『商道 風姿花伝』第40話

花伝第七 別紙口伝 

【この口伝に花を知る事。まづ、仮齢、花の咲くを見て、よろづに花をたとへ始めし理をわきまふべし】

現代語訳から要点になるところを抜き出してみましょう。

『申楽の場合でも、観客が心の中で新鮮な魅力を感じる事が、そのまま面白いということなのである。「花」と「面白さ」と「めずらしさ」とこの三つは同じ事なのである』

『ただただ、花というのは、観客にとって新鮮なのが花なのである』

『全ての演目を演じきり、あらゆる演出を工夫し尽くして、能の珍しさの何たるかを感得するというのが能の花なのである』

『能の花は役者の工夫が咲かせ、その花の種は稽古である』

『鬼ばかりを得意芸とする役者だと観客が見なすならば、上手く演じているとは見えても、新鮮さは感じるはずはないから、鑑賞しても魅力は感じないのである』

つまり、『面白さ』=『花』は新鮮さにある、と言うことですね。

わかりやすく言えば、『目先を変える』ということでしょうか。

私の場合、琉球染織が本業です。

日本のいろんな染織の中で、沖縄染織をメインにやっています。これが全体の7割を占めます。

普通、単品物の問屋は前売りでは長続きしません。

大手の問屋は企画のアイテムの一つとしてやっている感じ、小売店では何年かに一回程度でしょう。

いくら、お客様に可愛がられていると言っても、同じ物を毎回毎回買ってくださる方はいらっしゃいません。

沖縄の中でも色々と手を変え品を変え、はたまたオリジナルで沖縄物の中に入っても浮かないような物を作り出したり、他から面白い作品を引っ張ってきたりと、工夫をしているんですよ。

同じ作家さんでも、長い付き合いを想定して、制作方針をプランニングします。

派手な物、地味な物、素材、技法、帯、着尺、・・・その作家さんの得手不得手、時代性、流行、景気などを考えながら、制作のお願いをします。

作家さんの特性を活かさないお願いは、作家さんを殺してしまうことになりますから、あくまでも作家さんと真正面から対話しながらやっていきます。そうしないで、勝手放題に造ったものを取っていたのでは、必ず、売れずに残ります。そして、最終的には作家さんも行き詰まります。

『もずやは派手物を造らせる』という話が沖縄で知られているようですが、これはちょっとした訳があるんです。

どうも、あんな指図をするのは、当社だけのようです。

なぜ、そんな事をするかというと、色々理由があるのですが、その中のひとつとして、『派手物を造れば地味物はいつでも造れる』という事があります。

派手なのを上手に造る人は、必ず、地味物も上手に造ります。

でも、地味物ばかり造っている人は、派手物になると手がしびれてしまう人が多い様に感じるのです。

派手物を造れば、その作家さんの得意とする色、色合わせのセンス、などなど作家さんのポテンシャルを把握することができます。

ここが、『新鮮さ』を演出する大きな要素となるんです。

突っ張りが効いているから引き落としが決まるわけですね。

作家さんもある一定以上のレベルになると技能はそう変わりません。すくなくとも商業ベースでは問題にならない。

作品の優劣を決定するのは最終的には『色』です。

無地にしろ、多色物にしろ、一つ一つの色を如何に丹念に執念をもって色出ししているか、その結果良い色が出ているか。

作品全体を見ても、ある一カ所のある色に引き込まれてしまうこともあります。

でも、分析すると、回りの色が良いから、余計に引き立っているんです。

多色使いの作品は、ある意味で、その作家さんの色見本でもあるわけです。

逆に、『勝負色』の無い作家さんは、絶対的な作品が造れません。

私としても非常に指図がしにくいのです。

『この作家さんのコレだったら、絶対即売れ』というのがあるんです。

でも、そればっかり造っていると、ダメなんです。

一定の期間をおいて、その作家さんの新しい魅力を引き出して、紹介しなければなりません。

それがなかなか、自分ではお気づきにならない事が多い。それを補うのも私の仕事なんですね。

そういう意味では、同じ作家さんの同じ技法の作品でも本当の意味での価値は違うんです。

Aさんの花織の帯ならいくら、花倉織の着尺ならいくら、と私がいただく価格はたいてい一定です。

よほどでない限り変わりません。

でも、本当は違う。

普通で言えば、同じ作品を作り続けていれば、だんだん市場価値は下がります。

希少価値性がなくなるからです。

でも、作家さんの出し値は同じです。

中には何十年も全く同じ作品を作り続けている人もいるんですよ。

でも、現実的にその人の作品は価格が下がってきていると想います。

それを下がらないようにしなければならないわけです。

市場価格が下がれば、最終的には作家にも圧力がかかるのです。

その為にはつねに『新鮮さ』を追求せねばなりません。

しかし、伝統染織の場合、技法は制限があります。

新鮮さは奇抜さやタダ単なる目新しさでは表現できません。

市場はそんなに甘くない。

『如何にその作家さんの良い所を引き出すか』が要点なんです。

多様性を演出しながらも、個性=長所をきっちり盛り込む事がなにより大事です。

作品づくりも、我々の商いの世界も同じだと想いますね。

『商道 風姿花伝』第39話

【能のよき・悪しきにつけて、シテの位によりて、相応のところを知るべきなり】

ここでは非常に意味深い事が書かれています。

『能は上手だが能を知らない役者と能はそれほどでもないが能を知っている役者、どちらがいいか?』

一座を成功に導くのは後者だと世阿弥は書いています。

つまり、能を知る=自分を知る=相応のところを知る、ということが大事だということです。

商売でいえば、商品知識があって商売が上手だけども、商いのなんたるかを知らない人よりも、商売はそんなに上手でないが、商いの本質をわかっている人は、その会社・商家を成功に導くということです。

商いというのは非常に奥深いものです。やればやるほど、その道の遠さを感じます。その中でも、『売れるには売れる理由がある』という事を感じるのです。

売れて得意げになっていないで、なぜ売れたのかを自分で分析してみる。

また、売れなかった、売りのがした、と思うとき、なぜそうなってしまったのか、なにが足りなかったのかを、反省してみる。

そうすると、自分や自分の商売というものが客観的に見えてきます。

お客様は自分に何を期待してくださっているのか?

