『芸術と狂気』2014/4/3

大阪芸大に通っていた時から、私はずっと『芸術家と狂気』について考えています。

精神的に病んだ人がすごい芸術作品を生み出す・・・?

これって本当でしょうか?

確かに映画や小説で紹介される画家や作曲家の生涯は奇異に飛んでいて、普通の人では無いように感じられます。

最近『カラヴァッジョ』の映画をみましたが、これもそんな感じです。

しかしながら、私が実際に接している『工人』は、普通の人です。

風変わりな人もいるにはいますが、極めて常識的な人が多い。

陶芸家も何人か知ってますが、同じです。

普通の人です。

だのに、なんで、芸術家には精神に異常を来している人が多い様に言われるのでしょうか。

私は、おかしい、おかしい、なぜなだんだろう?って、ずっと考えて来ました。

なぜなら、美は健康に宿り、健康的な作品は健康的な人からしか生まれないはずだ、と想うからです。

ですから、私は奇妙な格好をした芸術家気取りの人は好きになれません。

芸術家だからといって、麻薬や覚せい剤におぼれる人を許す気には全くなれない。

ですから、芸術家、クリエーターであっても常識人であるべきだし、常識人でも良い作品は生み出し得るはずだ、ずっとそう思ってきました。

しかし、ようやく謎が解けてきたような気がします。

日本の工芸家で狂気を感じる人は(ほとんど)居ません。

なぜ?

まず、生活の中で使われる物であるから。

生活の中で使われる物がおかしな人の作品あって欲しいはずがないですよね。

ご飯を盛るお茶碗が、キーさんの作品だったら・・・イヤですよね。

でも、私達が普段使ってる器物がどんな人が作っているのか、普通は知りません。

江戸時代までは、誰が描いた絵かとか、誰が作った皿だとか、そういうのは言われなかったんです。

作った人と作品が結びつけられるようになったのは、明治以降。

陶磁器が輸出品となってからです。

西洋では個性が重視される時代になっていて、誰が作ったのかを表示しなければ高値で取引されなかった。

作品=個人の個性とされるようになったわけです。

洋服も、料理も、建築もだんだんそうなってきてますよね。

そもそも日本にはそういう考え方・価値観は無かったんです。

物は物で、そこにまた別の魂が宿る、そういう考え方でした。

ところが西洋化して、物にはその作った人の魂(人格)が宿っている、そう考えるようになった。

そうなると、その作られた作品がどんな内容かより、どんな人が作ったのかに興味が移るようになります。

西洋画の解説を読むと、作者がどんな人だったのか、創作された環境はどんなだったのか、彼の思想的背景は?など、周辺的な言葉ばかりが並べ立てられます。

でも、私は河内に住んでいますが、葛井寺の千手観音(国宝)が誰の手で作られたのか、その人がどんな人だったのか全然知りません。

興福寺も近いですが、阿修羅の作者もどんな人だったのか知りません。

葛飾北斎や安藤広重もの人物像もたぶん近年になって勝手に作り上げられたものじゃないでしょうか。

大阪の有名な将棋指しの坂田三吉も全然ああいう豪気な人ではなく、極めておとなしい礼儀正しい人だったそうです。

でも、そんな常識人なら、映画や歌にしても面白くないですよね。

ポイントはソコです。

つまり、普通の人が作ったんじゃ、面白くないのです。

ヘンな人、悪いヤツ、そんな人が凄い作品を作った方が、面白い、話題性がある。

話題になる=沢山売れる、高く売れる。

そういう事です。

最近も、そういうのありましたよね。

佐村河内守・・・

私はサムラ カワチノカミ と読んでしまいましたが・・・

どういう内容だったかは読者のみなさんもよくご存じだと想いますが、全く同じ構図です。

事実が露見したあと、まったく普通の格好をした当人が出てきましたよね。

あの人が作ったら、話題になったでしょうか?

曲が素晴らしくても、普通の人が作ったらそんなに話題にならない=売れないんです。

簡単に言えば、注目されないんです。

聴覚障害があって、見た目には視覚障害もありそうで、そういう人が広島の原爆をイメージした曲を作って平和を祈る・・

NHKでこんなの流せば、だれもが『えっ!!!』って想いますよね。

素晴らしい!っておもうし、彼は天才に違いない!って誰しもが想う。

おそらく、棟方志功の釈迦十大弟子にまつわる話も同じような事だと想いますよ、私は。

また、ギャラリストの方も、そんなおかしな人との逸話を披露した方が、自分が芸術を理解していると顧客に想わせやすい。

『○○さん、この絵を描いた画家の先生ってどんな人なの?』

『まぁ、普通の人ですわ』

これじゃ、商売にならないでしょ?

織物の世界もそうですね。

良い織物を作る人は、とんでもない年老いたおばあちゃんだと想われている。

年若い美人が作るご飯より、小太りのオバチャンが作るご飯の方が美味しい。

だれしも、そう思うでしょう。

つまり、天才=奇人という先入観の壺にはめられているんです。

それは、私達一般人もそうですし、芸術に携わる人も同じなんだろうと想います。

変わり者だと言われると、自分は芸術に向いているんじゃないだろうか、と想う。

山下清の絵は好きですけど、あの絵が私が描いたとしたら、人気が出るでしょうか。

私の描いた絵も大して変わらないと想いますし(苦笑)、ああいう絵を描く人は沢山いると想います。

昔の絵巻物の中から、山下清の絵が出てきたとして、すごい!って感じるでしょうか。

感じるのは、本当の意味で感性が研ぎ澄まされている人であって、そんな人はそんなに大勢いません。

しかし、出土した縄文土器は、誰が作ったかわらか無くてもすごい!と想うでしょう。

運慶・快慶の作品はそれがもしかして、彼らの作品でなかったとしても、その価値になんの変化もありません。

作品に作者の人格や人生は投影されないんです。

作品の中の個性を重視するから、その個性がぶっ飛んでいるものが珍重される、ただそれだけだと私は思います。

ぶっ飛んだ個性に価値がないと言っているのではありません。

作者の個性に引きずられてはいけない。作品を直で見るべきだ。そう思うんです。

最近読んだ本にも書いてありましたけど、芸術作品を見たり、工芸品を使うとき、その主役は誰か?

