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『日本の民藝』平成30年12月号 〜手織りであればいいのか〜2018/12/3








沖縄であれば手織りというのはしごく当たり前で、手織りでなければ、伝統工芸品としての指定も受けられません。植物染料を遣う作り手も数多くいます。ところが内地では様子が違うらしく、『手織り』だの『手機』などと、価値をたかく想わせる為のキーワードとして使用されている感じさえします。ところが、その作品たるや・・・無惨としか言いようの無いモノも数多く見てきました。
 実際手で織る事の布作りをする上での利点というのは数多くあります。経糸のテンションが緩やかに設定できるために、風合いが良くなるとか、細い糸が使えるとか、細かい技巧が採り入れられるなど、手織りならではの表現が可能になります。ですから、その利点を活かさない事には、手織りである意味は無い、と私は考えています。ところが、機械織よりも風合いが悪く、表現も稚拙、それどころか、布としての体裁を成していない作品が、堂々と公募展や個展に出されているのを見ることがあります。布は基本的には衣服の為の素材として織られる事が多いわけですから、裁断、縫製、もちろん着用に対して適切な品質が必要とされます。ファイバー・アートのつもりなら、それはそれで良いのかもしれません。しかし、着尺地、帯地として出すなら、それにふさわしいものでなければならないのは当然のことです。
 手織にしても植物染料にしても、機械織や化学染料よりもいい結果がでるから遣うのでなければ全く意味がありません。あるいは自分の意図する作品を造るために、手織・植物染料を選択したというのがそもそもあるべき姿です。ですから、なぜその技法・素材を遣ったのかを作り手はきちんと説明できなければならないはずです。出来上がった作品をイメージしてそのために必要な素材を揃え、必要な技法を駆使して、イメージ通りに仕上げるのでなければ、表現としての工芸など成り立つはずもないないのです。良い素材で手間を惜しまないで何となく造ったら、良い物ができた、なんて事は無いはずなのです。それは民芸でも工芸でもなく『てなぐさみ』でしょう。
 もし、その作り手の狙う作品が、化学繊維、化学染料遣い、そして動力織機で織ることが適切なら、それはそれで妥当な選択です。別に手織や天然染料が尊い訳ではない、と私は思います。手織でやるのであれば、手織独特の味わいが出て、そこに正確さ、緻密さも加わり、さらに衣料素材として的確な品質がなければ、何の意味も無いことです。手織だから、織段や織ムラが出てもしょうがない、耳が不揃いなのは、手織りだから当たり前の事だ、ではないのです。
 民芸運動は『手仕事』の美に対する気づきを与えるものであって、手仕事バンザイではないのではないでしょうか。熟練した手による仕事が本当に良い物を造るとは言っていますが、手でやれば何でも良い、とは言っていないはずです。染料なら、堅牢度を犠牲にして、退色の危険性の高い植物染料を選択するよりも化学染料や両者との併用を考えるのも、民芸の精神に反する物では無いと想います。
 ある有名な植物染料を遣う紬織の作家の作品が、3年で退色して柄が解らないほどになってしまったそうです。その時にその作家が言った言葉が『どんなキレイな織物も歳を重ねれば私みたいなシワくちゃのおばあちゃんになるんです』だと聞きました。もちろん、どんなものも経年劣化は避けられません。しかし、『二十歳の娘を嫁にもらったのに、3年したらおばあちゃんになった』では、それは具合悪いと想います。きちんと着用し、保管すれば30年は実用に耐えるような織物でないと良い品物とは言えないと想います。この作家の一番の問題は、植物染料というイメージで消費者を幻惑して、絶対に欠かしてはいけない、その植物染料の堅牢度を確かめなかったことです。
 また、手仕事の作品、染織でも陶芸でもそうですが、『使い込むことによって増す美』があるのです。私は茶道をたしなみますが、良い道具も使われなければ、美しさを増すことはないし、使い込まれた道具は、出来上がった時よりも更に引き込まれるような魅力を醸し出すのだそうです。『用の美』というのは用いられるために合理的に造られたものが美しいと言うこと以外に、用いられる事によってさらに美しさを増す、と言う意味もあるのではないでしょうか。だからこそ、ある程度の年月の実用に耐えうる作品であるべきですし、喜んで長い間使い込んでもらえるものでないといけないのです。
 手仕事でものをつくるというのは大事な事ですし、美しい物も生み出す事が出来ます。しかし、手仕事=良い作品ではないし、それ自体に価値があるわけでも無い。私も染織も陶芸もやりましたが、私の手仕事作品など、100円ショップの商品にも劣る価値しかないのです。
 もちろん、伝統工芸の世界にどんどん機械を導入しろ等と想っているわけでは全くありません。むしろその逆です。しかし、手仕事を残し、ひいては発展させようとするのであれば、機械生産、化学素材を、圧倒的に凌駕するものをつくり出すのでなければ、市場から姿を消すしかないのです。自らの価値観・美意識に照らして、適切な素材と手段を採る。その一つとして『手織』があるべきで、手段や素材で満足してしまってはいけないのです。

