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琉球びんがた その味わい方2017/10/24

工芸品なり芸術品というのは、まずパッと全体を見ることから始まるわけですが、そのパッと見の印象がどこからくるのか、を解析してみる事も大切です。

学者さんとかは、この作品のここが素晴らしい!とか文章であれこれ書いているのを読む機会もあるんですが、現物が前にないとチンプンカンプンな感じもします。

ここではそれを紅型に関して総論的に行ってみようというわけですが、まぁ、少しでも参考になればと想います。

まず、私がひとつの琉球びんがたの作品を見たとします。

帯だとたいてい6通ですから、無地場がまず出て来て、やっとこさ柄に到達します。

10㎝見れば、良い変わるかは判断できるものです。

いや、3㎝で十分ですね。

もっといえば、裏返して巻かれている状態でも、もうそこで半分ほどは値打ちが解ります。

何故かというと、私の場合一番重きを置いているのは『地色』だからです。

地色の洗練の度合いが、まずその作り手のセンスと物作りへの考え方を示していると、私は判断しています。

どんな色が美しいのか・・・

それはねぇ・・見る側のセンスもあるし、好みもあるし、経験もあるし、いろいろです。

たぶん、京友禅ばっかり見てる人達は、沖縄の色彩が解らない人も多いでしょうし、逆もそうかもしれません。すべての色に対して公平に評価するのは非常に難しいことですし、意味の無いことです。

ですから、お好みで良いんですが、地色の良さがその染めモノの価値の大半を決定すると私は思っていますし、地色を良い加減に考えている紅型師はたいしたものにならないと考えています。

紅型というのは二つの芸術によって成りたっています。

ひとつは彫刻。

そして絵画。

彫刻というのは型彫りです。

紅型を見て、地色の次に見るのは、型の出来具合です。

紅型に染められた作品をみても型そのものは見えないわけですが、その線から、型がどう彫られて居るのかが解ります。

難しい事ではありません。ジーッと見てください。

紅型の型は突き彫りという技法が取られるので、滑らかな曲線も表現することが出来ます。

もちろん、その直線・曲線の美を表現するには絵画的な構成力・描写力も必要です。

それと、顔料・染料に見られる、色の世界。

滑らかでありながら力強く。

強弱、濃淡、明暗、曲直・・・

ひとつひとつの線や、色を丹念にみていく。

そして紅型ならではの隈取りのとり方。

上手い紅型師ですと、なんらかの仕掛けがしてある場合があるんです。

染色そのものの技量は経験によって向上していく場合も多いのですが、その作家さんのセンスや物作りに対する想い、考え方というのは、そうそう変わるものではありません。

また、それが変化すると、すぐに作品に現れてきます。

それは織でも同じですね。

『ちょっと、気持ちが足りないんじゃない?』

『うーん、行き詰まってる?』

そういう指摘をすることもままあるんですが、たいてい当たっています。

もともと良い物を作る人が作れなくなっている時は、ほとんどがその内面に問題があるときなんです。

技術の退化ではないんですね。

紅型の世界は、絵画や友禅の世界とはちがって、古典だけを染めてもごはんが食べていけるんです。

ですから、実際はそんなに創作力は必要としない。

体力・気力の低下とともに、創作力が鈍ったとしても、品質はそんなには落ちないはずです。

若くて脂が乗りきっている年代のはずなのに、落ちてくる人がいる。

なぜか?

どうしてわかるのか?