それは受容者たる、私達なんです。

作品を見て、使って、私達個人個人が自分の心に何を感じるか。

それ以上でもそれ以下でもない。

私達の心に入って、形成された物。

それが、その作品そのものなんです。

草間弥生の作品を見た後で、草間弥生さんの姿を見たら、さもありなん!と想うことでしょう。

どうみても普通じゃない(笑)

でも、私は彼女の気持ちが解ります。

自分の世界にズッポリと入ってしまわないと、発想が途切れる恐怖感があるんです。

もっと、もっと、もっと・・!!

もっと良い物が作りたい、もっと研ぎ澄まされた作品を作りたい!

もっと、見る人の心に突き刺してやりたい!!

そうすると、だんだん、精神が濃縮してくる。

濃縮してしまった人間は傍目から見ると、おかしな人になってしまう・・

グスタフ・クリムトもそうだったんだろうと想います。

イサドラ・ダンカンもそう。

おかしな人が良い作品を作るんじゃない。

スポーツ選手が厳しい練習をして、体がガタガタになるように、1カ所を極端に鍛えると、全体のバランスが崩れて、おかしくなってくるんです。

それはどうしてそうなるかというと、個性のエキスを抽出しようとするからです。

その結果だけを見て、名をなした芸術家が産卵を終えた鮭の様になっている姿を見て、

あれが芸術家の姿だ!と私達の心に植え付けてしまうのです。

いわば、印象操作、マーケティング戦略にまんまとはまっているんです。

サムラカワチノカミだけじゃなくて、STAPおぼちゃんもそうですね。

マーケティング・アイを凝らして見れば、そんな例は数限りなくあります。

イヤ、そんなのばっかです。

問屋のオッサンが作家を名乗るとき、必ず、ヒゲを伸ばすか、髪を伸ばして後ろで括るか、普通の会社員ではしないことをします。

そうすると、芸術家っぽく見えるからです。

ものづくりする人が、金髪にしたり、奇抜な格好をするのもそうでしょう。

常人では、良い物、面白い物が出来ない。みんなそう思っている。

でも、実は普通の人です。

でも、私は思うんですよ。

芸術をやっていて、精神障害になって、もし、その人が苦しんでいるなら、助けてあげる方法は無いのかって。

また、最近、こんな話を本で読みました。

『なぜ、画家は自分のアトリエや画材を美しく保ち、使いやすいように整理しておかないのか。ふつう、良いモノを作る人はキチンと整理して掃除もして、よい環境をととのえているものだ。それは、優れた芸術家がそうしてきた、そういうものであったような幻想・先入観があるからだ。しかし、それは間違っている』

商売と屏風は曲がらなきゃ立たない。

この言葉が間違っているように、

何か救いになる方法があるのではないかと想うんです。

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『第66回沖展図録を見て』2014/4/2

沖縄もずや会のさるちゃんにお願いして、図録を送ってもらいました。

なかなか沖展に合わせて行くことができず、もう何年も見てません。

ちいさな写真で意見を書くのは難しいのですが、せっかく、さるちゃんにもお手間をとっていただいたので、想うところを書いておきたいと想います。

【染色】

んー、なんかいつもどおり。

ガッカリです。

ほとんどの作品が、和装で言うところの『いわゆる小紋』じゃないですか。

小紋を意識しているとしか想えないほど、柄が小さい。

私は、琉球びんがたの魅力は突き彫りで作られる線の美しさだと想ってますが、

これじゃ、全然わかんないじゃないですか?

