『高野新笠、大内氏、そして堺』

土曜日の深夜に大阪に帰ってきたんですが、これまた暑いですね。

おかげで庭のリュウキュウイトバショウもこんなに大きくなりました。

地植えしたら、どんどん大きくなって、屋根に着きそうな勢いです。

暑いのでちょっと歴史の話を。

私の歴史探訪は、日本の歴史全般を網羅的にやろうというのではなくて、自分の周辺、地縁、血縁を中心に進めていってます。

歴史というのは、たいてい為政者が自分の都合の良いように編んだものとか、武将が自分の武勇伝とかを土台にされています。

農民や町人は、歴史なんて書きません。

だから表に出てこないし、余程のことが無いと町人が歴史の表舞台に出てくることはない。ましてや、『町人ふぜい』という差別意識が今でも根強いくらいですから、歴史にどう絡んだかなんていうのは、書かれることはほとんどありません。あっても、とんでもない悪徳商人、欲づっぱり野郎としか書かれない。それが普通です。

前置きはこのくらいにして、私の先祖ですが、これは江戸時代までは萬代屋(もずや)という堺の商人でした。最近、遠い親戚の方とお会いして、堺だけで大きくわかれて3つに分家していることが解りました。後は富山とか岡山とか山口に、別の分家が行っている様です。

萬代屋となるまえは、萬代とかいて『もず』先日、『萬代掃部助宗安』の襲名祝いをして頂きましたが、萬代掃部助が萬代家初代とされています。もちろんその前から居たし、氏姓も賜っていたようですが、商家としての初代という事ですね。

お祝いしていただいて、この笑顔。

『もず』というと、堺市には百舌鳥というところがありますが、ここがうちの発祥の地です。古墳時代に天皇の葬祭や古墳造営をしていた土師氏という豪族のうち、百舌鳥地区に住んでいた一派が『もず』を名乗ったのだとか。その字は『毛受』『物集』そして『萬代』『万代』などですが、全部同じ『もず』です。菅原道真も土師氏ですが別系統だと思われます。

その土師氏の始祖は野見宿禰という人で、垂仁天皇に出雲から招かれて、古墳作りに関わったとされています。相撲の始祖としても有名です。

出雲の話はとてもとても複雑なので、また別の機会にしたいと想いますが、この土師氏には四腹といって、四つの系統があったとされています。

四腹のうち、もず腹というのがあって、その人達が『もず』を名乗ったということです。

その土師のもず腹というのがどういうのか?と調べてみると、土師真妹(はぜのまいも)という人に行き当たります。このひとは、高野新笠(たかのにいがさ)という桓武天皇の母親の母親です。

高野新笠のウィキにはこうあります。

父の和乙継は百済渡来人の子孫で、(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが、詳細は不明。夫の白壁王(光仁天皇)即位後に高野朝臣と改姓した。

続日本紀延暦8年12月28日条に「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)百済太子淳陀死去とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうか学術的に少なからず疑義が持たれている[2]

また、淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。 和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は貴族として以後重んじられていった。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。

ということは、萬代氏は古代百済系の渡来人と言うことですね。

これはただのうちのルーツの話ではなくて、堺の歴史と大きく関わってくると感じています。

堺というと、大内氏の存在を忘れる訳にはいきません。

堺の黄金の日々といわれた繁栄は、瀬戸内海を支配していた大内氏の存在があり、兵庫の港が使えなくなった事から始まるからです。

応永の乱

寧波の乱

大内氏は百済の百済聖王の王子、琳聖太子の末裔と称していますから、百済系です。

それで、朝鮮との交易も盛んに行っていました。

この大内氏は南北朝の争乱の時には、北朝方に味方したとされていますが、一方、堺は南朝方に味方したと堺市史には書かれています。

大内氏は博多を、大内氏とドンパチやっていた細川は堺を交易の中心としようとしたとされています。

掃部助が登場するのは、まさに大内氏が和泉国の守護大名だった時代で、堺の代官としてです。

その後、大内氏の動きと共に、返魂丹の常閑は岡山に、利兵衛は山口にと移住しています。

堺の日明貿易は大内氏との関係が土台になっていた、と言えると想います。

ところで、この大内氏、かつては多々良氏を名乗っていました。

たたら、といえば、製鉄や焼き物が思い浮かびますよね。

そして、次に思い浮かぶのが『博多商人道安』という人です。

この人は室町時代後期に朝鮮や沖縄との交易で活躍したとされています。

道安は、琉球国王の名代として交易をしたんだそうです。

この道安という人、時代的にも経歴的にも、かなり引っかかりを感じています。

この時代、博多は大内氏の支配下にありましたが、堺はというと、こちらは細川氏の支配下で交易都市として繁栄していました。

当時、博多と堺は拮抗していたというか、しのぎを削っていたんですね。

この時代の朝鮮との関係と言えば、秀吉の朝鮮出兵が思い浮かびますよね。

千利休自刃後、彼の廻りにいた人達もとがめを受けます。

実は大徳寺の金毛閣を寄進し利休のの像を造ったのは利休1人では無かったんです。

萬代屋宗安もその1人でした。罰せられたのは利休だけでは無かったのです。

しかし、宗安にはとがめが来なかった。なぜでしょうか?

朝鮮出兵には多くの萬代屋の船が軍船として転用されていたのです。

宗安は馬廻衆という役割を負って、朝鮮出兵に関わっていることが太閤資料集から確認できます。

実は大内氏も当時の朝鮮に自分が百済王の血筋を引く者であるとの理由で領土の割譲を要求しています。朝鮮王は、一度は承諾するものの、側近に止められて、実現しなかったという事です。

勉強不足でまだ整理が出来ていないのと、あんまり妄想めいたことを書くと人格が疑われるので(^_^;)、この位にしておきますが、こうやって歴史を見てみると、百済からの渡来人達はなんらかの強いつながりを持っていたように感じざるを得ないのです。

信長と石山本願寺の10年戦争で、正親町天皇が調停に入ったのも、無関係ではないと想っています。

日本の歴史をずーっとさかのぼって見ていくと、天皇陛下をいただきながらも、庶民が庶民の為の政権を作り、その政権がまた貴族化し、それを倒す。そんな事の繰り返しのように私には想えるのです。

最近、『逝きし世の面影』という本を読みましたが、江戸という都市は本当の意味での『自由都市』であった様な気がします。

だからこそ、あれだけの町人文化が花開いた。

本来なら、明治維新も一つの転機だったはずです。

でも、またまた、歴史は繰り返すのかな、なんて最近思い始めました。

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この記事を書いた人

萬代商事株式会社 代表取締役
もずや民藝館館長
文化経営研究所主宰
芭蕉庵主宰 
茶人

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