伝統文化と多様性 2017/12/5

私は茶道、謡曲、コーラス、釣り・・等々下手の横好きで多趣味なのですが、特に茶道に関して常々想う事は、お茶を習うということに関しても、それぞれ人によって求める物は多様だなぁ、と言うことです。

初め想っていたことから変わってくる場合もあるでしょうし、初めからずーっと思っている事を貫く人もいる、また、何も得るものは無いと、辞めてしまう人もいるでしょう。

私のお仲間の中でも、お茶に求める物は、多種多様、ひとそれぞれという感じを強く持ちます。

それが、茶道の奥深さ、懐の深さということでもあるのでしょうが、お教えになる先生方は本当に大変だろうとも想いますね。

道具に凝る人、点前を追求する人、自分のライフスタイルのアクセサリーとしている人、雰囲気が好きな人・・・

ほんとにいろいろな感じがします。

それぞれあっていいのだろうと想いますが、何をどう求めようが、満足していれば続けられるし、続ける事に意味があるのだろうと想います。

着物を楽しむということも、全く同じなのだろうと想います。

着物に、そして着物を着ると言うことに、求める物はひとそれぞれ。

伝統文化に触れるとか、キレイな物を着たいとか、昔のライフスタイルを味わいたいとか、着飾って差を付けたいとか、お稽古ごとで着なきゃいけないからとか、身体に良いと聞いたからとか・・

いろいろあるんだと想います。

どれも、良いと想いますし、その趣味・趣向によって現れてくる表現も違うでしょう。

もちろん、ライフスタイルも、お財布も、着る環境も違いますから、多種多様、てんでバラバラということになります。

今、おかしいと想われている事も、あと30年も経てば、だれもおかしいと想わなくなる。

文化とはそういうものです。

否定的な意味ではなく、だからこそ、『自由に思いのまま着る』というのは怖いことでもあるわけですね。

その人の、センスや性格や環境が、見え見えになってしまいますからね。

私の感じるところでは、戦争によって壊されたわが国の伝統文化が、いよいよ消滅してしまいつつありますね。

では、わが国から文化が無くなるかといえば、そんな事は無いわけです。

一度は消えても、同じ土壌に同じタネがあるわけですから、たとえ外来種が来ても、また同じ様な草木が生え、実もなるはず。

わが国の文化は江戸時代という閉鎖された熟成期間がありましたから、非常に高度になったんだと私は理解していますが、今はグローバルとかなんとか行って、たえずいろんな物が入って来ますから、混乱しているんでしょう。

では、沢山の外国人が来た、堺や博多、長崎で文化が醸成しなかったか?と言えば、結論は歴史が示しています。

我々中高年が眉をひそめるような事でも、50年100年経てば、立派な文化として尊重されているかも知れないのです。

昔から日本人というのは舶来好きで、いろんな物が入って来て、その度に、影響を受け、そしてそこから、自らに合う様に熟成をしていったのでしょう。

そう想うと、わが国の文化が頽廃しているとか嘆くことは何も無いと想うのです。

また、必ず、我々とは違うかも知れないが、優れた文化を生み出してくれます。

そこにはまた、日本人らしさが必ず、反映されることでしょう。

しかしながら、心配なのは『ものづくり』です。

和装業界だけでなく、永年日本人が愛してきた伝統工芸が、とてつもない危機に瀕しています。

ものづくりが廃れば、精神性の高まりも限界があります。

精神が退廃すれば、ものづくりも廃ります。

無機質な物しかない世の中には、無機質な生活しかあり得ません。

求め用いる目的はいろいろでも、キチンとしたモノを造れるものづくりを残していかねば、私達の先人が営々と築いてきたモノを土台から失うのではないか、そんな危機感をもたねばならないところまで来ているのかもしれません。

伝統文化に求めるものは多様で良いと想いますが、ちょっと触れるところからもう一歩踏み込んで、『あ、これは楽しいな』『これは面白いな』と感じて、自分の生活に活かしていく。

私達日本人は、古代から同じ日本という国に住み、同じ風土で生きてきたのですから、そこに育まれた文化・習慣を採り入れて暮らす事で、豊かさを感じる事ができると想うのです。

私の様な文化に携わる者の端くれも、押しつけるのではなく、多様性を認めながら優しく提案していく姿勢が必要なのではないかと想います。