民芸を考える時、私はよくワードプロセッサが世の中に出だした頃のことを思い出します。
私が高校生くらいのときだったでしょうか、キャノワードとか文豪だったか、忘れましたが
ワードプロセッサが販売されました。私も大学3年か4年のときに、リサイクルショップで購入したのを覚えています。
当時まだパソコンはあまり普及してなくて、プリンター付きのワープロが圧倒的でしたね。そんな時によく聞いた話が、『ワープロで打ったほうが丁寧だ』『心を込めてワープロで書く』というようなものでした。
今も、特に年配の方からの年賀状が宛名までプリントになっているのが多いのはそのせいでしょうか。
私はその時分はまだ若かったのですが、『丁寧に心込めて書くというのやったら、せめて筆ペンで書いたらええのに』と思っていました。
織物に関しても、きものファンは別として、一般の方の中には機械で作ったほうが正確に間違いなくたくさんものができて良いんじゃないのか、という言葉が多く聞かれました。
今でも、年配の方々には機械文明に対する過剰な期待と信頼があるように想いますが、手仕事のものが良いものだという感じが持たれるようになったのはそんなに昔のことではないように思われます。
手仕事だけでなく、昔ながらの方法でやったほうが良いものができるものはたくさんあります。お料理も炭火で焼いたほうが美味しいし、羽釜で炊いたごはんは美味しい。お茶も炭火で沸かして、鉄製の釜で沸かした湯で点てたほうが美味しい。なぜでしょうか。
AIが発達したとして、機械が握ったお寿司が、ふんわりと口溶けの良いものになるでしょうか。センサーで魚の美味しい部位を当てて取り出すことができるのでしょうか。有名な書家の字をフォントにして、ワードに組み込めば実際にその書家が書いたようなものになるでしょうか。
柳はここで、手仕事の良さが見失われていることを認めながら、まずは全国の手仕事を見て歩きましょう、と書いてこの本を始めているというわけです。
前述の問いかけに関して、このブログを書きながら私も何度も何度も考え直してみたいと思っています。
読んで頂く方も、手にとった器が、これは手作りなんだろうか。愛着を持てているんだろうか。そうだとしたら、なぜなんだろう・・・そんなふうにご飯を食べながら、お茶を呑みながら少しだけ考えていただければ幸いに想います。
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