この商品にどんな効用を期待して買ってくださったのか?

この商品の他商品に対する比較優位性はなんなのか?

自分の思惑通りに、お客様に伝わったのか?

いろいろ考えていくと、自分の『勝負玉』がわかってきます。

野球にたとえるなら、配球のコンビネーションも大切です。

商売は点でとらえるのではなく、あくまでも線で、永く愛顧いただけるようにしなければならないからです。

当然、捨てる物、捨てるべき物も見えてきます。

この『捨てるべきもの』を正確に認識して実行できるのがプロです。

プロとはプロフェッション。つまり職業です。

職業とは生活の糧を稼ぐための物です。

お金をいただくのですから、自分にできる最高のものをお客様に提供しなくてはなりません。

なのに、自分の力を過信して、あまり得意ではない事をして自己満足に浸っている・・・これはプロではないのです。

世阿弥が言う、能を知るということ、私が今書いている、商いを知るということは、その道の厳しさを知り、自分の慢心を戒め、常に謙虚である、ということなのではないかと思うのです。

アマチュアであれば、不得意なものに挑戦しようがそれはその人の勝手です。自分の想いを最優先して仕事をするのも、本人の自由。どんなスカタンしても、自分のうちで済むことです。

でも、お金をいただくということになると訳が違います。対価にふさわしい物やサービスがなければ、お客様は納得されません。納得していただけなければ、次の仕事はありません。点で終わってしまうわけです。

ですから世阿弥も『不得手な演目は地方でやれ』と書いているわけです。鑑識眼のある人の前では下手が見抜かれる、主戦場でやったのではお客様を無くしてしまうことになるからです。

能なら演目、商いなら商品に、それぞれ、得意度のランクをつけておくことも必要なのかもしれません。そして同じように大事なのが自分の商いのスタイルです。どんなスタイル、どんなお客様が自分は得意なのか。

この状況なら自分には裁けない、こういうタイプのお客様は自分には手に負えない、それを知っておくのも実は大事なことなんです。

それを知った上で、いかに状況をクリアするかを考え、修練を積むんです。

恥ずかしながら、20年以上商売をしている私にもどうしても苦手なお客様のタイプがあります。逆に、初めてお会いしたのに昔から知っているように感じるお客様もいらっしゃいます。

要は『やるのは人間なんだ』という事です。

得手も苦手もある。

そして、プロの道は果てしなく遠い。

だからこそ、いつも謙虚でいなければならないし、努力を怠ってはいけないのです。

それが実行し続けられれば、大きな失敗をせずに、常に安定した評価が得られるようになるだろう、そういう事を世阿弥は言っているのだと思います。

『商道 風姿花伝』第38話

【一、能に、強き・幽玄、弱き・荒きを知る事】

一昨日、長期の出張から帰還し、おかげさまで昨日48歳の誕生日を迎えることができました。

ありがとうございました。今後ともますます精進を続けますのでよろしくお願い申し上げます。

さて、ここで世阿弥はこう言っています。

幽玄が表現できるのは物まねの主体が幽玄に適しているからで、観衆が幽玄を望むなら、作家は幽玄に即した登場人物・題材を選んで書かねばならない。

着物でいえば、お客様が着物に対して持つイメージが京友禅の様な、はんなりたおやかな物であるなら、そういう商材を選ばねばならない、ということです。

着物ファンならずとも、一般の国民はキモノ=京都、と連想されることでしょう。

私も他府県の方と話をするときに、呉服業界の人間だというと、はじめから京都人だと決めつけられてしまっています。

大阪人=阪神ファン、というより強いかもしれません。

現実に、私は京都人でなく大阪人ですし、阪神ファンでなくてかつての近鉄バファローズファンです(でした)。

能=幽玄と思われていて、お客様もそれを望んでいるなら、それに応えた内容にしたほうがいいと言うわけですね。

だから、キモノのほとんどはいわゆる京風になっている訳です。

ところがどっこい、沖縄まで京風になってしまってきています。

これは問題ですね。

キモノ=京風=沖縄も京風でなければならない、とはならないはずです。

で、わたしは、壮大なる?実験をしてみたわけです。

仮説はこうです。

『伝統の美は普遍的である。地域や国を問わない。だとすれば、沖縄の伝統的な美も普遍的であるはずで、それはそのままヤマト人にも受け入れられるはずだ』

結論は、このブログの読者の方なら想像が付かれるだろうと思います。

仮説は実証されました。

では、キモノ=京風であるとすれば、京風のキモノのファンにも沖縄物は受け入れられるか?

伝統美が普遍的であるならば、受け入れられるはずです。

結論は受け入れられました。

京風と沖縄風。相反すると見えるような二つの染織に一人の顧客が双方を受け入れる。

これはどうしてか?

双方に共通する物は何なのか?

もちろん、双方とは京物でも一流品、沖縄物では弊社の作品群を指します。

美に共通する物は何か?

美とは何か?