文様を大きく採って、空間を空ければ、線の美しさ、造形のすばらしさは良くも悪くも現れると想うのです。

モチーフなんて正直、どうだっていいと想うんですよ。

極端な話、線だけ描いてたって美しい物は美しい。

この図録に載っているのは全部、そのまま紅型小紋として問屋に卸せる物ばかり。

その為に作っているとしか想えないです。

こういう作品の写真を載せるなら、絵羽の全体写真なんて要らないでしょう。

柄の一部分、ワンリピートのアップで良いし、そうあるべきです。

そうすれば、写真でも、技量は一目瞭然です。

仲本のなちゃんの作品について、墨のラインを細くした方が良いって書いて居る人いますけど、そんなコトしたら、スカスカで個性のない作品になっちゃいますよね。

この力強い線があるから、パンチがあって、流れがあるんです。

現物を見てみたいとおもったのは、のなちゃんの作品だけですね。

準会員賞の宮城守男さんの作品はもちろん素晴らしいと想うし、美しいとも想いますけど、びんがたでコレを作る必要があるかなって、私なんかは思うんですよ。

この手の作品なら、京都でもつくれます。

なぜ紅型なのか、なぜ顔料を使うのか、それを考えると紅型でしか出来ない物を望みたくなるんです。

すごい技術だと想いますし、センスも良いと想います。

でも、そんなのは日本中にごまんといます。

加賀友禅もあるし東京友禅、名古屋友禅と良い染めはたくさんある。

ですから、『これは紅型でしかできないな!』と想えるものじゃないと、魅力を感じない。

せっかく自分で図案を作って、型まで彫るんですから、ドーンと自分を前にだした作品にしてほしいんですよね。

キレイなだけの作品は世の中にいっぱいあるし、室町に転がってますから。

【織物】

会員の人達はさすがですね。

素晴らしい。

祝嶺先生の手縞は圧巻です。

ページを開いた途端にドーンと目に入ってきました。

でも、全体的にはちょっと手詰まり感は感じますね。

会員の元気な作品に比べて、準会員以下の作品の精彩の無いこと・・

写真が載せられているのは確かに技術的には上手な人ばかりですが、華やかさが無いですね。

沖展といえばお祭りなんですし、若い人に刺激を与えるくらいの作品を出して欲しいですね。

紅型もそうですけど、そのまま問屋に卸せるような作品つくっても、その辺のゴフクヤの展示会みたいになるだけです。

その辺は会員の方々は解っていたんでしょうか。

非常に華やかな作品が多いです。

こんな時代だからこそ、パーッと会場が明るくなるような作品で満たして欲しいと想うんですよ。

沖展なんかで作品を見て、『あー!この人にならあの作品を作らせてみたい!』と想えなきゃ意味ないんです。

『この人なら、できるかもしれない!』

それを感じるために足を運ぶんです。

藍をつかっただとか、なんの染料だとか、技法がどうだとか、そんなのは私にゃ関係ないんです。

その素材や技法を使って、どれだけ『可能性』を感じさせてくれて、沖縄の染織の明るい未来が見通せるか、それが大事なんです。それがすべてです。

手織りの産地としてこれだけ意匠が競えるのは沖縄だけだと想います。

もっともっと、自分の技術を、デザイン力を、色のセンスを、全面に堂々と打ち出してきても良いように思います。

作品だけを見て、誰が作ったか解る様でないとダメだと私は思いますね。

【総評】に関して、一昨年まで辛辣に批判してきましたが、昨年からは良くなったようです。

でも、もっと沖縄染織を引っ張っていく熱い気持ちが伝わるような総評であってほしい。

染色に関しても織物に関しても、そう思います。

また、なぜ沖縄タイムスHPへの掲載をやめてしまったのでしょうか。

批判されるのが怖いからですか?

染め物や織物を作って世に出す人が、自分の意見を批判されたから、表に出すのを制限するというのはいかがなものでしょうか。

マインドの無い染め物も織物も、そんなのは伝統染織ではない。

マインドを胸を張って語れないなら、審査や論評などする資格もない。

そんな人が作品を作っても、だれかの批判を避けたような腰の抜けた作品しか出来ないに決まってます。

私も自分の言葉や文章を責任と信念をもって公表しています。

このブログを読んで反感を持つ人もいらっしゃるでしょう。

しかし、表現者たるもの、それを恐れるべきではない。

それが染織品であっても、言葉であっても同じ事だと私は思います。

沖縄染織の主戦場は沖縄にあらず。

言うまでもなく、本土です。

本土の目の肥えた人達が見る。

そして、周りは全国の腕自慢の染織家の作品ばかり。

その同じ土俵で戦うのです。

そこをキチンと見据えて作品作りをし、作家としての姿勢を正さない限り、

沖縄染織の将来も決して明るい物とは言えない、私はそう思います。

出品者のみなさん、お疲れ様でした。

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『『なんでそないなったんか』を知る』2014/04/02

私の様に伝統の世界に身を置いていると、かならず突き当たるのが『形式』という言葉です。

キモノでも、茶道でも、お能でも形式、決まり事、というのがあります。

好きな人にとってはとても心地よい物でもありますが、この形式が敷居を高くしたり、意味が伝わらなくなっている原因とも言えます。

しかしながら、今は、形式だけを語り、そのいわれ、つまり『なんでそないなったんか』という話は素通りされているように見受けられます。

伝統という長い歴史の中では、要らない物はそぎ落とされて、必要なモノは徐々に付け加えられて、完璧とも言える形になります。

これが今、私達の前にある『形式』なんですね。

そこには、物理的に合理性のあるもの、また、宗教的にそうあるべきもの、等々、様々な要素がぎっしり詰まっているんですね。

ところが、あたまから形式ばかりを言われると、

『そんなん、どうでもええやんか』とか

『めんどくさい』とか

『もっと自由にやりたい』とか

考えるようになると想います。

気持ちはわかりますが、そうやって長い時間をかけて育まれてきた形式を無視することは、そこに本来存在するはずの『意味』を無くしてしまう事になるんだろうと想うんです。

茶道やお能の事は、先生方にお任せするとして、キモノの世界では、形式だけに拘泥してしまうあまり、かえってその形式を破ろうとするきらいがあるようです。

キモノというのは何故今の形になったのか。

文様は何を意味しているのか。

更衣の意味は。

してはいけない事は何故してはいけないのか。

全部意味があるんです。

おそらく、茶道もお能もきまりごとにはキチンとした意味があるのだろうと想います。

こうすべきということは、こうすべきだからそうすべきなんですし、

してはいけないことは、してはいけないから、してはいけないんです。

それを『ま、ええやんか』というのでは『意味』が無いんだろうと思います。

『これこれこういう目的の為にやるんだから、そんな形式にとらわれることない』という意見があるかもしれませんが、

それは、ご飯を食べるのは栄養を補給するためなんだから、お膳の上でなくても、手づかみで立て膝して食べてもええねん、というのと同じ事でしょう。

私達のような伝統の世界への『誘(いざな)い手』は、形式の中にある『意味』をきちんと伝える責任があると想うのです。

最近問題になっている『花魁着せ』ですが、これについて私は良いとも悪いとも言わないことにしています。

しかし、花魁が何を意味するのか。

花魁はどんな存在だったのか。

成人式は何をする場なのか。

そして、自分はどうやって生まれて、現在存在しているのか・・・

それを着せる人も、親御さんも教えた上で、それでも『ええねん。やってみたいねん』というなら、

『縁なき衆生は度し難し』

としか言いようが無いのです。

今の時代、物は豊かですし、誰が何をやっても、とがめる人も少ないです。

価値観は多様ですし、自分と違うことをいちいち気にしていたら、キリがありません。

ましてや、多くの人が『これでいいのだ!』と言っている事を、硬い事を言ってとがめ立てするのは、とてつもなくイヤなことです。

その道で有名になっている人が言っていることを、私の様な者がいくら言ってもひっくりかえりません。

だから言わない事にしています。

言わないです。

『ほっといてーや。何えらそうに言うてんの。○○先生がそない言うてはったから間違いないし』

と言われたら、もうそれで終わりです。

でも、きちんと学び、きちんと知っておかねばならないし、正しい事を知りたいと想う人には前に進めるようにお手伝いしたいと想うのです。

我が国の歴史は2700年に及びます。

服飾史だけをひもといても、膨大な量になります。

文化史ということになると、とてつもない世界です。

でも、知っておかねばならない。

私達が勉強して伝えないと、キモノや染織のおもしろさ、意味を誰が教えるのでしょう。

『なんでそないなったんか』を知れば、キモノも我が国の文化も、もちろん、我が国そのものも、大好きなり、その歴史に敬意を持つに決まっているんです。

ちょろっと勉強して知った気になってないで、その道のプロならもっともっと踏み込まないとウソだと想います。

『なんでや?』と思い出して、勉強しだしたらキリがない。そんなもん、売る事に関係あらへん。

たしかにそうです。

茶道の世界だって、高いお道具を買い、型どおりの点前をおさめて茶名をもらえば、ひとかどの茶人と言われるのかもしれません。

でも、それでいいのでしょうか?

