも関わらず、プロの公演の典型的な観客は、住民の極めて狭い構成部分ー通常、高水準の教育と所得によって特徴づけられている集団ーに由来するということが明らかにされるだろう。
第3に、舞台芸術に対する経済圧迫は増大しつつあり、これは歴史的な偶然ではないとしても、舞台芸術の運営にまつわる技術の高度化と考えられているものの結果であり、したがって、舞台芸術団体への寄付金のニーズはさらに増えるであろうという証拠が示されるはずだ。
(引用おわり)
この本が書かれたのは1962年ですが、このころのアメリカ経済は黄金期だったはずです。それでカルチャーブームが起こったように見えていたのでしょうが、実態はごく一部のインテリとブルジョワによって支えられているに過ぎなかったということです。
つまり、にわかにお金だけを持っても、本当の芸術の世界にはなかなか参加できないということなのです。
下手をすれば、お金をもっている新たなカルチャー・ブーマー達によって、レベルの高い芸術はつまらないものとして排除される危険性もあるとは言えないでしょうか。
民主主義の世の中は多数決で決められていきます。でも民主主義・多数決は絶対的な方法ではありません。少数意見が切り捨てられてしまうからです。出た結論から調整して、遠くを見つめた施策を採っていくのが為政者や知識人に求められる行動であると私は思います。
本当のリーダーシップというのは、そういう『調整』に発揮されるべきであって、民意をカサに着て強権をふるうのは野蛮であると私は感じます。
だからこそ、為政者にはバランスのとれた人格と教養が必要なのではないでしょうか。
この章の中で最後に『舞台芸術の財政難の原因』について触れています。
?インフレーション:公演費用の高騰
?労働組合の要求、とりわけ労働者の水増し雇用。
?商業演劇における不正行為
?浪費や経営の誤り
?舞台芸術の経済構造そのもの
?〜?はたいした問題ではなく、ほとんどの原因は?だと著者は言っています。
芸術が直面している経済的圧迫は一時的なものではなく、慢性的なものだと指摘しています。
前述の様にこの本が書かれた時代のアメリカは経済が絶好調でした。
ですから、メセナも盛んで、これからはその需要も供給も増えてくるだろうと書いています。
ところが、今の日本はデフレです。
もう10年も続いています。
企業メセナも個人的タニマチも激減。
オーナー社長は減り、株式を公開した企業だけを有利に導く施策ばかり採られています。
景気が良いときも助成が必要なのに、景気が悪くなったから助成を減らすというのは、つまり『引導を渡す』という事じゃないでしょうか。
舞台芸術の場合は、他の個人芸術や工芸の世界とはまた違う面があると思います。
一つは団体芸術であること。そして、様々な芸術の総合体としての価値があるということです。
簡単に考えただけでも演技(身体表現)、舞台装飾、文学(台本)、音楽、歌、言葉、舞踊、照明、衣装(染織・デザイン)等々、いろんな総合的に絡み合って一つの形になるのが舞台芸術です。
だから、凝って造れば限りなくコストがかかるし、観る人も解る人でなければ解らないのです。
茶道もそうですね。総合芸術と言われます。
解らない人に言わせれば『金持ちのガラクタ遊び』と見えるそうです。
解る人にとっては、解れば解るほど、すごい芸術だと感じる。
これ以上のものは無いと感じるわけです。
ガラクタ遊びと最高峰の芸術。
これが、解ることと解らない事の差なんです。これくらい大きい訳です。
お金と言うのは、値打ちが細分化できますね。
1000円は1円と999円にも、50円と950円にも、どないにでも分けられます。
でも、モノは分けてしまうと価値が無くなることもあるし、芸術の場合はそれ自体が金銭的価値で測ることができないのです。
だから、いくらお金があっても、わからないものはわからない。
また、だからこそ、昔の大経済人は茶道や能にはまり込んでいったんでしょう。
我が国にはアメリカと比較にならないくらい素晴らしい文化があり、それが生み出した芸術があるのに、解らないというか、解ろうともしないというのはどういう訳でしょうね。
教育が悪いということなんでしょうが、続きは次回にということで。
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