作品に気が乗っていないのです。

そしてその気を乗せるようにするのも私の仕事なんです。

良い作品が解るようになるには、本当に良い作品をたくさん観なければなりません。

しかし、残念なことに、本当に良い作品を観る機会というのが、特に内地ではほとんど無いというのが現実です。

インスタントラーメンばっかり食べていたら、ほんとうに無化調で手作りしたラーメンの味が分からないのと同じです。

逆に手作りのラーメンばっかり食べていたら、インスタントラーメンは別の食べ物だと想うくらいでしょう。

紅型の価値というのは、『だれそれが作った』とか『柄が変わってる』とか『何々の生地に染めている』とか、そんなのはあまり関係がないのです。

なんの変哲もない、平織りの絹の生地に染めてある無名作家の作品でも、ガーン!と引きつけられるときがあります。

そういう意味で、沖展を初めとする公募展は楽しみな場なのですが、最近は、ちょっと期待薄な感じもしています。

紅型の世界は老壮青、たくさんの作り手がいます。

しかし、見る者に挑戦的に迫ってくる迫力のある作品をとんと観なくなりました。

みんな、それなりにまとまっているんですが、どれといって特色も個性もない。

まぁ、無難にそつなくまとまっているが、いうなれば、可もなく不可もなし。

今時の演歌歌手みたいな感じです。

しかし、天才はいます。いるんです。

天才は、その才能の故に、技量が才能に追い付かない。

だからなかなか世に出てこないんです。

技量の良否を判断できるひとはいても、才能に価値を認めることが出来るのはごく一部。

古典だからこそ、引き立つ才能もあるんです。

クラッシック音楽なんか、同じではないのでしょうか。

ですから、紅型を見るときは、古典紅型というのがどういうものなのかを知っておくと良いでしょう。

いろんな古典があって、その古典をアレンジして、作品づくりをするわけですが、そこにとてつもない才能が垣間見れるわけです。

一般の人が紅型に触れる機会といえば、小物類が一番多いのでしょうか。

紅型のプロを分類すれば

着物・帯を作っている人
小物を主に作っている人
紅型体験や教室をやっている人

と分けられると想いますが、その作品の序列は、いわずもがなでしょう。

本物の琉球びんがた自体を見られる機会自体が少なくて、『紅型』と称して売られているものの90%が本物の琉球紅型ではない、という事では、どうしようもないのですが・・・

結論みたいなものがお示しできなくて、私もワジワジしているのですが、せめて紅型制作に携わっている人には、もう少し良い作品を観る機会があればな、と想いますね。

梅田・阪急百貨店『白洲正子のきもの』を見て2017/9/30

梅田の阪急で開催されいてる『白洲正子のきもの』の展示を見てきました。

元々、私とは好みが合うなぁ、と想いながら色々と参考にさせてもらったりしているんですが、非常に素晴らしい内容でした。

会場は撮影禁止なので私の持っている本から写真を拝借します。
(『白洲正子のきもの』新潮社)

ロートン織(大島郁作)

これはロートン織に多彩な横段の縞が入っています。規則的な横段になっているのかと想って見たんですが、どうもランダムに不規則に入れてあるようです。
沖縄では見たことが無い感じがしましたが、ロートン織の単調さをカバーするには良いデザインかも知れないと想いました。

久米島紬

泥で2点出ていた様に想います。

柄は大振りなほうですが、絣に力がなく、絣としてはそんなに良い作品とは想いませんでした。キレイに括れてはいたし、絣足も味がありましたが。もしかしたたら白洲正子が細めの絣を作らせたのかもしれません。私が注目したのは、グールの色です。いまのよりもかなり濃いです。それによって白の絣と合わせて、色絣としての存在感と躍動感は出ている様に想いました。

琉球絣として出ていた作品。

絵絣なので南風原産でしょうか。

写真では全く解りませんが、地色の藍が素晴らしかったです。

昔の絣にしては小柄で大人しい感じがします。

これも注文かもしれませんね。

半幅帯
井手孝造というひとの作品らしいです。
引きつけられたのは、右側の作品。
筆致も凄いのですが、色がすごすぎる。筆で引いただけでこんな色が乗るのでしょうか?
圧倒的でした。

柳悦博の吉野格子の生地に古澤万千子の染め。
かなり凹凸のある生地に、よくこんな繊細な文様を乗せた物だ!感心しました。
それでいて、生地と染めが完全に調和して、相乗効果をあげている。
古澤の力量が十分に感じられる作品でした。

紺色のは『琉球絣』と書いてありました。後述する田島孝夫の作品ですが、藍色が
すばらしい。沖縄では『縞ぬ中(あやぬなか)』というジャンルに入る作品ですが、織の技法の前に色で圧倒されてしまいました。

黄八丈
専門外ですが、いままで見たのと全然ちがいました。
色の奥行きが全く違うのです。
シンプルな構図ですが、力強さがわき出ているような素晴らしい作品でした。

琉球絣と書いてあった作品。
作者は田島孝夫
手結いの絣を使っている様ですし、構図からして手縞を手本にして、白洲正子が田島孝夫に、自分に合うように作らせた物でしょうね。
これも藍の発色が素晴らしい作品でした。
それと一番示唆を受けたのは、おそらくは白洲の要望で絣と縞を細くしたのでしょうが、
それでいて、『沖縄っぽさ』がそんなに抜けていない。力強さ、伸びやかさが十分にあって、『ニセモン』にはなっていないのです。
これは私にとって衝撃でした。
なんでこんな作品が出来るのか・・・・
総合的な織手としての実力がそれを実現可能にしているのでしょうが、やっぱり、染めと、その発色を保証する糸の質なんでしょうね。
写真では割に弱々しく見えると想いますが、現物をみると、腰を抜かしました。
細い線なんですが、生きてるんです。
コーディネートもさすがですね。
無地物の良さがもっと認識されて欲しいと想います。

芭蕉布も一点でていました。
よく見ると筒袖だし、丈が短い。
ということは、白洲は芭蕉布を琉装っぽくツイタケで着ていたんでしょうね。
これによって白洲正子が着物の超上級者である事が一発で解ります。
素材の特性を熟知して、それを十分に活かして着る。
筒袖なので、襦袢はどうしていたのかな?とか気になりますが
さすが!と想わせるに十分な一点でした。