それで満足なのでしょうか?

自分自身がそれをヨシとするのか?

それがすべてだろうと私は思います。

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『丹波布を見て』2014/3/27

昨日、丹波布を見て来ました。

羽曳野から100キロちょっとなんですが、増税前だからか大渋滞で3時間かかりました。

開催されていたのはこちらです。

植野記念美術館

https://www.city.tamba.hyogo.jp/site/bijyutukan/2014-3-8.html

丹波布の展示は3月30日までです。

こちらではかつての研修生の作品が展示されていました。

そしてもう一軒、丹波布伝承館へ。

丹波布といえば、柳宗悦が絶賛した布で、私も東京・駒場の日本民藝館でしか見た事がありませんでした。

つくりかたはこんな感じです。

私が説明しなくても↑読めば解りますよね。

伝承館にいらっしゃった方に色々と質問してお話を聞いていたのですが、

この伝承館も丹波市が運営していて、後継者育成も丹波市がやっているのだとか。

現在、実際に丹波布を織っている人は10〜20人。

えらい開きがあるようですが、これにはワケがあるようです。

全国から後継者を募るのですが、2年間の研修を終えると、ほとんどの人が地元に戻って、続ける人は地元で仕事を続ける。

ところが、それも、『丹波布』と名乗って良いのだそうです。

丹波布伝承館で研修を受けた人は伝承館が発行した『丹波布』の証紙を添付して作品が出せると言うことです。

『それじゃ、勝手に名乗っている人もたくさんいるんじゃないですか?』

と聞くと、

『たぶん、そうだと想います』

地元でやっている人は、ほんの数名で、その人達が少しずつ伝承館に作品を持ってくるだけ。

『それじゃ、意味ないじゃないですか?』

と言うと

『そうなんです。ですから、今は研修生は地元優先という事になっています。』

当然ですよね。

丹波布は丹波で伝承されてこそ、意味があるのであって、その技法が他の地方で受け継がれても、丹波布が受け継がれた事にはならない。

なぜなら、民藝は風土と直結したものだからです。

いくら植物染料を使っても、地方から染料を持ってきて、外国産の糸を遣っていたのでは、厳密にはその地域の民藝品とは言えないと私は思います。

風土と生活に密着してこそ、民藝は美しくなる。

たしかに、趣味ベースでやっているから、手間を惜しまずに良いモノができる可能性があるとも言えるのですが。

結果としての作品は、見た目は美しいと想います。

自分の手で引いた木綿の糸に植物染料。

それを手織りするのですから、きちんと造れば美しくなるでしょう。

ただ、衣料としてどうか?という問題があります。

手持ち感はザックリしていて、手触りも気持ちが良い。

でも、織物として粗いのも確かで、収縮を聞いたら縦方向に15〜20%だそうです。

着尺の長さが15mで、なんとか用尺を確保する、という感じです。

15〜20%も縮んだら、風合いも見た目も変化してしまうんじゃ無いでしょうか。

私なら、縮むだけ縮ませて、その変化を楽しむという風にしますが、価格的には決して安い物ではありません。

洋服に仕立てた物もありましたが、縮んで形が崩れてしまうのではないでしょうか。

展示されている反物も表面が波うっていて、織るときの緯糸のテンションむらなのか、織上がった後の収縮なのか解りませんが、値段に見合った織物の姿とは言えないです。

名のある民藝品はそれ自体に価値があるみたいに想ってしまいがちですが、それでは、骨董品の域をでません。

私が興味があるのは、いまから生活の中で使われ、その為に生まれてくる品物です。

工程が昔ながらで、手間がかかっているとか、植物染料遣いで色が美しいとか、それはそれで価値ある事ですが、着尺・帯として織られた物が衣料として十分な使命を果たせないという事になれば、それは、ただのキレに過ぎません。