それは『見て人間を心地よくするもの』ではないでしょうか。

美味しい物が世界共通であるように、美しい物も共通ですね。

それは、生物としての人間の中に心地よく入ってくる何かをもっているということです。

眼で見る物なら『心の栄養』になるもの、とでも言えばいいでしょうか。

そしてそれは何なのか?

私がいま思いつくところでは『しなやかさと力強さ』ではないかと思うのです。

私たちが景色として観る自然が、それをそのまま持っています。

その中に、身体の心地よさとか、ある意味での緊張感を持つ。

人間は美の中に、生命体としての意識をそのまま投影するのだと思います。

それは、暖かさであったり、明るさであったり、死生観であったり・・・

それは和琉共通です。そして、広い意味で世界共通です。

昔、近鉄バファローズに鈴木啓示という大エースがいました。

5年連続20勝を挙げていましたが、その後スランプに陥っていました。

その時、阪急ブレーブスから電撃的に着任したのが西本幸雄監督でした。

それまでは剛速球一本槍で、二段モーションで投げていた鈴木をよみがえらせたのは西本監督でした。

鈴木は、力投派から軟投派へ転換しようとして、ノーワインドアップ・モーションにし、流れるようなフォームになりました。

その時に、西本監督が言ったのは、

『美しいフォームの中にも力強さがなかったらアカンのや』という言葉だったそうです。

よみがえった鈴木は再度20勝投手に返り咲き、バファローズを初優勝に導くことになりました。

余談の様ですが、美について考えるに参考になる事柄です。

美しさと力強さがあって、そこにはじめて、『すごさ』が宿るんです。

『すごみ』という事ですね。

この『すごみ』こそが、世界共通なんだと思います。

世阿弥がここで言っている幽玄というのは、完璧なまでに完成された美です。

すごみをすでに持っている美です。

それを幽玄というのでしょう。

この『すごみ』を表現するにはどうしたいいのか?

私は小手先に頼らないことだろうと思います。

小手先で造った作品はすぐにわかります。

需要にすりよった作品もすぐに見抜けます。

すごみがないのです。

いかに作家さんが『すごい』作品を作り続けるようにするかがプロデューサーの腕です。

それには、その作家さんの一番好く表現しうる美をくみ取り、引き出し、提案してあげることなのだと私は心得ています。

『商道 風姿花伝』第37話

【作者の思ひ分くべき事あり】

世阿弥は謡が主であり所作は従であり、謡から動作が生まれるのが順当であると書いています。

また、能を書く場合には謡から所作を生まれさせるために、演技を基本にして書かねばならないと書いています。

このように工夫して年功を積めば謡から美しい所作が生まれ、舞はまた謡と一体化するという具合になって、あらゆるおもしろさを一つに融合した上手となろう、というのです。

実に意味の深い言葉です。

わたし流に置き換えるとこうなります。

商品を造り出すときにはまず、コンセプトを考える。

どんな美意識と問題意識を持った商品なのか、この商品を持つ事でお客様にどんな便益を提供できるのか。

これが、私の語る『謡』=ストーリーです。

ストーリーとはその商品の存在意義です。

なぜ、この商品を造り出そうと想ったのか、なぜこの商品を勧めるのか。

これが無ければ、自信をもってお客様に提案できません。

作り手が発案する品物と、私のような商人がつくり出す商品とはそこが違うのです。

謡=ストーリーは、その商品の命です。

それが、形になったのが、染織品です。

形にしてくれる染織家を捜すのです。

やってくれそうな人が見つかったら、作って見てもらう。

そして、試作が出来てきたら、その作品を前にして、自分一人で舞ってみる=演じてみるのです。

説明する、想定問答をこしらえる。

そうすれば、コンセプト=謡の調子に抑揚を加えることが出来ます。

命がさらに強く吹き込まれて、演技全体に力強さが出てきます。

自信が持てなかったら、もてるまで何度も作り直してもらう。

私の持つコンセプト(謡)と染織家がつくる作品(舞)が一体となったときに、本当に素晴らしい商品となるのです。

商品と言えば、売る為の手抜きの物とバカにする芸術家・工芸家(もどき)がいますが、物の本質を解っていません。

伝えたい物があって、その伝達に最も適しているプレイヤーを選んでできるもの、これが商品です。

自分の力量を超えた作品でも、それが可能なプレイヤーであれば、演じてもらい受容者に最高の感動を与えられるのです。

だから、私はプロデューサーなんですね。

古い話で恐縮ですが、もしかしたら前に書いた話かもしれませんが、川内康範という作詞家がいました。

第二回レコード大賞を取った『誰よりも君を愛す』という歌を作ったときに、レコード会社は当時人気のあったマヒナスターズに謡わせます、と川内に半ば決定したように伝えたといいます。