柳悦孝の鉄線ですが、何気ない緯絣の様に見えますが、実はこれ、三段階の強弱によって構成されいてるんです。絣の強弱で2種。そしてジーッと見ないと気付かないかも知れませんが、花心の部分が節糸?になっていてポイントが作られているんです。悲しいかな老眼ですし、作品に近づけないので、節糸なのか花織なのか、よく識別できませんでした。近づき過ぎて柵を動かしてしまうくらい近づいたのですが・・・絣、とくに大きな構図の絣になるとベターっとなっててしまう嫌いがありますが、これだと立体感が増しますね。経緯の絣だと絣の交わりによる織味で濃淡や立体感が出せますが緯絣だけだとそうはいきません。これも大変参考になる技法でした。

白洲正子という人は、文化人だと想っていたら、ただの文化人ではないですね。
『こうげい』という着物のお店を銀座に開いて着物を売っていたということですが、
この作品展を見ると、『染織プロデューサー』であったことが解ります。
彼女と仕事をしている作り手の力量がまたとてつもなく凄い。
たぶん、お金に糸目を付けずに良い物を作らせたのでしょう。
もちろん、展示は白洲正子が実際に着用していた物ですから、彼女が自分の為につくらせたものだったのでしょう。実際、目鼻立ちのハッキリした白洲にピッタリの作品ばかりでした。私の場合、付き合ってるのは作家さんです。作家さんというのは自分のカラーがはっきりしていて、『作りたい物を作る』人達です。白洲が付き合っていたのは『職人』ですね。白洲の想いを受け入れてそれを形にした。またそれができる抜群の力量を持っていた。もちろん、白洲の力量もあるのですが、着物好きとしても染織プロデューサーとしても幸せな人だと想います。
今時は、特に織の分野では『言われた通りに作りますよ』なんて言って、出来上がってきたら、とんでもなく素晴らしい作品だった、なんて職人どれだけいますかね?織の分業において、また染めではまだ居ると想いますし、私もすぐれた職人さんともお付き合いをさせていただいています。しかし『作家物』と言う言葉が流行りだしてから、凄腕の職人さんは減ってきているような気はします。織のおあつらえ、というのが無くなって、委託販売が中心になっては、そうなるのも必然でしょうね。

もう一つ気になった作品は藤村玲子の紅型です。
残念ながら画像がありません。

あれをみると、白洲正子は紅型があんまり好きじゃなかったみたいですね。
赤を殺して、色指しも全体的に抑えめにしてありました。
柄も小柄で、ハッキリ行って、まったく面白くありませんでした。
もしかしたら、当時の藤村の力量にも問題あったのかもしれませんが、ちょっと『無理矢理作った感』『イヤイヤ作った感』のある作品だったと想います。
正直言って、紅型らしい魅力がまったく無かったです。
私なら、白洲正子にぴったりの紅型を作ってあげられたのに!とも想いましたね。

おそらく、ある時点から、白洲正子自体にも行き詰まり感があったんだと想います。それは、『私の好み』が一方通行で行ってしまって、作り手やお客様との『息の合わせ』がなかったような形跡が感じられるからです。

そうなると自分の好きな物は作らせることが出来ても、より幅広いお客様に指示される作品は作り得ません。

そこが作家とプロデューサーの違うところです。

本当にたくさんの事を感じる事ができて、狭い会場ですが、2時間たっぷり見せてもらいました。

沖縄の染織家さんたちにも是非見せてあげたいです。

プロデューサーとしての物作りと才能2017/9/18

私は染織、とくに沖縄染織のプロデューサーと自称しています。世間的に見ればただの問屋です。『自分で織ったことも染めた事も無いクセに何を偉そうに』そう想う人も多いでしょう。でも、実はちょっとやったことがあります。しかし、プロとして活動するには技術と共に才能が必要です。染織に関しては、私は『手を動かす』という事において全くの無才能です。全く不器用なのは、私の図画工作の成績が物語っています。プラモデルもろくに作れたためしがない。染織家としてプロになるどころか、工芸全般において、まったくの圏外にいると言っても良いでしょう。だからこそ、素人としていろんな物作りや芸術に触れて、『感性』だけを磨いているんです。それで、素人だから出来る事もあるんです。プロにとてつもない提案をするのも素人ならではです。それがそのプロにできるモノであり、乗り越えられるハードルであるかどうかを判断する。それが物作りのアマチュアであるプロ・プロデューサー?の真骨頂だと私は思ってます。そのためには、物作りは知っていないといけないし、頭の中に完成された自分の作品を持って居ないと行けない。こないだのラジオ番組でなかにし礼という作詞家が、少年の頃の体験を、ある歌手との出会いがキッカケで歌にした、と言う話をしていました。なかにし礼は、少年時代に父親がニシン漁で大もうけして、その後失敗して路頭に迷ったそうです。それをいつか歌にしたいと想っていた。それで現れたのが『北原ミレイ』でした。北原ミレイの声を聞いて、『この女に歌わせよう』と想ったんだそうです。そして出来たのが『石狩挽歌』です。https://www.youtube.com/watch?v=UpEioKGUEcY