ただのキレはただのキレ。

使われて美しさを増すことも無ければ、見た目以外の着心地などの快適性、堅牢さを実感することもありません。

衣料であるならば、beautifulであると共に、否、それ以上に、comfortableでなければならない、と私は思います。

それが一体となっているところに『用の美』が存在するのです。

いくら昔ながらの方法で造られていても、表面が波うっていたり、布目が曲がって仕立てしにくいというのでは、衣料としては一流品とは言えないのです。

手だからそれが出来ない、許されるというのであれば、それは手仕事の敗北です。

機械以上の事が出来て初めて、手仕事は価値を生むのです。

それがあってこそ、手仕事は機械生産の物より高価で取引される値打ちがあるのです。

工程が必然的な結果をもたらさないのであれば、それは技量の未熟としか言いようが無い。

丹波布に関しては、もうひと工夫、ふた工夫あれば、もっと良い織物になると想います。

伝承するだけでなく、織った物の美しさに陶酔するのではなく、使ってもらって、着てもらった時の最上の喜びを目標とすべきです。

着られない布は、刻まれて土産物になるだけです。

かつての民藝運動家の罪。

それは、工程に拘泥しすぎて、『いかにつかわれるか』に眼を向けなかったこと、だと私は思います。

工程が昔のままでも、様々な環境は刻々変化している。

人の価値観も変わっている。

人の価値観に沿わないものは、使われなくなる。

これは当然です。

見て美しい物は、昔のままで造れるかも知れない。

でも、本当の意味で、本来の使い方をされて、人に愛される品物は、変わりゆく人々の生活の事情や環境と共に歩んでいかなければなりません。

私達は博物館の学芸員でもありませんし、骨董屋でもありません。

今に生きる布として、どうあるべきか。

作り手と共に考えていきたいと想います。

もずや民藝館

http://www.mozuya.co.jp

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『公募展について想うこと』2014/3/7

春が近づいてきて、沖縄では沖展、5月になれば国展など、美術・工芸関係の公募展が開かれます。

作り手さんからよく『公募展に出そうかしら』とか『今年も出そうかどうか迷っているんです』と言われる事もあります。

私は、『出した方が良いですよ』と言うことにしています。

公募展に出すとなると、それなりの作品を出さなければなりませんし、準備もそれに応じてかかります。

私達商人に出す作品はしばらくお休み、という事になるんですが、長い目で見ると私達にもメリットの方が大きいと判断しているんです。

商売用のものばかり造っていると、マンネリに陥りがちです。

商売上は、そんなに新しい物がなくても、売れ筋商品をリピートしてくれる方が手堅いのです。

何年もそんな制作をしているうちに、新しい物、工夫した物ができなくなるんです。

でも、公募展に出すとなるといろんな人の眼に触れるわけですから、気持ちの入り方も違って当然です。

『どうせ、入賞なんてしないし、審査も納得いかないから』

そういう意見ももちろんあります。

でも、それでもいいじゃないか、と想うんですね。

どんな世界でも、公平とか公正なんてことはあんまりあるものじゃありません。

でも、必ず誰かが見て、良い物は良いと評価しているのも間違いないのです。

入賞したり、最高賞をもらっても、作品が実はくだらなければ、余計にバカにされるだけです。

公募展に出せば、他の人がどんな作品を出しているのかも興味を持つでしょう。

そういう、ある意味の訓練を積み重ねて行く内に創作力というのはつくもんだと想います。

私は大学の時に経済学・経営学のサークルに入って討論会の全国組織に加盟していました。

普通に学ぶだけではなく、外に出て研究内容を発表したり、意見を戦わせることによって、次の勉強の課題が浮き彫りになってきたり、知識がふかまったり、また持論の確立にも役立つものなんです。

ただ、あんまり駆け出しの時には弊害もあるので注意が必要でしょうね。

お世話になっている先生がいらっしゃったら、先生に相談して、十分に力が付いたかどうか、確認し、ご承諾を得てから出す方が良いと想います。

私の様な商人の立場からすれば、才能のある人を発掘するのは、たいてい公募展、あるいは、その時に出された作品の写真集です。

たとえ技術がまだ稚拙であっても、才能の片鱗は十分に感じとれます。

どんなに熟練しても造れない人には造れない、そういう物ってあるんです。

若い人の作品を見ていると、そういう意味で、ドーンと個性を主張してくる作品が少ないのが気がかりです。

どうも入選を狙って、無難になっている様なきがしてしょうがありません。

『せっかくやから目立ったろ!』くらいのやんちゃな根性があってもいいと想うのですがね。

作品を出せば審査員からいろんな事を言われたり、書かれたりするかもしれません。

そんなものは言わしとけば良いんです。

現実には、その論評しているご本人も、どうしたらいいのか解らなくて日夜苦悩しているんですから。

前提となる基本的な技術が無いと、どうしようもありませんけどね。

私も、一時期、どこかの公募展に作品を出してみようかな、と想っていたことがあるんですよ。

もし、なんかの機会でじっくり作品づくりができるチャンスがあったら、何か造って出してみたい。いつもそう想っています。

今年はコレ、来年はこんなのを出したのか、10年前は・・・と記録が残っていると、そこからまた新たな発想も湧いてくるかも知れません。

商品で出すつもりのものを、『これでいいや』なんて出すのならやめたほうがいいかも知れません。

何の意味もないからです。

作品を出すからには、きちんとした心のこもった物を出して欲しいですし、審査員も自分と同じ土俵に立っている作り手なんだと想わなければいけません。

現実に、くだらない人が審査員をしているなんて公募展は山のようにあります。

その人達に、『どやっ!』『解らしたんねん!』

くらいの気持ちでやってほしいですね。

商品としては公募展に出す作品とはまた違った要素が必要なので、その時はまた気持ちを落ち着かせて取り組めば良いのです。

公募展に出すときに真剣に取り組んで良い作品が造れない人に、市場に対応したバランスの取れた商業作品も造れるわけ無いのです。

市場性という制限がある分、商品の方が難しい、力量が試されると言ってもいいくらいです。

それとやっぱり、毎年、毎回、なんらかの明確なテーマを持って望んで欲しいですね。

今年は絣で良いのを造ってみようとか、

この植物染料にこだわってみよう。そんなんでも良いと想います。

自分のステップアップの糧として、取り組まれたら、公募展全体ももっと盛り上がるんじゃないかと想いますね。

どっかの呉服屋の展示会の様な公募展は、もう見たくないですね。

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『機械と手しごと』2014/1/27

基本的な話です。

機械か手仕事か。

どっちがいいか?

芸大の課題の中に、製図もあるんです。

烏口を使って、チマチマ細かい図を描くんです。

本当に骨が折れました。

で、線を引く。

直線。

あるいは円を描く。

定規をあてて、細い線をまっすぐに引く。

円はコンパスで。

方や、熟練した絵師が、まっすぐに線を引く。

あるいは筆で円を描く。

真っ直ぐという事に関しては、定規を当てて、細いペンで引いた線が良いでしょう。

そういう意味で美しい。

でも、フリーハンドで描いた線は?

定規を当ててみると、ゆがんでいるかも知れない。

でも、美しいと感じる・・・かもしれません。

美しく、つまりキレイに線を引く。

それを正確にという事でとらえるならば、定規で引いた方が良い。

でも、それは本当に直線なのか?

顕微鏡で見ればゆがんでいるに決まってます。

定規通りにしか直線は引けません。

熟練した絵師がフリーハンドで引いた線は?

それも正確にはゆがんでいるはずですが、真っ直ぐに見える。

線を二つ並べてみると、たぶん、絵師の線が美しいと感じるだろうと思うんです。

何故?

絵師は美しい線を引こうと鍛錬を積んでいるからです。

定規の当てられた線は、定規にその形を完全に依存します。

でも、定規は美しい線など意識していません。

意識して造られてもいない。

つづれ織の課題を造った時、丸を織るのにとても難儀したのですが、先生の言うとおりにやっても、丸にならないんです。

何度、やりなおしても、菱形にしかならない。

先生に『どないしたらええんですか?』

と聞いたら、『丸にしようと思って織るんです』

丸にしょう、おもてますわいな!