そこで川内は『ちょっとまて。マヒナだけでは、この歌のつらく切ない感情は表現できない。誰か他の歌手に歌わせろ』と止めたんだそうです。

そこで見出されたのがナイトクラブで歌っていた松尾和子だったのです。

松尾和子はフランク永井によって見出され、彼をして『歌手のオレでもグッとくる』といわしめた『すすり泣く様な歌声』の持ち主でした。

かくて、松尾和子+マヒナスターズで売り出されたこの曲は大ヒットし、第二回のレコード大賞を受賞することになったのです。

川内の心には、この『誰よりも君を愛す』に乗せて伝えたい強いメッセージがあった。

でも、それは彼が書いた詞だけではないのです。作曲家も彼が選び、歌い手も彼が選ぶことで、最大の効果を狙ったわけです。

森進一が『おふくろさん』の始めに勝手な詞を着けたことで大騒ぎになりましたが、これは川内の伝えたい事とは違ったからです。

川内は『おふくろさん』で『母の無私の慈愛』を表現したかったのだといいます。

川内本人が歌うわけでもない、彼が作曲するわけでもない。

並べてみれば、川内らしい言葉遣いの詞ばかりです。

でも、彼の一番のすごさは、伝えたいメッセージ=コンセプトの表現に妥協が無かったところだと想います。

染織においても全く同じですね。

何を伝えたいか、何を与えたいか、何で貢献したいか。

その核となるコンセプトを明確にし、表現することにおいて妥協しない。

これが良い作品を造る上で一番大事なことだと想います。

『商道 風姿花伝』第36話

自分で商品を発案する時のことを考えてみましょう。

これは、あるものの廉価版を作ったり、コピーする事ではありません。

今、市場にない新しいコンセプトを持った物を作るという意味です。

人それぞれだと思いますが、私がどういう具合にして新しい商品を作り出すかを紹介してみます。

まずは、自分の得意分野、いわば経営資源を自分なりに認識します。

どこに差別優位があるのか、どこに他と違う魅力があるのか。

それを自ら押さえた上で、市場をじっくり見渡します。

市場を見渡すと、ボコッと落ちている部分が見えてきます。

アレッ?本来はあっていいはずの物がないときがあるのです。

それは日本の市場が一方方向に集中しがちだからです。

特に今はマーケティングやメディアが発達しているので個性というより、売る側の都合で商品の傾向が偏ってしまっているのです。

でも、本当はそんな事はないわけで、好みは人それぞれ。着物、とくに高価な染織品は流行廃りで買うものではないわけです。

あくまでも自分の好みに合うもの、長く使える物を買うのがふつうです。

そのボコッと落ちた物が世の中で必要なものならば、拾い出して新たに生み出す価値があるわけですね。

伝統工芸の世界で、まったく新しい物はありませんし、必要ないと私は思います。

古い物に少しだけ新しさを加えるだけで、光はよみがえると私は考えています。

次はそれを形にしてくれる作り手を探します。

いまおつきあいしている人でもいいし、それがだめなら新しい人を捜します。

これは縁です。

縁があれば、出会いがあるでしょうし、なければお蔵入り。

でも、プランはそのまま持っていて縁がつながるまで待てばいいのです。

あとは、作り手と試行錯誤して、自分のねらいにはまるまでやり続けます。

この過程を進行しながら、どう説明するかのストーリーを考えます。

このときにはじめにどう着想したかが大事になるんです。

なぜ、この商品を生み出したか、この商品がこの世に生み出される意義は何なのか。

それがそのままセールストークになります。

それに、着物としてどうなのか、これを持つとどういうメリットがあるのか・・・

様々な面から商品を客観的に観てみる。

そして、初反があがってきたら、早速販売にかけてみます。

お客様がどう反応なさるかをじっくり観察させていただくきます。

それが自信になったり反省になったりして、また次の製造指図にいかされますし、それでも軌道に乗らなければ廃盤という事もあります。

廃盤になっても、また何かのヒントで再生する場合も多いので、丁寧に取り扱っていきます。

今売れている物や、有名ブランド品のコピーなんて作っても仕方ないのです。そんなのは、商品開発でもなんでもありません。

古い物を掘り起こして、新しい何かを少しだけ付け加える。

新しさは破壊からは生まれません。

お塩ひとつまみ、お酢の一滴で新しい味が生まれます。

先人の努力や感性を信じて尊重し、その上で自信をもって、自分のねらうところを表現してもらう。

最後は自分で売り切ればいいのです。

『商道 風姿花伝』第35話

商人として心得ねばならないことのひとつです。

鑑識眼、審美眼のある人だけを対象にした商品づくり、説明でいいものか。

いわゆる玄人好み、わかる人にはわかる内容でいいのか。

たとえば料理なら、おいしいものは誰が食べてもおいしいと感じるはずです。

ただ、ここでも世阿弥は書いていますが、その土地その土地の好みに合いそうなものを演じる。演目にしても舞い方にしてもそうなのだろうと思います。

その土地に根付いた商売なら、その土地の好みに合わせて物作りをすればいいのでしょうが、私のように全国を歩いて回る場合は商品づくりが非常に難しいのです。

どこにでも通用する商品というのは良さそうで、結局はどこにも通用しない。伝統産業の場合は売れ筋とうのは研究しつくされていて、大手がたくさん持っていて値段も崩れていることが多いのです。