『そこまでの想いを込めた歌なら自分で歌えばいいじゃいか?』
シンガーソングライター全盛の今ならそう想うかも知れません。でも、その詩情を伝えるには、その世界を表現する、『歌い手』が要るのです。作詞家はもちろん自分でも歌えるでしょう。自分が歌うのが一番と思えば、そうするでしょうし、もっと、良い表現者が居ると想えばそうする。それだけのことです。京友禅とかだとわかりやすいですが、優れた作品はたいてい分業で成りたっているんです。作家といわれる人でも、実は全部自分でやってるわけじゃない。図案も図案家に描かせている人も居るし、自分では刷毛を持たない染色家もたくさんいます。でも、その染色家、染織家が、『自分の世界』を持って居れば、それは作家と言われるにふさわしいのです。でも、私は作家じゃないし、作家とも呼ばれたくない。染織家と出会ったら、その人の特長をよく把握して、自分の世界との接点を見出して、共に作品づくりをしていくというのが私のスタイルです。ですから完成された人や、自分の世界から一歩も動かない人は、お互いやりにくい。自分の世界を構築し、それを相手に伝える、それも出来るだけ具体的に伝えたい。だから、シコシコ勉強したり、チマチマとヘタなりに物作りをしてみたりするんです。趣味でいろんな物作りをしたり、絵を描いたりしてる人は、自分のジャンル以外の事に踏み出してみても面白いと想いますよ。絵を描く人が、『これこれこんな感じでバッグに刺繍してみて』とかね。そのかわり、出来てきたモノはドーンと受け入れる度量は必要ですよ。自分の伝え方が悪かったのか、あるいは、自分が思う世界にその刺繍するひとが合わなかったのか。その繰り返しがまた、自分の世界をさらに突き詰めるキッカケにもなりますしね。まぁ、いずれにしても、楽しく物作りしないと、良い作品にはならないです。それが私の一番のモットーです。

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椰子の実

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紬のたのしみ2017/5/16

いきなりですが、紬というのは紬糸を遣っている織物の事をいうのであって、シャレ物の織物全般を言うのではありません。

沖縄でも南風原の絣は昔、多くが経緯生糸(平絹)を遣っていましたし、首里の織物、特に花織、花倉織の類はたいていは生糸遣いです。

生糸が繭から糸を引き出す方法で糸を造るのにたいし、紬糸というのは繭を湯で解いて、角真綿にし、その真綿から糸をつむぎだす方法をとります。

こうすると繊維の間に空気がいっぱい入りますから、温かくふんわりした風合いになるという訳です。

江戸時代、奢侈禁止令が出たときに絹織物の着用が制限された時代がって、オシャレな人が苦心して綿織物に見える絹織物としてつくらせ、愛用したという話です。

そもそも、養蚕あるいは絹糸生産が伝統的に日本で盛んであったのか、といえば、そうではありません。

綿糸、あるいは絹糸のほとんどは輸入に頼っていたんです。

糸割符舟というの出て、堺や京都の許された商人だけが独占的に扱っていたんですね。

と言うことは、紬は、捨てるようなクズ繭からひいた野良着である、などという言い方は全く当たらないということが良く解ります。

逆に紬織物というのは、日本人の美意識がつくり出した最高点の衣類であると言って良いと想います。

なぜなら、庶民が幕府から規制をかけられながらも、オシャレ心を忘れなかったということの象徴だからです。

羽裏にしゃれた物をつける、というのが日本人らしい美意識だと言われますが、それと同じ、いや、それ以上の象徴的存在なんですね。

私は紬以外の織物も、染め物も手がけていますが、正直言って、紬が一番好きです。

なぜかというと扱っていると気持ちが安らぐからです。

まずは温かい風合い。

経緯の糸が織りなす『織味』

とくに絣は、そのかすれ具合が絶妙になって、引き込まれそうになります。

紬は、造って良し、見て良し、触って良し、着て良し、持って良し。

そして一番はね・・・

自分で作り上げる、あるいは完成させることが出来るという魅力なんです。

染め物というのは出来上がった時にすでに完成されていて、あとは劣化していくだけです。

しかし、織物、とくに紬織は、そこから自分が着ることによって進化させることができるんですね。

染め物は30年くらいしか持ちませんが、紬織なら、いいものは50年、100年と持ちます。

30歳で買って80歳まで着ると、どんどん風合いも見た目も変わってきます。

まるで、使い込まれた茶器の様に味わいを増してくる。

それを楽しむのも紬の楽しみのひとつです。

最近はみんな、せっかちになってしまって、ジーンズでも履き古したもの、あるいはそういう感じを新品のときから出した物が好まれるそうですが、繊維好き、布好きの私からしたら、あーもったいない!という気がします。