でも、手しごとの世界では、本当に想いが手に伝わる、という事があるみたいなんです。

歌なんかもそうですよね。

情感を込めて上手に歌おうと思わないと、良い歌唱にはなりません。

コンピューターで楽譜通りに音声を出させることは出来るでしょうけど、楽譜通りには出来ても、良い歌、上手い歌にはならない。

私が今、お稽古している謡曲はまさにそうで、一つの能の中で役柄や場面によっても声の出し方が違うんです。

造形の世界も同じじゃないでしょうか。

一つの作品をつくるのに、勝負所や強弱の付け所があるはずです。

それを眼と手で素材に触れながら感じ取って、思う形にしていく。

染織も、陶芸も、素材の状態や気候によって、微妙に条件が変わってきます。

それは、人間でないと解らない。

機械では読み解けない部分なんです。

つまり、素材と向き合いながら、対話しながら、一体となって作業を進めていく。

そこに手しごとの価値があるんだろうと思うんです。

手しごとといいますけど、実際は、手だけじゃなくて、眼や耳や皮膚などすべての感覚を総動員して作業は進められるはずです。

織物なら、一度打ち込むごとに経糸のテンションを確認したり、絣がきちんと描かれているかも確認できます。糸の状態もすべて眼で観て、手で触れて確認する。

糸が切れて初めてブーと鳴ったり、ランプが着いて知らせるのとは違うわけです。

作り手は一手間一手間、確認しながら、作業する。

それも、美しくなれ!と想いながら。

私は商人ですから、作品に対しては厳しい眼を向けます。

どんなに手間がかかっていようが、ダメなモノはダメと言います。

しかし、糸の一本一本にかけれれた手間、それを糸の表情から感じ取りながら観ているんです。

作品をご覧になる時は、心を静めて、ジックリと味わうようにしていただければと思います。

モノからコトへ?2014/1/23

今、流通業界では『モノからコトへ』というコンセプトの取り組みが広がっているらしいです。

つまり、モノを所有することから、コトを体験することを通じてモノに導いていく、という事でしょうか。

焼き物なら、お抹茶を頂く事で、茶道に触れてもらい、そこから茶碗の購入を誘う。

着物なら、着物の着付けの講習会をやったり、着物を着る機会を造って、それをきっかけに。

今は『体験』はなざかりです。

本格的ではなくて、ちょっとさわりだけ味わって、良い気分になる。

歌舞伎や文楽を観て、ちょっと文化的な気分になる。

オーケストラのクラッシックを聴きに行くというのもそんな感じですね。

とりあえず、『ちょっとやってみましょうよ』というところを突破口にして、商機をうかがう。

こんな手法が、今良く使われています。

難しく見えることを、ちょっと実際にやってみると、そうでもなかったり、やると案外興味が湧いたり。

始めることで消費は大きくなるから、市場開拓にはもってこいです。

現実に私も、お茶やお能もそういう事から入りましたし、そのおかげで人生が楽しくなりました。

良き師匠にも恵まれ、お稽古やって本当によかったなぁ、と思っています。

だれしもが気軽にその入り口に立って、雰囲気を味わえる。

とても良いことだと思います。

ただ、作り手さんは、そうであっては不十分な様に思うんです。

モノからコトへ、というのは、入り口への誘いです。

作り手さんが、その体験を作品作りに活かそうとするなら、そこから、グイと踏み込まないといけないように思います。

何故?どうして?

常にそう考え続ける事によって、創作活動への示唆が得られる、私はそう思うんです。

特に伝統の世界は、根っこのところですべて繋がっています。

茶道もお能も、紅型も織物も、全部根っこは同じです。

その根っこのところに触るまで、踏み込まないと意味が無いように思うんです。

特に、『自分には才能が足りない』と思う人は、他分野に足を踏み入れることで、得られることが多い様に思います。

サワリじゃなくて、踏み入れないとダメです。

そういう意味で、いまどきの『モノからコトへ』は、作り手にとっては逆風だとも言えます。

前述の『嗚呼勘違い』と同じ。

サワリの部分で売れた事がかえって成長を阻害することがあります。

私達が目指さないといけないのは、

モノから超モノへ

です。

実用品でありながら、実用品を超えた美しさをもつ。

そんな作品を造らなければなりません。

ご飯を食べたり、お茶を飲んだりする焼き物、陶磁器。

寒さから身を守る為の着物、染織。

それらは実用品ですが、得られるモノは本来的機能以上のものです。

それは、使うことによる『喜び』や『幸福感』です。

大切にしたいコトというのは、体験するコトではなくて、実感するコトなんです。

『これ、ほんまにエエなぁ』

そう思って貰える作品を造りたいのです。

逆に、自分の作品からコトへと誘う。

この着物が着たいから、茶道を習おうとか、そういうのもあるんです。

『モノからコトへ』というのは、うがった見方をすれば、それだけのパンチ力のある作品が無くなったか、見つけられないか、見分けられないか、供給できないか、というかもしれません。

私がよく使う言葉にこういうのがあります。

『まぁ、これでエエわ』と言って買われたいですか?

無難ね、と買ってもらって嬉しいですか?

本当に良い作品というのは、お客様の顔色が変わるもんなんです。

手に持って、あるいは抱きしめて離さない。

自分の作品を、そうやって買ってもらいたいと思いませんか?

そのために何をしなくてはいけないか。

常に本質に眼を向けて、考え続ける。

そして、明るく楽しく前向きに仕事する。

私の様な商人はお客様に興味を持って頂けるようにお誘いするのですが、作り手はその興味を長く持ち続けられる様に、本当に良い作品を造ってもらう事が大事なのだと思います。