オーソドックスなフォーマルというのは売れそうで売れない。どうみても無難な商品ほど売れ残るんです。

では、どうすればいいかというと、私の場合は今、あまりみないけれども、昔から美しいとされている『伝統美』を探し出して形にするんです。

古い物をみるだけではそれはわかりません。古い物は経年変化しています。それが作られたときにどういう状態だったか、を推測しなければいけません。

世の中の流行というのはいい加減なもので人が勝手に作り出したものです。

多くの場合、生産者、提供者の都合でブームを作って集中販売するわけです。それは好みではなくて流行にすぎないんですね。

伝統にいきる物は流行という物の外にいます。

流行れば必ず廃る。

流行廃りのない日本人のそして人間の奥底にある美意識を捜し当てることこそが普遍的な美の追求なんだと私は思うのですね。

沖縄では私は派手な作品を好むといわれている様ですが、それは関東の織物市場が圧倒的に大きいことと、他社のバイヤーが無難に流れているせいだと思います。

関東が地味好みだといいますが、本当にそうかなぁ?と私は思います。

色のセイの好みの差はありますが、関東で地味物しか売れないかといえば、全くそんなことはありません。

あるとすれば、昔から娘さんのお嫁入り需要が少なくて、派手物が出回らなかったのでしょう。

銀座とかで、華やかな着物を上手に着ているご婦人をみるとうっとりします。

派手な着物を着れないというので、よく聞くのは、『近所の人の手前』です。

贅沢をしているとか、ちゃらちゃらしているとか、近所の人に言われるからというのです。

もちろん、大都会ではそんな話はありませんが、今でもそういう事をおっしゃる地域があるんですよ。

地域性とか、そのお客様のご都合とかいろいろ考えていると、商人が着物のプロデュースなんてできません。

全国区で通用するためには、『あまり深く考えないで自分の好きな物を作る』のが良いように思います。

私の場合、自分で指図して、自分で売るのですからなおさらです。

お客様のお好みは変わっても、私の想いだけは変わらないわけです。

結論としてけっこう、これで通用します。

すべてのお客様に気に入られる品物など所詮できはしない、というあきらめも必要だと思います。

問題はそれが奇形的でない、奇抜でないという事です。

あくまでも、伝統と正統に沿っている。

そうでなければ、普遍性はないし、本当の感動は与えられないでしょう。

『商道 風姿花伝』第34話

【かように申せばとて、わが風体の形木のおろそかならむは、ことにことに能の命あるべからず】

長らくお休みさせて頂いておりましたが、また再開したいと想います。

4月にヘルペスになってから、どうも自己防衛に走りがちで、無理が利かなくなりました。

盆前に夏風邪を引いてしまって、ちょっとやる気が出ずにいましたが、ようやく復活してきました。

というわけで、本題にはいりましょう。

世阿弥は『自らの能の基本がいい加減では決して能芸は立ちゆかないであろう』と書いています。

つまり、自分の『芸風』を確立し熟達してこそ、ありとあらゆる能を演じ尽くして永遠の能の魅力を獲得できる、ということです。

私には私の芸風、つまり弊社の商品独特の味わいとか、私の語り口の特徴があるわけです。

私も、他の会社の商品や他の販売員のトークなどを参考にして自分の中に取り入れる事は数多くあります。

それは、自分自身の技=芸が確立していてこそ初めて出来る事だ、と言うことですね。

私もそう思います。

相撲でも『型』を持っている力士は強くて、大物食いをすると言います。

この型になりさえすれば、平幕でも横綱を倒す事がある、というのがあるそうです。

横綱はなかなかその型にさせないから強いわけですが。

逆に言えば、オールマイティーというのはよっぽどでなければ、勝ち目が薄いということでしょうか。

呉服店でもありますね。

あれこれとよく揃ってはいるけれども、これと言って特徴も魅力もない。

販売員も幅広く知識はあるけれども、これと言って特に詳しいものもないし、こだわりもない。

そんなお店はたいてい、どの商品も面白く無いんです。

何故そうなるのかと言えば、それは商人の意欲とか打ち込み方が現れるからだろうと想います。

いろんな商材があるなかでも、やっぱり自分の性にあう物というのがあるはずなんですね。

私は京友禅が好きとか、自分はやっぱり大島が好きとかね。

好きこそものの上手なれで、好きな物から勧める。

勧めるから、商売も腕が上がるんです。

そして、そうなると商売が面白くなるから、色々と研究する。

つまり、性に合う物が好きになり得意になるわけです。

楽しい努力がそこにある。

こう努力すれば、上手く行く事を知っているから、幅広く対応できるようにもなるんですね。

あれもこれもと、薄く広くやっても、いちおうの対応は無難にできるでしょうが、今時の消費者の方はその程度の知識はお持ちですし、自慢できるレベルでもありません。

1点に深い知識があれば、そこから関連して他の物も深く理解しやすいのです。

そして、興味自体が深くなる。

いろんな商品に熟達して、上手に商うようになるには、一つで良いから十八番の商材、商品群を持つ事です。

そこから、自分の芸風を確立していく。

野球なら、ここのコースに直球が来たら、たとえ160キロでもスタンドに放り込んでやる、というツボを持つ事です。

それは、天性の物として、予め備わっています。

それを自分で探すのです。

どれが売りやすいか、ではなくて、どれが好きか、美しいと想うか。それが肝心です。

わたしが考えるに、商売の理想は1種類の商品で成り立つ事です。

堺にはそんな店がたくさんあって、プノンペンのプノンペンそば、ちく満の蒸し蕎麦、かん袋のくるみ餅・・・

大阪では551の豚まんなんかもそうですね。

そういう、絶対的商品を造り出すのが商売の究極の目標なのです。

はじめはいろんな料理やお菓子をやっていても、どんどん一つに集約されていく。

それは得意料理であったでしょうし、すなわち人気メニューでもあったはずです。

いろんな物を造って売った経験がまた、一つの品物を磨き上げて行く助けにもなる。

軸を持つ、ということでしょうか。

軸があれば、その周りにあるいろんな他の物が土台になって、さらに軸の頂点は高くなるのです。

つねに自分の軸を意識しながら、様々な商材に挑戦していくということが大切なように想います。

『商道 風姿花伝』第33話

【およそ、能の名望を得る事、品々多し】

上手な人は目の利かない観客から評価を受けるのは難しい。下手な人が目利きの評価を得る事も難しい。

下手が目利きの評価を得られないのは当たり前。

でも、本当に上手な役者なら、鑑識眼の無い観客にとっても面白い能を演ずる事は可能である。

そして、それが本当の『花』だ、と世阿弥は書いています。

この部分は、ちょっとトークと商品、両面から考えてみましょうか。

トークの場合、着物に詳しい、あるいは染織などの工芸に詳しいお客様に対応するにはこれは勉強するしかありません。

技法はもちろん、作者の意図、産地の歴史、用途、コーディネート、等々多角的に総合的に説明できなければ、決して満足していただけないでしょう。

でも、そんなお客様ばかりではありません。例えば沖縄の着物について全くご存じないお客様、あるいは、雑誌や本で誤った情報をお持ちのお客様、いろんな方がいらっしゃいます。

とくに、今は本当にたくさんの情報が飛び交っていますから、一通りの知識ならインターネットですぐに手に入ります。

業者もそんなことで勉強している人もおおいのだろうと思います。

どうしたら、様々なお客様にご満足いただけるトークができるか?