紬は自分で着ることで完成させる過程を楽しむことができるし、それが一番の楽しみだと想うのです。

八掛がすり切れて、エリも汚れて・・・

いろんな事が出て来ますが愛情を持って、お手入れをする。

5年、10年、20年、30年・・・

着るごとに表情が変わってくるはずです。

それはまさに、美術館で展示された茶碗と、何百年も遣われ続け、あるものは金継までされた茶碗の差を見るようです。

50歳で紬の着物を買ったとしたら、あと30年、40年、どんな風になるかな?と楽しみをもって見て頂けたらと想います。

そして、子から孫へ。

大事にすれば100年前、ひぃおばあちゃんの着物だって着ることが出来るんです。

代々に渡ってタスキを渡されて、着物を完成させる・・・

こんな素敵な事があるでしょうか。

・・・

話が止まらなくなってくるので、今日はこのへんで(笑)

堺更紗 (小谷城郷土館)2017/2/21

堺の小谷城郷土館に行って来ました。

うちから車で30分ほど。

小谷城とはこんなところです。

古い農具やら家具、土器などが置いてあって、時節柄、小谷家に伝わるひな人形が展示されていましたが、今回の目的は『堺更紗』です。

堺更紗とは、長崎、鍋島に続く、和更紗の事で、ダイナミックで力強い色彩と構図が特徴です。

江戸時代までは盛んに造られて居たようですが、いまは史料で見るのみです。

本で研究しているのですが、一度現物を生で見たいと想ってここに行って来た、と言うわけです。

残念ながら館内は撮影禁止で写真はありません。

所蔵品はたくさん有るようですが、退色するという理由で展示されていたのはわずか2つでした。

ひとつは比較的細かい図案で割によく見る感じでしたが、もうひとつは幾何学模様で非常に面白い図案でした。

どちらもかなり退色していて、遺っているのは茶系の色だけ。

それで頭の中で塗り絵をしてみました。

当時は河内地方で盛んに綿が栽培されていて、堺更紗もその河内木綿の布に染められていたと言われています。

後染めですし、実際に長い年月使用されていたものなので、劣化は激しいのですが、それでも非常に趣深い布でしたね。

ただ、残念なのは、額に入って高いところに展示されていたので、生地の風合いや染め味の細かい所がチェック出来なかったところです。

やっぱり、布というのは、間近で見て、手にとって風合いを確認したいです。

染め物じゃなくて布なんですから。

生地と染めがばっちりとシナジー効果を発揮してこそ、良い布になるんです。

もうちょっとたくさん見たかったし、出来ればもう少し、保存状態の良い物を、近くで見たかったですね。

それでも写真で見るよりは遙かに良かったです。

堺更紗もいろんな使われ方をしてきたでしょうし、生活のなかでどのように彩りを加えてきたかを想像するのも楽しい物です。

布は着物や帯としてだけ活かされるものでもないと想います。

大切にタンスにしまわれて、美しい姿をそのまま今も伝えてくれる布はもちろん

有り難いですが、それにも増して魅力を感じるのは、使いたおされて、朽ち果てそうに

なっている布です。

民藝運動家の外村吉之助氏が『木綿往生』という言葉を残していますが、

最後は雑巾としてまで使われる事が布として幸せなのだろうと想いますね。

いまは高速織機になり、生地は大量生産されて、あちこちに溢れかえっています。

しかし、堺更紗がまだあったとき、布は貴重なものだったはず。

先日の夜咄の茶事と同じように、手織、手染というのは、昔の暮らしを少しだけ感じさせてくれるものなんでしょうね。

電気もガスもなく、すべてを人の手で,自然と共に暮らしていた時代。

薄暗い部屋の中で見る堺更紗は人々にどんな幸せを与えたでしょうか。

私も、使う人が幸せになって、末長く最後は雑巾になるまで使って貰える布が作りたいな、と想いました。

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日本の美術と工芸 第11話2017/2/10

『我々は芸術の様式が発達していくのを目の当たりにしているが、それはいかなる外的要素や異質の要素にも影響されずに、生来の進化の力で発展したのである。』

ジェームス・ファーガスンというイギリスのインド建築史学者の言葉だそうです。

つまり、芸術の様式というのは、それ自体が自律的に発展するのだということです。

その発展には外的、異質な要素の影響は関係無い、そういうことですね。

私は日本中あちこち行きますが、人の往来の多い港町、比較的少ない山間部、どっちが

文化度が高いということも一概に言えず、それぞれが特色のある文化を培っているという

感じがします。

私の感覚では、新しい異質な文化が入って来ても、その表面を理解するだけで精一杯で、