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映画『アーティスト』を観て。2014/1/22

昨晩遅くからitunesで観ました。

http://artist.gaga.ne.jp/

今、公開中なのでネタバレは避けますが、とても考えさせられる映画でした。

無声映画のスターが、無名の女優と出会う。

そのスターは、『女優は特徴がなければ』と、唇の上にホクロを描く。

その後、映画会社は無声映画を廃止し、トーキーに切り替えると宣言する。

その俳優は

『私のファンは私の声など聞きたがっていない』

とトーキー映画への出演を拒否。

自分で、無声映画を制作する。

世間は、

『これからはトーキーだ、無声映画など過去の遺物だ』とはやし立てる。

かつてのスターは、無声映画の制作のために全財産を投入。

やっと出来上がった無声映画のクランクインは、彼がホクロを着けたあの女優のデビュー作と同日だった。

もちろん、その女優はトーキーに出演。

結果は、無声映画の惨敗。

かつてのスターは破産に追い込まれ、女優はスターダムにのし上がる。

破産したかつてのスターは、家財道具などすべてを売り払う。

実は、その家財道具を買い取ったのは、付けぼくろの女優だった。

それを知ったかつてのスターは、自殺を図るが、間一髪で。

つけぼくろの女優は、かつてのスターの再生を図る

それは、声を発しない、二人のタップダンスだった。。。

ざっとこんな筋書きです。

この映画を通してすべて無声で描かれています。

芸術というものは時代の移り変わりと共に変化していきます。

絵画も、油絵具が発明されてから画期的に進化したという話を聞いた事があります。

私たち工芸の世界も同じですね。

時代と共に、技術革新があり、それとともに形を変えていきます。

では、それでみんながその船に乗るか、乗れるか、といえばそうではないんです。

自分のやり方、今までやってきた方法に、美を見出し、その枠の中でこそ生まれる価値を追求してきた。

この映画をみるだけで、無声映画の芸術性の高さ、求められる演技力•構成力の高さに気づくはずです。

しかし、大衆は常に新しいものを求める。

利益を追求する人々は、大衆に受け入れられるものをよしとするし、そうせざるを得ない。

時代遅れといわれる手法を愛する人は、そこで苦悩する。

私がやってきた事はもう、受け入れられないのか?

いや、本当にすばらしい作品なら、どんな形でも評価されるはずだ、そうも思う。

しかし、現実は厳しい。

この映画では、時代の流れに翻弄されるアーティストの苦悩する姿が如実に描かれています。

胸が痛くなりました。

『私はアーティストなのだ』という誇りがあってこそ、その作品は芸術的価値は高くなる。

しかし、時代が変わればそれが、そのアーティストにとってはアダになるんです。

最終的には、彼を救ったのは、彼を愛していた『つけぼくろの女優』でした。

彼女は、はじめは、彼の資産を秘密に買い取る事で彼を支えようとした。

しかし、それがかえって彼を傷つけてしまったことに気づく。

『私が間違っていた』

つけぼくろの女優はそういいます。

彼を本当の意味で救う方法は何か?

それは、舞台に上がらせて、アーティストとしての彼の力を思う存分発揮させる事だったんです。

それが、二人でのタップダンスだったんですね。

アーティストの悲哀と共に私が感じるのは、この『つけぼくろの女優』です。

かつてのスターを愛し、尊敬していて、彼の実力も解っていた。

それをトーキーに引っ張りだそうとはせずに、彼の持ち味を引き出し、彼も喜んでできる仕事を見いだした。

無声かトーキーかという映画の世界ではなく、かれの演技力、表現力に注目して『タップダンス』というモノを見つけた。

アーティストというのはプライドをもっていなければ成り立ちません。

でも、そのプライドのために辛酸をなめる事もある。

かつてのスターはどん底まで追い込まれました。

無声の中でこそ、発揮される彼の表現力、そこを見いだし、再び世に出したこの『つけぼくろの女優』はすばらしいと思います。

私のような立場の人間には、とても心にしみる、感動的な映画でした。

これからはいろんな映画も見ていきたいと思います。

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『蚕と繭』2014/1/20

毛織物の工場にいるときに、上司に質問したことがあるんです。

当時、婦人の方で80のボイルという非常に薄くてむこうが透けて見える様な生地を造っていたんですが、私が担当していた輸出の生地は60のトロピカルと言って、分厚い。

何が違うんですか?と聞いたら、

『糸が違う』

当たり前ですよね。

『そんなんは解ってますよ』というと、

『もちろん、原料=毛が違う』という訳です。

つまり、織物は組織や密度などの設計によって違うのは当たり前。

その前の原糸加工、糸が違うところまでは想像できると思うんです。

じゃ、細い毛糸はどうやって造るのか?

毛糸の構成本数を減らしただけじゃダメなんです。

毛糸、獣毛と言っても色々です。

カシミヤやビキューナ、アルパカなんかがそれぞれ違うことは解りますよね。

じゃ、ウールでどれだけ違うのか?

同じウールでも全然違うんです。

原料となる毛が違うから、結果としての糸が違うんです。

毛の細さ、品質によって出来上がる毛糸は違う。

ところが、表示される番手にその品質までは表示されません。

60なら60,48なら48です。

毛糸の番手は単位長さあたりの重さで表示されます。

もうはるか前の話ですが、私が見ただけでも明らかに糸の品質は違います。

見ただけで解る程違う。

原糸は撚糸や染色されて、織物になります。

当然、織物の品質は糸、糸への加工、製織方法、いちばんは原毛の品質に影響されるわけです。

いくら技術があっても48の糸で80のボイルを織ることは出来ない。

薄けりゃいい、軽けりゃいい、という訳ではないからです。

輸出品ならJWIFという団体の輸出検査を受けますし、内地物でも、具合が悪ければ、縫い上がっていても返品されたり、製品直しで戻ってきます。

着物よりはるかに厳しい世界です。

それを踏まえて、絹織物、つまり着物の世界を見てみると・・・

糸が良いと、良い織物が出来るというのは誰もが持つ共通の感覚ですよね。

だから、手紬だの、座繰り糸だの、生絹だの、小石丸だの、と言うわけです。

では、小石丸は別として、手紬したから、座繰りでひいたから、良い糸になるんでしょうか?

蚕、繭の品質に言及した話はされているでしょうか?

否です。

織物作家でも、出来てきた糸の状態でしか品質を判断できません。

良い毛糸にするためには良い羊が良い状態で飼育されていなければならないのと同じで、

良い絹糸を取るためには良い蚕が良い状態で飼育されていなければならないはずです。

調べてみると、『繭検定』という制度がある(あった?)様です。

http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/mokuji.htm

これによれば、繭の状態では品質の善し悪しはわからない。

また、その善し悪しも生産効率が上がるかどうかが判定の基準になっているような感じがします。

ということは、蚕の吐く糸の品質は、ひかれて糸にならないと解らないということです。

織物にする人は、その出来上がった糸を見て、良いとか悪いとか言う訳ですね。

でも、本当はその糸が良いのは、蚕が吐くその細い糸が良いから何じゃないでしょうか。

よい蚕が吐く良い原料を使えば、良い糸は自然に出来るはずです。

良い焼き物には良い土が必要なのと同じです。

あと、どんな加工をするかは、求める風合い、味わいに合致しているかによって選択されるだけです。

特別な手法や、昔ながらの方法をとっているから、良い糸ができるとは限らないのです。

また、繭に関しては素人であろう、織物作家が、繭を買ってきて、良い糸がひけるでしょうか?