私は、産地に足を踏み入れずしては得られない、作家と深い付き合いをせずしては解らない、根っこの部分のお話がいちばん面白い、どなたにでも興味の持てる事なのではないかと思うのです。

私なら沖縄の歴史、風土、作家の性格、などをおもしろおかしく話をします。

時には笑いながら、時には怒りながら、独演会さながら、といった場面もあります。

前述の『切り取られた美』の、隠れている部分、切り取られてしまった部分の想像力を高めてもらうためのヒントを提供しているわけですね。

能で言えば『番組』です。

着物が好きな人で、自然が嫌いという人はいないと思います。

ナチュラリストとかいうのではなくて、自然の緑や花が好きな人は着物も好きなんだろうと思います。

美術館に入ったときに渡される音声ガイドか?というとそうじゃないんです。

いわば、美術館そのもの、なんですね。

絵の周りの環境や空気・・・これを話で演出するわけです。

私には私独特の芸風がありますから、あつかう品物もその芸風にあったもの、という事になるのかも知れません。

しかし、沖縄染織という十八番やはまり役があったとしても、他の演目もそれなりにこなすことはできるわけです。

そして、その話のおもしろさは風土=自然にあるわけですから、産地に行ったら必ずその地方の自然に十分に触れておく、そしてその地域の人となりも知っておくと非常に参考になるのです。

沖縄には沖縄の、京都には京都の、東京には東京の、工芸品を生んだ土壌、人間性というものがあるんです。

なるほど!と思うことも多いわけですね。

そこを自分の中で十分に整理して理解しておくと、作品の説明にも役立ちますし、物作りの助けにもなります。

次に商品です。

解る人には解るけど、解らない人には解らない・・・

そんな品物はたくさんありますね。

上等なものほど、その価値がわかりにくい。

特に織物はわかりにくい。

結城紬や宮古上布が何故、そんなに価値があるのか?着物に関心の無い人が見ても解らないと思います。

では、着物に詳しいといわれる人が本当に解っているのか、というとそれもどうか解りません。

反物を見て『宮古上布』と思うから、これは価値がある、すごい織物だ、価格もすごく高い、と連想するわけで、

何がどう優れているかというと、その制作工程が頭をよぎるからです。

でも、現実には着てみないと解らないのです。

でも、本当の本物はすごいのです。

見ただけで解ります。

でも、着物だけでなく、繊維製品というのは、かなり経験を積まないと見ただけで品質を判断することは難しい。

織りも染めそうです。

まぁ、焼き物だって同じですが。

では、誰が見ても良いものと解る染織品とはどういうものでしょうか。

私は、伝統を踏まえた上で、感性とか感度というものも大切にしていかなければならないものではないかと思うのです。

本質的な品質は本物のプロでないと見抜けません。

私のような20年選手でも、簡単にだまされることもあります。

でも、致命傷を受けない為にどうするかというと、そこに感性の採点欄を付け加えるのです。

染織の品質は染織を見る経験をつまないと解らなくても、感性は他のものでも得られます。

絵でもいいし、自然でも良い。もちろん、他の工芸品でもいいのです。

『着物は解らない』と思い込んでしまったり、『着物の選び方は普通と違う』と思い込まされてしまったりしないで、

自分の感性を信じて直観的に作品と向かい合ってみる。

鑑識眼のあるひとは必ず良い物をお選びになりますし、センスのいい人はやっぱりハイセンスな物を好まれるんです。

これは真実です。

着物をしっているかどうかは実は関係ないんです。

物作りもそうですね。

あまりに品質に拘泥しすぎて、感性への配慮が欠落している作品も多く見受けられます。

わかりやすさ、というのもとても大事なことなんです。

よく、この紬はなんたら亀甲というて、めっちゃ細かいんです、という説明を聞きますよね。

じゃ、なんでそのなんたら亀甲というのが値打ちあって、細かかったらええんですか?

それは、手間がかかるからです・・・・?

合っているようで違うんです。

手間がかかっているから高いというのはマルクス経済学の労働価値説ですかね。

そんな事は工芸や芸術の世界では本来関係ないんです。

どいういう理屈でそうなるのか解らないですが、ほんとうに精緻な技術を駆使して作った物は、目が釘付けになり、手を離せないくらいの魅力があるんです。

値段なんか見なくてもわかります。

もちろん、初めから解るわけではありません。

私も、仕入れをし始めた頃は何度も失敗していますし、今でも血迷うこともあります。

よくこの業界の『委託販売』制度が問題になりますが、なぜ買い取りしない委託販売が問題かというと、鑑識眼が育たないからです。

つまり、委託商品ばかりいくら売っていても、鑑識眼は持てない。消費者は鑑識眼の無い商人から物を買うことになるのです。

商人はすべて感覚に頼って、お客様に物を勧める事になります。

品質はどうやって見極めるか・・・ブランドとかラベル・証紙ということになるわけですね。

何がいいのか、全然わからないけど、これいいですよ、という感じになるんです。

最近、更紗とか江戸小紋とか沖縄物以外もやりはじめましたが、本当にしっかりしたものづくりの過程を経た物は、ほんとうに良いんです。

やってみて、深く確信しました。

感覚なんていうものはいい加減なもので、自分の経験の中でしか、判断できないんです。

では、高度な感性をもった品物を、売る商人、買う消費者が判断するにはどうしたらいいのでしょうか。

私の場合はこういうプロセスを踏んでいます。

江戸小物の場合の話をしてみましょうか。

まず、店頭に並んでいる江戸小紋をじっとみる。

江戸小紋といえば、伝統染織で、何百年も歴史がある。

なのに、こんな安い値段で売り場に転がされている。

何故?