その奥にある意味とかまではなかなか入っていけない感じがします。

同じ国の中でも、もう長いことお付き合いしている沖縄県の文化や習慣は微妙に解らない

事が多いです。

正直言えば、知れば知るほど解らない事が増える。

それが遠く離れた外国で、そもそも交流がないのであれば、ちんぷんかんぷんであるのも

当然だろうと想うんですね。

日本人は、解らない事でも、なんかグチャグチャに消化して自分たちの中に取り込んでし

しまうとう、とてつもない強力な胃袋を持って居るのかもしれません。

開国以来、いろんな外国の文化がドーッと入って来たのでしょうが、それでわが国独自の

文化といえるものが果たして生み出せたでしょうか?

外国のモノを採り入れて、まねごとをするだけが精一杯、そんな感じかも知れません。

あ、ありますね。

カラオケとか漫画(アニメ)

気付かないけどもっとたくさんあるかもしれませんね。

明治維新とか大東亜戦争の敗戦で、いろんな環境が大きく変わってしまいましたから、

まだまだまとまっていないだけで、そのうち大天才が登場して体系化すれば、それも

日本を代表する文化として歴史の残るのかもしれません。

短歌や俳句だって、けっこうな人がボチボチ楽しんでいたりしたのが、ある時突然、

天才が登場して、世に残る事になったんでしょう。

茶の湯でも、婆娑羅茶や闘茶の歴史があって、村田珠光、武野紹鴎ときて、利休で大成したんです。

能も歌舞伎もみんなそうじゃないんでしょうか。

それとその天才を生み出す、時代背景も大事でしょうね。

はなしはまたまたずれてしまいましたが、同じ文化の流入があったとしても、その国民・

民族のもっているものによって、芸術の様式というのは変わっていくんでしょうね。

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日本の美術と工芸 第10話2017/2/9

そうした絵には『画面そのものに芸術的欠陥があっても損なわない真実性と力強さがあり、そうした力強さと真実性とが混ざり合ってグロテスクであるにも関わらず存在している』

画面そのものにある芸術的欠陥・・・

写実性でしょうか?

たぶん、これは浮世絵をみて書いているのでしょうが、まぁ、確かにグロテスクといえばグロテスクな感じはしないではありません。

絵というものにはいろんな機能があると想うんです。

私は芸術に関しては専門家じゃないので、詳しい事は解りませんし間違っているかもしれませんが。

ひとつは記録に残す。

貴族や大富豪が有名な画家に自画像を描かせたのは自分の絶頂期の記録をこの画家に描かせて残しておきたいという名誉欲からでしょう。

あとひとつは絵解きです。

歴史やら、人物伝が漫画形式で出版されている様ですが、これは何故かと言えば解りやすい、とっかかりが掴みやすいからでしょう。

昔の事ですから識字率も低い。

それで、お釈迦様やイエス・キリストの教えを絵に描いて説明した。

どちらにしても時間を止めて、それを記録して、だれもがそれを観れるようにする。

そが絵のもつもともとの機能だろうと想うんですね。

歌舞伎役者の絵はブロマイドだったんだろうし、東海道五十三次は、いまでいえば旅行雑誌。るるぶみたいなもんでしょうか。

その目的を達成するにはまずは、パンチがあること、伝えたい事、知らせたいことが、一目瞭然に眼に入ってくることでしょう。

今で言うならポスター的な役割が求められたはずです。

ロートレックミュシャを観たら、グロテスクとは言わないですけど、なにか平板的で浮世絵とよく似た感じを覚えるのはそのせいじゃないでしょうか。

例えば、顔写真をポスターにするのと、割にザッとした版画で似顔絵を表現したものをポスターにするのと、どちらがインパクトがあるでしょうか。

私は後者だと想います。

それにあまりに精密な絵は通りがかりでは眼に入ってこない。

食い道楽の人形やかに道楽のカニも、グロテスクで幼稚性を残して居るからインパクトがある。

一回観たら忘れられへん!

理屈じゃなくて、ドーンと強引に土足でずかずか入ってくる。

それは、まだ完全に分析できていないですけど、多分空間の採り方なんだろうと想うんです。

私の専門の絣や紅型でもね、本当に良い造形のものは、ほどよい空間を残して居て、意識的にそこに眼が行くように仕組まれているんです。

配置や空間というのは、それ自体の美というのももちろんありますけど、それは、勝負どころに視線を集中させる仕組みなんですよ。

超一流の作家というのは、この作品のこの部分の良さを解って欲しい、そう想っているハズなんです。

私がパッとその作品を観て、『ここ、すごいですね!』と静かに言うと

ニヤリ・・・

このやりとりがたまらないんですね!!