前述のとおり、繭の状態ではどんな糸になるかまでの品質判断はできないそうです。

良い布は、良い糸と良い染料と良い技術から生まれます。

良い糸は、良い原料からしか生まれない。

悪い原料をどれだけこねくり回しても、本当に良い糸にはならないし、良い布も出来ない。

それが真実ではないでしょうか。

国産だとか、手引きだとか、座繰りだとか、色々付加価値は付けられますが、一番大事なのは、蚕の吐くその糸ではないでしょうか。

その割に、蚕や繭の話はほとんど聞いたことがありません。

とても不思議です。

何故でしょう?

あのシルクワームを思い出すのは着物を売る上でマイナスだからでしょうか?

蚕の品質の差別化が難しいからでしょうか?

養蚕家がここまで減ってしまっては聞く術もありません。

芭蕉や苧麻ではどうでしょうか?

芭蕉は、糸の色や柔らかさなどによって厳密に選別され、使い分けられていると聞きます。

苧麻も同じです。

しかし、同じ 芭蕉布や宮古上布でも、造られた年代や作品の個体によって、布の品質は
大きく違います。

それは、芭蕉や苧麻の品質が変わったからでしょうか?

織物の品質というのは、

原料の品質×原料の加工技術×糸の加工技術×製織技術

で決まり、どれ一つ欠けても良い物にはならないと思うのですが、

絹織物に関しては、原料の品質についてもっと勉強しなければならないし、

付加価値を付けるための加工技術に眼を奪われすぎているような気がします。

工芸は素材から。素材は自然の恵みから。

染織というものには、農業的視野が不可欠だと思います。

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『クレヨンとスモック』2014/1/17

 もずや民藝館開館から1週間が経とうとしています。

おかげさまで、順調に会員数が増えています。

有り難い事だと思います。

羽曳野の民藝館の方でも少しでもPRしようと、冬用の暖簾と看板を造り始めました。

今ある暖簾は麻地で寒々しいですし、看板は玄関に掛かっていて目立たないので、

人通りが少しでも多い、バス通りに面したところに新しいのを立てようと思っています。

前も手作りでしたが、今回も独力で手作りしようと思っています。

不器用な私が、こういう風に自分でやってみようと思う様になったのは、大阪芸大で勉強していたおかげです。

かといって、器用になったわけでもなく、相変わらず下手くそをさらしているのですが、度胸だけはついたようです。

展示会の案内状もいつも手書きですし、作品の反末文字も自分で書いたものを使ってもらってます。

普通は、パソコンで編集したり、誰か字の上手い人に書いてもらったりするのでしょうが、

何故そうしないか、といえば、『自分と自分がやったことに責任を持つ』という意思表示のつもりなんです。

パソコンの文字や、他人が書いた字を使えば、誰が書いたか解りません。

でも、自分で書いた文字なら、逃れようがないのです。

いわば、私のサインです。

暖簾も看板も、見てもらうためのものですし、うちの前を通る人は

『なんか知らんけど、下手くそやなぁ』

と笑っているかも知れません。

もしかしたら、

『ウマイと勘違いしてるんちゃうか?』

と思われているかも知れませんが、違います。

自分でも下手だと解っています。

でもね、もの作りしてる人で、私の作品見て笑う人は居ませんよ。

いわばね、ちっちゃい子の図画工作みたいなもんなんです。

上手下手じゃなく、造る事が楽しいから、図画の授業って楽しいんでしょう。

今でもたまに下手な絵を描きますが、自分自身で苦笑いしながら楽しんでいるんです。

そんな中から思わぬ発見があったりもします。

私は私がお世話になっている物作りの方々の足下にも遠く及びませんが、それでも『ものづくりの楽しみ』

は知っているつもりです。

だから、強く言えるんです。

『邪念が入っているでしょう!?』って。

私は私の作品を売るつもりも無いし、売れるはずもないので、自分の思うままに配色したり、絵を描いたり出来ます。

50歳近くになって、下手な絵を描こうとすると、子供に戻らないと描けないんです。

幼稚園の時に、スモックを着て、クレヨンで描いた、あの気持ちです。

だから、絵を描くときはクレヨン、パステルを使います。

看板を彫るのには学校用の彫刻刀。

染めは、筒描です。

だれでも出来る簡単な方法で、あまり考えないで、ぶっつけ本番でやります。

そうすると、もちろん立派なものは出来ませんが、やっぱり自分らしいものができる。

自分でも

『あー、私そのものやなぁ・・』

と思うのです。

それでもね・・きちんと見てる人は見てくれていて、

『もずやさん、少しずつ上達してますね』

って、言ってくれるんですよ。

それで十分なんです。

お金をかけてプロに頼むより、自分でやれることはやる。

それで、自分が伝えたいことが伝われば、大成功なんです。

自分で作った物、造ろうとする気持ち、作った物を見せようとする気持ち、出来たときの喜び、

これはお金では買えないんですよ。

それとね・・

これから手しごとの世界は、ますます厳しい局面を迎えると思うんですよ。

もう造っても売れないからやめようか・・そんな風に思う時も来るかも知れません。

そんなとき、このオッサンが嬉しそうに絵を描いたり、木を彫ったり、フェルトをこねてる姿を想像してほしいんです。

織物も染め物も、初めは好きでこの道に入ってくるんでしょう?

それがいつのまにか、目的がお金にかわっていく。

お金は大事ですよ。

お金を得ることは、仕事をする上で一番重要な目標です。

でも、続けられる環境にあるなら、好きな仕事を続けていって欲しい、そう思うんですよ。

あなたの作品はあなたしか生み出せないんですから。

http://mozuya.com/

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