もう一度、二度、三度、何度もじっと見てみる。

魅力が無いことが解ってきます。

でも、私たちもそうなんですが、本当の良い物は簡単に見る事ができません。

私たち商人の方が、見にくい。消費者の皆さんならデパートへ行って、第一人者の作品を見せてください、といえば見る事ができるでしょう。

でも、まずは、そのあたりにある物で良いのです。じっくり見てください。

私は、『これは、きちんと造っていない、江戸小紋の魅力に気づいていない人が指図しているから、こんなものしかできなんだ』と思ったわけです。

紅型もそうですね。紅型の魅力が解っていない人が指図すると魅力無いものしか出来ないのは当然です。

それで、江戸小紋について勉強してみるわけです。

そうすると『ちゃうやんか』と気づくわけです。

私が見ていたのは実は江戸小紋ではなかったんです。

もどき、というやつです。

伝統工芸というのは起承転結、因果応報がはっきりしていて、工程があるから、結果としての美がある。

しっかり手抜きをしないで造れば誰が見ても良い物はできるんです。

伝統の力というのはそういうものなんです。

だから、手間というのは大事なんです。

手間というのは簡単に言えば、球形の彫刻をつくってやすりを掛けようなものです。

やすりで丁寧に擦れば擦るほど、キレイになる。

たとえ多少いびつになっても、なにかしら魅力的な造形になるんです。

これは不思議なんです。だから手抜きの工芸によいものはないんです。

単純作業でも、丁寧に丁寧に手間を重ねれば、それ自体が魅力を醸し出すことになる。

手の魅力というのでしょうか。

だんだん、何を書いているのか解らなくなってきましたが(^^;)、

何が大事かというと、まずは、作品をジッと見るということです。

それまでに入っている情報をすべて頭からのけて、ジッとみる。

黙って集中してみる。

同じ事は商人にも言えて、お勧めするときにお客様のお顔やお姿はもちろん、作品を一瞬でいいから、ジッと見て勧める商人でないと信頼できません。

物を見る感性を養うこと、そして感性の高い作品を生み出すこと、双方に必要な事は、観察=ジッと見る、という事だと私は思っています。

商道 風姿花伝』第32話

【およそ、この道、和州・江州において風体変はれり】

世阿弥は和州=大和と江州=近江では芸風が違うと書いています。

江州では物まねを二の次にして、姿の美しさを基本とする。

大和では、物まねを最優先としてありとあらゆる演目を演じる中で歌舞の芸を実現しようとする。

最終的にはどちらにも精通していなければ、一流の能楽師とは言えないと書いています。

商売に置き換えれば、商品知識の豊富さと話の上手さ、という所でしょうか。

これも両方備わっていなければ、長い商人としての人生で安定した商いをすることはできないと思います。

私もいろんな商人を観てきましたが、若いときから年寄りになるまで一線級の商人でありえた人はまれです。

30代40代のころはものすごい販売員だったひとも、50歳を超えたころにはもう、勢いを失っているという事が多いのです。

とくに、一時期商いの場から離れて、管理者なんかになって復帰してくると、元の力が失われている状態に遭遇します。

つまり、ノリとか勢いで商いをしている人が多いんですね。

あとは、お客様の力を自分の力と勘違いしている。外から見てもすごい!と見えたりするけれども、現実にはお客様を無くすとまったく精彩が無いことが多い。

なぜ、そうなるのかといえば、努力の積み重ねが無いからです。

若いうちからよく売る人はいわゆる営業センスに恵まれている。

だから努力しない事が多いんです。

ところが、お客様はどんどん成長されます。

時代も、趣味趣向も変わっていく。

自分は一流の商人だと思っているけれど、そのうちに若い華やかなこれまたセンスに溢れた商人が現れる。

そこで繋がっているのは『なじみ』だけです。

なじみは大事ですが、これにおぼれたら、商人は成長しません。

ですから、年配になると、よいお客様を頼って、高額品を右から左へ、というような商いになりがちなわけです。

そのお客様がいなくなると、こんどは、安い商品を振り回して、自滅する。

こんなパターンを何度となく観てきました。

そうならないように努力する事が必要なんですが、そのためには商品知識、そして話の幅を広げて話術に磨きをかけることです。

そして、あたらしい商品提案、商品作りができるように常に勉強することだと私は思っています。

人間国宝の作品だと、仰々しく説明する商人がいたとしますね。

じゃ、その商人がその作品のどこが良いと思っているのかを、聞いてみられたらいいと思います。

どこが普通の人のと違うのか?

それが正確につかめていて、自らの感性に照らして説明できたとしたら、その人はあたらしい商品づくりもできるはずなんです。

商品知識と会話のおもしろさというのは、そういう奥深いところまで含めて、の話です。

とくに男性販売員の場合は、話し相手になるという部分においては女性販売員に刃が立ちません。

異性ですから心を許してもらうのは難しい。

ではどうするか?