西洋がにはテーマがあるでしょう?

絵の下には、必ずお題目が書いてある。

日本のは?

○○の図

観たらわかりますやんね。

お題が無いんです。

観たら解るからです。

剛速球のストレートだから、力強く真実性を感じるんです。

うそくさいけど、伝えたい事が伝わる。

西洋画みたら、『うまいこと描いたぁるなぁ』と想いますけど、

浮世絵観ても、『?』て感じでしょ。

でも、昔の人は『これが団十郎ちゅうやっちゃ』とか

『富士山てこんなんか。金剛山とどっち高いんやろか?』

とか話してたはずです。

そのためには、『すごいな!』『えらい変わってるな!』『きれいやな!』

という感動が心に打ち込めれば十分なんですね。

私としたら、作り方から来る浮世絵の効果も考察したいところですが、それはまたこんど。

(つづく)

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日本の美術と工芸 第9話2017/2/8

『彼らのデザインは、家族およびその国民の生活を感嘆するほどいきいきと描写している』
そして、その生活とは
『何百年にもわたる長い鎖国状態にあった人達が異常な生活で身につけた民族としての日本人のスタイル』は特に日本人のデザイン性を示す物として当てはまる。
私には何を言っているのか良く解りませんねぇ。

何百年にも渡る長い鎖国状態にあった人達が異常な生活で身につけた・・・?

鎖国状態で他国との交流が無かったことが異常?

鎖国していたといっても、長崎は開かれていたし、糸やクスリなどは入って来ていたはずで、それともに、ヤミでいろんなものも入って来ていたはずです。

大陸で地続きであるにしても、今ほど頻繁に外国人が行き来しているはずもないし、江戸時代の日本人がそんなに『異常』と言われる程の環境にいたとは想えないんですけどね。

私が思うにはですよ、文化・芸術の担い手の違いじゃないかと想うんです。

英国を初めとするヨーロッパは、貴族階級がそうであったのに対し、わが国では、鎌倉時代以降、一般庶民=町人がそうであった。

今、伝統文化といわれるもので考えてみるとどうでしょう?

茶道、華道、能楽、文楽、歌舞伎、和歌、短歌、俳句、多くの音曲、絵画・・・

すべてに対して細かく調べた訳ではないですが、主な主体は町人だったのではないでしょうか?

鎖国がもたらしたことは、外国から新しい文化が入ってこなかった事と共に、天下太平をもたらしたとも言えるでしょう。

じゃ、国際港として開かれた堺や、江戸時代の長崎で、外国との交流で欧風文化が花開いたか?と考えたらどうでしょう?

感覚的に言って、現在を見る限りはそんな感じはないですよねぇ。

かえって日本的であるような感じさえします。

特に堺は『モノのはじまりなんでも堺』という位、外国の文物を吸収して、新しいものを発信してきました。

でもそれは、外国から入ってきたそのままではなくて、完全に日本のものとして全国に広まっていったような感じがしています。

それは、皇族や貴族ではなく、町人がやったのです。

鎖国が無かったら?って、タラは海の中にしかいてませんが、鎖国がなかっても、日本の文化力は同じように培われていったのだろうと私は思います。

それは何故かと言えば、国民の文化力が違うからです。

そして、政治的な支配と、文化的な支配が別のところで行われて居たような気がするんです。

つまり、町人は非常に自由で、文化を生み出し、楽しむ余裕も資質もあった。

文化というものが一部の特権階級だけのものではなく、国民みんなもの、特に町人がその主役だったというところが大きく違うところだったんだろうと想うんですよ。

だからこそ、今で言う『民藝』が日本各地にあるわけです。

町人の豊かな審美眼がなければ、すぐれた民藝など出現するはずがないのです。

そもそも、鎖国鎖国っていうけれど、わが国には『環濠集落』というのが各地に点在していて、まったく外界との交流を絶って、独自の生活圏をもっていた場所があったのです。

そこがすごく遅れていたかといえば、全く逆で、驚くほどの洗練された文化と習慣をもっている場所もある事を私は何度も目にしてきました。

もちろん、その地域の民度にもよるのでしょうが、文化の醸成には開かれていることは必ずしも良いとは言えないし、逆に、孤立していたり外界と謝絶していて、熟成できる環境にある方が良い場合が多い、私はそんな感覚をもっています。

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日本の美術と工芸 第8話2017/2/6

『今回の私の目的は、新しくかつ非常に独創的な装飾デザインのスタイルを作りだし、それを芸術産業という大きなグループに新しく適用していく上で、美的および文明化の観点から、日本人が芸術というものを対して何をなしえたかを示すことであろう。逆に芸術が日本人に何をなしたかを示すのではない。とりわけ芸術の才能を使う際に、展開されれる原理をたどる事が私の目的であるが、この原理は、日本人の作品にあるすばらしさの根底になっている』

芸術に対して何をなしえたか?