信頼と尊敬と安心をしていただくことではないでしょうか。

いい年をして、くだらないウダ話しかできず、だらしのない所作をしている様では、相手にしてもらえなくなるのも当然です。

常に自分の感性と知識を磨いていさえすれば、どこに行っても、どんな時代でも対応できる商人でいられるだろうと私は思います。

『商道 風姿花伝』第31話

【奥義に云はく】

ちょっとだけ飛ばして先に進みます。

『ただ望むところの本意とは、当世、この道のともがらを見るに、芸のたしなみはおろそかにして、非道のみ行じ、たまたま陶芸に至る時も、ただ、一夕の戯笑、一旦の名利に染みて、源を忘れて失ふ事、道すでにすたる自説かと、これを嘆くのみなり』

飛ばした部分でも、世阿弥は申楽=能のなりたち、能という芸能がどういう意味をもっているのかを何節にも分けて書いています。

それを土台にして、この章があるわけです。

『その場限りの喝采や一時的な名声に目がくらんで本芸をわすれて伝統を見失ってしまうようでは、能ももう終わりだ』と書いているのです。

そして、それに歯止めをかけるために、誰にも知られたくないこの本を書こうと決意した、ということなのです。

我々商人も、心せねばなりません。

とくに伝統に関わる呉服商は肝に銘じなければならないと想います。

私達商人の使命は、『必要なモノを必要な所に届けて、世の中を豊かにすること』そしてその報酬として利潤を頂くのです。

ですから、利潤を追求することは、商人として当然の事であり、必要とされている度合いが高いほど利潤が大きくなることは当然なのです。

では、大もうけをすればそれでいいのか?

それと同じ事を世阿弥は問うている、そして、それでは行けないと想って風姿花伝を書いたのです。

なぜ、それではいけないのか?

能をはじめとする芸も、商売も『社会性』を持って居るからです。

能は、世の中を平安にし、豊にする効果をもつとされました。

商売も、同じ事です。

そして、特に呉服商は『伝統』というものを背負っています。

伝統を背負うと言うことはどういう事か?

それは、世の中がどう変わろうが、自分の環境がどうであろうが、あくまで守っていくべき物であるということなのです。

だから、世阿弥は書いているのです。

その覚悟を、後進や周りにいる人に伝えたいと想って書いたのだと想うのです。

呉服商の中でも伝統染織に関わる人は特にそうあらねばならないと私は思っています。

もちろん、着物も能も時代と共に、形を少しずつ変えてきたでしょう。

でも、変えて良い物と変えてはいけない物、これをきちんと分別する事がなにより大事です。

そのためには、『この仕事がどういうものなのか』という事を自分の中で整理し、強い信念として持っておくことだろうと想います。

能ならば、受ければいいのか、名声が高まればいいのか?

商いならば、売れれば良いのか?儲かればいいのか?

これは、必要条件であって、十分条件ではないのです。

なぜか?

これらはすべて相対的なモノだからです。

見ている人の好みや、世相を反映して、能の評価は変わるかもしれません。

商いは、景気がよくなればたくさんの人が儲かるし、ブームに乗れば、大もうけとなります。

昔、飛ぶ鳥を落とす勢いだった芸能人や商人が、見るも無惨に落ちぶれている姿は枚挙にいとまがありません。

でも、きちんとした信念と思想をもって仕事に当たってきた人は、時代がどうであろうが、その人がどういう環境であろうが、凜とした気迫に溢れ、尊敬を集めます。

それは、大海を渡る舟の船長のようなものです。

私達、伝統に生きる者は、木造船で南蛮へ渡ろうとしているようなものなのです。

もし、台風に遭ったら・・・帆柱に体をくくりつけて舟もろとも沈むしかないのです。

それが、伝統に生きる者の誇りであり、木造の帆船で如何にこの荒海を渡っていくか、そのための鍛錬を欠かさないのです。

加古たちは、お金の為に乗っているのかもしれません。でも船長はお金のためであってはいけない。

無事に目的地に着くことが最大唯一の目的でなければならない。

私達にとって目的地とはなにか。

次世代に手渡す事です。

世阿弥もまさに、それを憂えているのです。

そして、伝統染織の世界も、破滅の危機がもうそこにまで迫っているのです。

そうなると、他を出し抜いて、結果だけを先に取ろうとする人が必ず出ます。

出し抜かれると、また、次々と後を追う。

これは世の常です。仕方のない事かも知れません。

みんな、自分がかわいい。お金が欲しい、有名になりたい、良い生活がしたい。

しかし、そうしてまで得た果実は、時代が変われば、使ってしまえば、もう何も残らないのです。

それはもう能楽師でもなければ、商売人でもない、と私は思うのです。

簡単に言えば『お金より仕事を大切にする』ということです。

商いでも、利潤を得るにはいろんな方法があります。

その方法が天に恥じないものかどうか、自分自身に問うてみよ、という事です。

そして、お客様にお渡しした品物が様々な角度から見て、自分の『信用の分身』として恥ずかしくないか?という事です。

非常に怖いことですが、扱っている商品は、その人の人格を明らかに反映します。

商品内容や値付け、展開方法を見ていると、その会社の社長の人格がわかるものです。

芸でも同じじゃないでしょうか。

ですから、私達商人は、商品、そして商売のありかたでその人間性を見透かされるのです。

いい加減な商いをする人に、人格者は絶対に居ない。

こすい商売をする人は、かならずいろんな面でこすい。

だから、非常に怖いのです。

怖いから、精進せねばならないのです。

常に突き詰めて、商売とは何か?伝統とは何か?そしてそれを守るということはどういう事なのか?を自問自答し、己を高めてこそ、本当の商人になれると想うし、それが次世代への継承にも繋がる、と私は考えています。