その後のアールヌーボー、アールデコの流れに大きな影響を与えたのが日本の工芸であったことは、今までも書いた通りです。

それは『装飾』という事でまとめて良いでしょうか。

1番代表的でわかりやすいのがクリムトでしょうかね。

衣裳や背景に抽象的な文様が描かれてますよね。

工芸品だけでなく、美術品にもこういった装飾が加えられるようになっているのです。

私もあまりよく知らないのですが、西洋というか、キリスト教文化圏では、現実的に偶像崇拝が行われて居たために、新興の対象としてはイエス・キリストやマリアの絵や像が造られていたのにたいし、イスラム文化圏では、偶像崇拝が禁止されていた為にアラベスクなどの抽象的な文様が美しく組み合わされた造形が生まれたんだそうです。

日本では、仏教がホトケとして、仏像を拝む習慣がありますが、その他は、山岳信仰であったり、神道は具体的な形となった信仰対象はないですね。

なんなのか解らない柄や文様を『装飾』の為に描く。

つまりは、美しさだけを追求する道具として『文様』が採り入れられたのです。

何の為ではなく、ただ美しさの為。

『これ、ちょっと、ここにこんな柄入れたら、ええ感じやんか』

その延長線上には・・・

意味は無いけど、タダ美しいモノを造ろう・・・

写実的ではなく、徹底的な抽象化。

日本のキモノなどに着けられる家紋がそうですよね。

西洋人はあの紋を見て、腰を抜かしたに違いないのです。

私達がキモノや陶磁器に描いてある絵をみて、これは何の花だ、どの植物だと判別できるのは、見慣れて知っているからです。

たいていの文様は汎用的で、その組み合わせによって伝統文様は造られています。

梅とかキキョウとか桜とか松とか。

それはただの『柄』である場合が多い。

その柄が如何に美しく表現されているか。

全体の中で統一感があり、妙を得ているか。

そこが問題なんですね。

だからこそ、日本の美は『空間の美』と言われるのです。

そして、その延長線上に、シュール・レアリズムがあったのだろう・・・

私はそう考えています。

これはまぁ、私の勝手な解釈ではあるのですがね。

(つづく)

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日本の美術と工芸 第7話 2017/2/2

『この国の人々が発展させた東洋固有の特質や文明を生み出すのに、芸術と芸術文化がどのような影響を与えたか』

ということに、オールコックは疑問が湧き出した、と書いています。

おかしな事を言うなぁ、と私は思います。

特質や文明があるから、芸術が生まれるんじゃないんですか?

芸術が特質や文化を生む訳じゃない。

芸術というのは、その民族に根ざした習慣を土台にして、突然生まれ出た一人の天才によって、芸術というレベルにまで高められるんだと想うんです。

能だって茶道だってそうです。

田楽・申楽があり、観阿弥・世阿弥の登場で、芸術の域まで到達したし、

お茶を飲む文化はずっと前から民衆の生活にも浸透していて、そこに村田珠光、武野紹鴎、千利休をバトンが渡されて、これも芸術となった。

芸術と芸術でないモノの境をどこに設けるかというのも難しい話ですが、それはおいておいても、高いレベルで体系化されたのは確かでしょう。

でももし、観阿弥や利休が生まれなくても、申楽の延長線上にあるものは続いて来ていたかもしれないし、お抹茶も飲まれていたかも知れない。

また、総合芸術としての能や茶の湯がまた新たな芸術を生んだのも確かでしょう。

しかしそれもこれも、それを受け入れる、私達日本人の高い精神性と文化力があってこそです。

なぜ、日本人はそうなのか?といえば、それはDNAによるものも大きいのでしょうが、1番は風土・自然環境だろうと私は思います。

四季に富み、緑豊かで、美しい川や海。

そして1番は豊穣な国土でしょう。

豊かな農水産物があって、食が足りて居てこそ、文化は生まれるのです。

明日食べるものもなくては、文化は生まれにくい。

わが国は、ほっといたら土から食べられる草が生え、秋には様々な木の実がなる。

短く急な流れの川は時に人間生活にダメージを与えるが、それがまた土地を豊かにもする。

豊かな森は、河口の小魚の餌となり、その小魚はまた大きな魚の餌となり、針を投げ入れただけで魚が釣れる豊かな海が造られたのです。

わが国では皇族や貴族などの上流階級だけでなく、庶民階級によって文化が創られ、浸透していったのは、一般庶民も食うに事欠かず、自由な暮らしを謳歌していた事によるものだと私は考えています。

民藝の中に素晴らしい物があるというのは、まさに庶民の生活レベルの高さを示す物なのです。

(つづく)

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